リリー・ブレンディ
リリー・ブレンディと言えば、百合。
百合と言えば、リリー・ブレンディ。
ヴァルト王国で少しでも読書に関心がある者なら誰でも、読む読まないは別として名前くらいは知っている。
甘酸っぱい微百合から、濃厚で激重などエロい大人向けな百合、ハンカチ必須の悲恋に、百合ハーレムなどなど、あらゆる方面に向けて新しい百合を開拓してきた。
熱心なファンも多いけれども、粘着なアンチもかなりいる。身バレに細心の注意を払っているけれども、とある粘着なアンチが作者は男、それも金のある上流階級ではないかと、当たりをつけたことから、百合豚クソ野郎と呼ばれることもある。
一時期王国に賛否両論の百合旋風を巻き起こしたリリー・ブレンディは、もう四年ほど新作を出していない。それまでは少なくとも一年に一作は刊行していたにもかかわらずにだ。
死亡説はもちろん、BL推しな王妃ジャスミンによる不当な出版禁止などという荒唐無稽な陰謀論まで、ファンもアンチも実に想像力たくましい説が流れている。
その真相はというと、リリー・ブレンディことリセール公マクシミリアン・ヴァルトンは、なんとなくであった。別に断筆したつもりはない。今でもネタや構想などを書き留めて鍵付きの引き出しにしまってある。ストレスを発散するために始めた低俗な趣味が、あれよあれよと言う間に熱心なファンが増えてしまい、なんだか申し訳なくなったというのもある。
才能があるのにもったいないと言われても、彼は売れっ子作家の実感がまるでない。むしろ、なぜ自分の小説が人気なのかさっぱり理解できない。
このまま二度と書かないかもしれないし、またストレスがたまったら書くかもしれない。未定も未定。だから、期待されても困るのだ。
マクシミリアンは、リチャードに正直に打ち明けた。当然、リチャードは納得しなかった。けれども、総督府から戻ってきたチャールズのおかげで、作者が引くほど読者に熱く語られるのだけは回避できた。
(ジャスミンだけでうんざりだというのに)
すっかり日が暮れた帰り道、来た道と同じはずなのに、やけに長く感じるマクシミリアンだった。
「総督府の連中、わざわざ今晩中に人を集めて船を出すとか言い出すのは想定内だったが、いつも以上にしつこくて、参った参った。俺とリチャードが帰ってこないとか、いらん心配しやがって。まったく情けない奴らだよ」
松明に照らされたチャールズの顔が疲れているように見えるのは、きっと気のせいだろう。
「帰りがいつになるかわからねぇのに、総督府に船を出せるわけにはいかねぇだろうが。んで、明日の朝早く小型船でマックスが乗ってきた船に乗せてもらうことになった。昼前には追いつけるだろ」
「なぜ、明日の朝早く?」
追いかけるなら、早いほうがいいのではないか。
「夜の海は危ない。あの船も沖で錨を下ろしているに決まっている。海はアレの縄張りじゃないが、夜の海は何が潜んでいるかわかったもんじゃない。それに、ウィル兄に会いにいくってのに手ぶらはまずいだろ。なにか特別な手土産がないとな。そうそう、リトルコニーのやつ、ウィル兄にも送りつけたらしいぞ。お前が書いた本」
「………えぇ」
チャールズは、マクシミリアンが知りたくなかった情報をさらりとつけ加える。
(なにそれ、ものすごく会うのが怖いんだが……)
思わず白目むきそうなマクシミリアンだけれども、背後のリチャードから無慈悲な追撃をくらう。
「ウィル兄さんは、コニーが送りつける前から手に入れていた」
「なんで!?」
熱烈な読者の血縁者は、リチャード一人で充分すぎる。暗くてもはっきり分かるほど顔が真っ赤に染まった
「ハハハッ、ウィル兄は収集癖があるからな。お前が書いたからコニーよりも先に手に入れたかったんだろうよ。コニーの叔父馬鹿自慢が始まる前にな」
「しかしそれだと、叔父上よりも先に俺がリリー・ブレンディだと知っていたことになるのでは」
コーネリアスにわたした最初の本は私家本で、適当な筆名すら考えてない頃だったはずだ。行政長官としての勤めを疎かにしないからと、一応コーネリアスに副業を報告したときには、すでにリリー・ブレンディの処女作は書店に並んでいたのだ。いったいどうやってコーネリアスに先んじて入手したというのだろうか。
不可解だと、なにかの間違いだと言えば、チャールズは肩をすくめた。
「ウィル兄に直接聞けるいいだろう。せっかく会いにいくんだからな」
至極もっともな答えに、マクシミリアンは肩を落とした。
(……聞けるわけがないだろ)
まだ会ったこともないウィリアムには、どうか趣味の執筆活動にひと言も触れないでほしいと、切実に願うばかりだ。
(いや、というかチャールズが勝手に話を振りそうで怖い)
チャールズが久しぶりに会う次兄に嬉々としてリリー・ブレンディの話を振りそうな気がする。いや、絶対に話を振るに決まっている。
口は災いの元と言うけれども、チャールズの口がもたらす災いは本人よりも周囲を巻き込むに決まっている。
口止めをしなければならない。けれども、どう口止めするか、それが問題だ。率直に言わないでくれと言ったところで、拒否されるに決まっている。拒否されるにしても、普通に嫌だですめばいい。けれども、チャールズの性格からして、絶対にマクシミリアンをからかってくるに決まっている。慎重に確実に口止めするには、じっくり考えなければならない。
頭が痛い問題をしっかり考えたいマクシミリアンだけれども、チャールズは口を閉じてくれない。
「にしても、お前、何だって女同士で乳繰り合う小説なんか書こうと思ったんだよ」
「それは、叔父上が……」
「リトルコニーが、お前のナマモノBLを読ませたってのなら、俺も知っている。だからって思いつかないだろ、普通」
チャールズの疑問はもっともで、コーネリアスの嫌がらせまがいの課題読書は、単なるきっかけでしかない。男同士の恋愛物を読むよう強制されたからといって、ならば女同士はどうだとはならないだろう。それは、マクシミリアンもわかっていた。同じ本を読まされたコーネリアスの実子ジャックは、激しく父に抗議した。まさに、コーネリアスが期待した通りの反応をしたのだ。百合小説という斜め上を行く返しをした時点で、普通ではないと言われて否定できるわけがなかった。
「……叔父上の想定外のことをして、驚かせたかっただけですよ」
「なるほど、それで普通ではないことをしたのか。コニーなら多少普通でなくとも想定内だろうが、あれは確かに想定外の外だっただろうよ」
チャールズの追求をどうにかごまかせたと、マクシミリアンは胸をなでおろした。と同時に、もうこの話題を終わらせなくてはと思った。強引にでも話題を変えようと、彼が口を開こうとしたときだった。
「チェチェ、わかっタ!!」
唐突に隣りにいたチェチェが弾んだ声を上げたのだ。それまでずっと静かだったから、マクシミリアンはびっくりして危うく小石につまずきそうになった。幸い、誰にも気づかれなかったようだ。けれども、まさかこの片言の大陸語の少年も読者なのではと、心臓はドキドキしたままだ。
「ウィルニー、わかっタ」
杞憂だったとホッとするよりも、チェチェのウィリアムの呼び方にずっこけそうになった。
「ウィルニー、臭いヤツ!!」
「ハハハッ、臭い奴か。ウィル兄に聞かせてやりたいな。なぁ、リチャード」
「ああ、ウィル兄さんの眉間のシワが深くなるのが、目に見えるようだ」
リチャードもなにやら楽しげだ。
「せーかい?」
「ああ、大正解だ、チェチェ」
「やっタ!! やっタ!!」
夜道に、チェチェの歓声が響き渡る。
一人怪訝そうな顔をするマクシミリアンに、チャールズは「香水だ」と説明する。
「どうやら例のリウル河の事故の後、趣味の悪い香水を愛用するようになってな」
「それで、臭いやつ」
「ああ、ここに香水はないからな。チェチェには余計に印象に残ったんだろ。しっかし昔は香水が苦手だったはずなんだがな。……もしかしたら記憶喪失の影響かもしれん」
「理由を尋ねなかったんですか?」
「あそこまで趣味が悪いと、返って聞きづらいもんだ」
「なるほど」
首肯してから、マクシミリアンも趣味の悪い香水を愛用する人物を一人知っていることに気がついた。その彼に、愛用する理由を尋ねたことはなかったし、尋ねる気を起こしたこともなかったことも。もっとも、年中仮面を被っているような奴に、そんなことを尋ねられるやつはまずいないだろう。
「リセールの伊達男は何を愛用しているんだ?」
「香水ですか? 普段は……」
チェチェのおかげで、話題はヴァルト王国で流行りの香水談義となった。この手の話題なら、安心して続けられる。
先ほどはごまかしたけれども、本当はコーネリアスがきっかけを与えてくれる前から、夢想していたことを小説にしたとは、とてもとても言えなかった。
そう、彼はきっかけよりも前から女たちがお喋りしたり、髪を結いあったり、とにかく男抜きで仲良くしているところを邪魔せず眺めるのが密かな楽しみだった。
それが下心があろうとなかろうと混ざろうとする不届きな男に度し難い怒りを覚えるほど、犯し難い尊いものになったきっかけは、やはりコーネリアスだった。
十になった頃だっただろうぁ、いつものように眺めてなんとなく満ち足りた気持ちになっているところに、コーネリアスは「わたしもお前も彼女たちの笑顔を簡単に奪うことができる」と言ってきた。
どうしてそんな酷いことを言うのか、マクシミリアンは悲しくなった。
「規則を厳しくすればいい。私語を禁ずるの一つを加えるだけでいい。それから、お前は理由もなく彼女たちを折檻できるのだよ」
「僕は、そんなことはできません」
「ああ、お前はしないだろうな。だが、するしないではなく、できるのだ。お前にはできる資格がある」
「資格……僕が王子だからですか?」
「いいや、男だからだ。当たり前だとお前が勘違いしている彼女たちのひとときを守ることこそ、我々ヴァルトンの男たちの責務と言っても過言ではないと、心に刻みなさい」
「はい、叔父上。このマクシミリアン、心に刻みます」
実を言えば、このときはまだよくわかっていなかった。
ほんの数十年前まで女性が虐げられてきたのだと、このときはまだ知らなかった。
祖父の狂王ロベルトの数少ない功績の一つ婦女子保護法が施行される以前は、強姦罪で男が裁かれることもなかったし、売春を強要される妻は珍しくなかった。家の外で作った子を養育する義務は、男にはなかった。知れば知るほど胸糞悪くなる男たちの所業は、数え切れないほどだった。
そして、月虹城で少年マクシミリアンを楽しませている彼女たちもまた慰み者にされるのは珍しくなかった。
彼女たちの笑顔は尊いものだと、知った。そして、守らなくてはと決意した。
そう、明晰王コーネリアスが最期まで最愛のアンナが結婚するのを強く望んだように、このときはまだマクシミリアンの中で女は庇護するべき弱者だった。その女は庇護するべき弱者だという考えこそが、弱者は劣る存在だと男たちが思い上がり虐げるに至った原因だと気がつかない彼は、間違いなく奢っていた。
自立を夢見るデボラに出会うまでは。
これほど濃密な一日は、後にも先にもないだろう。
今朝方ようやく解放された苦行の船旅が、明日また始まる。げんなりするような話だけれども、観念するしかない。どうあがいても帰りの船旅は避けられないのだから。とはいえ、
(数日、ピュオルのあちこちを見て回れると思っていたんだがな)
たった一日しか滞在できないことを残念に思うのだ。
(またいつか、デボラと来ればいいか)
ベッドに横になってるマクシミリアンは、未練がましいため息をついて、ぼんやりと天井を見上げる。
明日は早いからと、寝間着に着替えることなく早く寝るように言われたけれども、なぜか目が冴えたままだった。
暗闇に目が慣れてくると、天井のむき出しの梁がぼんやりと黒く浮かび上がってくる。昼間、目を覚ましたときに吊り下げられていた樟脳に似た匂いを放つ乾燥した薬草らしきものを束ねた物は外されている。代わりに、彼の髪が一房吊るされていた。
港町から丘の上に戻ってくるなり、チャールズに一房の髪を要求され困惑し抗議した。
「言っただろ、タダで泊まらせてやる代わりに髪を一房もらうって」
そう言われてみれば、言われた気もする。衝撃的なことばかりで、うっかり聞き流してしまったのだろう。
目立たないよう内側の髪をいただくからとなだめるように言われて、しぶしぶ一房だけ切らせた。
その髪が、彼の頭上に吊り下げられている。かすかな隙間風にゆらりゆらりと揺れている。暗い天井に浮かび上がる黒髪は、己の一部だったはずなのに、得体のしれないモノのようだった。不気味でしかたないのに、目が離せない。
(そういえば、あのとき人を喰うナニかの話をしていたような……)
これ以上考えるべきではない。さっさと眠るのが一番だ。まずは目を閉じて、頭上の不気味なモノを意識の外に追いやらなくては。わかっているのに、どうしてもソレから目が離せない。
(これは、やばいのでは)
人を喰うナニかが実在するかどうかはさておき、明日からの苦行を考えれば睡眠で充分体を休ませなければまずい。
どれほど時間が経っただろうか、ようやくまぶたが重くなり眠れるというまさにその時だった。
突然、真冬の大河に放り込まれたかというほどの衝撃が襲いかかってきた。全身からどっと汗が吹き出る。
(寒い冷たい苦しいさむいつめたいくるしいからだがうごかないなんだこれなんだこれなんだこれナンダコレナンダコレ)
恐慌をきたし思い通りにならない体と理性。
それでも、本能が告げてきた。
ナニかがきた、と。
――――ィン
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