ベイクドビーンズと手紙
朝食は、昨夜と同じようにマクシミリアンとデボラ、アンナの三人でリセール地方の家庭料理が並ぶ食卓を囲んだ。
マクシミリアンは、リセールを愛しているけれども、一つだけ一生受け入れられないのが山盛りのベイクドビーンズだった。
リセール地方の人々は、毎日飽きることなく食べているほどベイクドビーンズが大好きだ。ところが、リセール地方の町や村で、少しずつ変わる具材や味付けのせいで、自分のベイクドビーンズこそが一番美味しいと誰もが信じて譲らない。リセールの酔っぱらいの喧嘩騒動のほとんどの原因が、このベイクドビーンズ論争だ。その上、マクシミリアンが領地内を視察しに行けば、ベイクドビーンズが必ず出てくる。それだけならまだいい。なぜかマイベイクドビーンズ自慢もついでに聞かされる。好き嫌いなく何でも食べられる彼が、ベイクドビーンズに嫌気がさすのも無理のない話だ。
せめて我が家の領主館にいるときくらいはと、妻には申し訳ないけれども、ベイクドビーンズを食卓に並べないようにしている。
(怒らせていたんだな、俺)
ベイクドビーンズが食卓に並んでいるということは、デボラの怒りを主張していることに他ならない。
「次の旅行記、リセールのベイクドビーンズだけで一章書けてしまいそうね」
「ぜひぜひ。わたしとしては、やっぱりこの甘辛いのが一番だと書いてほしいけど……」
「それは約束できないわ。他のベイクドビーンズはまだ食べていないから」
「ですよね。でも、嬉しいわ。リセール各地のベイクドビーンズが広く知られるのは、とても嬉しいもの」
「そのうち、ベイクドビーンズを食べ比べるためにやってくる人が現れたりするかもしれないわね」
「最高!! そうよ、ベイクドビーンズを食べ比べたりする催しがあってもいいんじゃないかしら。一年に一回くらい、ねぇあなた」
「……………………そうだな、いい考えだ」
馬鹿馬鹿しいと一蹴できれば、どれほどよかっただろうか。
女同士でキャッキャしているのを見守るのが好きな彼でも、今回ばかりは針のむしろに座っている気分だ。
この後、アンナと例の鞄を開けなくてはならない。けれども、マクシミリアンは先にやるべきことがある。
「アンナ、さっきの書斎の隣の部屋で待っていてくれないか」
「ええ、いいわよ。ちゃんと待っていてあげるから、逃げずに来るのよ」
「逃げませんよ」
マクシミリアンの目をじっと覗き込んでから、アンナは食堂を後にする。
たちまち食堂では気まずい空気が漂い始めた。アンナがいなくなった途端、デボラの顔から笑みが消え、うつむいてずっとお腹を撫でていた。
リセールに戻ってきてひと月も妻を避けていたことを、マクシミリアンは謝罪しなくてはならない。
「あの、デボラ、その……」
「……温かくて幸せな家庭」
「え?」
聞き逃しそうなほど小さい声だった。
「あんたが『温かくて幸せな家庭を夢見ている』って言っとったんだで!!」
勢いよく顔を上げた彼女の目には涙が溜まっていた。
「そう言ったもんだで、わたしはあんたの妻になってもいいと思ったの。わたしは、わたしはっ、あんたの愛があれば愛人で満足だった。それだって、商人の娘にはありえぇせん望みなんだで。でもでも、あなたはどうしても妻にって言わっされた」
普段から言葉遣いに気をつけている彼女が、生まれ育ったリセールの方言でまくし立てる。まったく取り繕えていない妻に、マクシミリアンはこれほど追い詰めていたのかと、愕然とした。
怒りと悔しさで声が震える。絶対に泣いてやるものかと、デボラは唇を噛む。泣いたら、余計に惨めになるだけだ。
「だで、わたしはパパとママの姓を捨てて、スプリング家の養女になって、必死で花嫁修業を頑張れたんだで! だのに……だのに……こんなことなら、結婚なんてせんどきゃよかったぁ!!」
「デビー!!」
とうとう泣き出してしまった彼女は、マクシミリアンが思わず伸ばした手を勢いよくはねのける。
「妻じゃのぉて愛人だったら、こんなに惨めな思いせずにすんだんだで」
「すまなかった。俺が悪かった」
「ええ、そうよ。あんたが悪いんよ」
「ごめん」
しばらくデボラは、ひたすら泣いた。
(俺は、本当にどうしようもないな)
リセールに戻ってから、ずっと彼女に申し訳ないと思っていた。けれども、これほど苦しめていたとは思いもよらなかった。
アンナは、彼女がジャスミンに手紙で相談したと言っていたけれども、それはおそらく助けを求めてのことだったのだろう。
思いつく謝罪や慰めの言葉では、とうてい彼女に届かない。それでも、言葉を紡がねばと口を開いては閉じてを繰り返している。
しばらくして、いくらか気持ちが落ち着いたデボラはうつむいたままお腹を撫でた。
「あなたが、どれだけ避けようとしても、この子の父親はあなたなのよ」
「そんなことはっ…………ああ、すまない。俺はそこまで君を追い詰めさせたんだな」
不貞を疑ったことなどない。
デボラも、夫はそんなことを疑うような人ではないと知っている。けれども、夫への信頼が崩れてしまいそうなほど、彼女は追い詰められていた。
「あなたが夢見た家庭に、この子はいないの?」
「もちろん、いるに決まってる。デボラ、君もだ。俺が不甲斐ないばかりに、つらい思いをさせた。どう償えばいい? 教えてくれないか」
悩んでいる場合ではなかった。
デボラの手を両手で包み込む。一瞬ビクッと強張ったけれども、離すわけにいかない。
(わかっていたじゃないか。そもそも悩む資格すら、俺にはないことくらい)
まだ手遅れではない。すべて挽回できるかはわからないけれども、まだできることがあるはずだ。
「…………アスターで何があったのか、何を悩んでいたのか、話して」
「それは……」
デボラの要求に、マクシミリアンは躊躇してしまった。無理もない。さらに彼女を傷つけてしまったら、それこそ彼女の顔を見れなくなってしまう。
ゴシゴシと涙を拭って顔を上げたデボラは、真っ直ぐな目でマクシミリアンを見つめる。
「言いにくいなら、わたしが言ってあげる」
「え?」
「だいたいのことは、想像ついているのよ。どうせ、うっかりあの親バカ陛下と比べて、自分はこれでいいのかとか、考えちゃったんでしょ」
「あー……」
「両親の顔も覚えていない自分がとか、でも親のいない奴は他にもいるから、こんな悩みは贅沢だとか、それでも悩んでしまうから自己嫌悪して、そんな自分は父親失格じゃないかとか、ますますドツボにはまってしまったんでしょ」
「…………」
「そんな自分が情けなくて、わたしに合わせる顔がなくなったんでしょう。違う?」
「……違わない、な」
なんてことだ。ほとんど全部、バレているではないか。
(もしかして、俺ってわかりやすいやつだったりするのか)
情けないし、恥ずかしい。頭を抱える彼の肩に、デボラは手を置く。
「でも、ちゃんと話して。あなたから、ちゃんと教えてほしいの。……わたしだって、この子をちゃんと愛せるか不安なのよ」
「デビー、本当にすまなかった。俺がつまらないことで……」
「つまらないことって、勝手に決めつけないで。勝手に決めつけて、解決するならそれでもいいわ。でもあなたは、そうじゃないでしょ」
デボラはマクシミリアンの両手をとって、新しい命が宿っているお腹に誘う。
「あなたは、一人じゃないのよ。一人じゃない。世間でもてはやされるほど、あなたはかっこよくないわ。コンプレックスをたくさん抱えているし、すぐに自己嫌悪に陥る。うじうじしてるあなたを見たら、きっとみんな幻滅するわ。でも、わたしは好きよ。そんな情けないあなたも、愛しているわ」
「デビー、俺は、その……」
「一人で抱え込むことなんてないのよ。今までだって、二人で乗り越えてきたじゃない。だから今度も二人で一緒に親になりましょうよ」
「二人で一緒に、か。今からでも、遅くないかな」
「遅いか遅くないかといったら、遅いわよ。わたし、とっても不安だったんだから。夫として父として最低よ。でも、手遅れじゃないわ。取り返しはつくはずよ。あなたが、打ち明けてくれたら」
「うん、そうだな。賢いデビーが言うなら、そのとおりだ」
負担にならないように、デボラに肩を寄せて、マクシミリアンはゆっくりと打ち明けた。一度、アンナに話した後だからか、いくらか穏やかな気持ちで、例の鞄のことまで打ち明けた。鞄の話は初めてした。
「なによ、それ。ほとんど、わたしの想像通りじゃない」
「まったく、君は人の心を読めるのかと恐ろしくなったよ」
「マックスがわかりやすいだけよ」
「なんてことだ。なぁデビー……」
マクシミリアンは妻に向き直る。
「今さらであれなんだが、君も一緒に叔父上が遺してくれた鞄の中身を確かめてくれないか。もちろん、それで万事が解決するとは考えていない。単純に、両親のことを俺が知りたいだけで、一人で向き合う勇気がないだけで、その……わがままだとわかっている。だから、嫌なら嫌とはっきり言ってくれ。どうせ今さらだ」
「今さらなんて言わないで。わたしも、あなたのご両親がどんな人たちだったか、知りたいわ」
「デボラ、君がいるだけで心強い」
至極自然な動作で、デボラは夫と腕を組む。
「アンナが待っているわ。行きましょう」
書斎に寄り添ってやってきた二人は、見ているほうが気恥ずかしいくらい微笑ましかった。
「俺が開けるよ」
「そうね、それがいいと思うわ」
マクシミリアンの答えは、半ば予想していたし、二人の姿に確信した。
デボラとアンナが見守る中、マクシミリアンはゆっくりと鞄を開ける。
鞄の中には、ぎっちりと大量の書類が詰まっていた。黒い厚紙に挟まれ、紐で綴じられているそれらは、事務的な書類のようではないか。
「なに、これ?」
そう言って首を傾げたのはデボラだったけれども、マクシミリアンもアンナも同じくらい困惑していた。
父母の思い入れのある品が入っていると、思い込んでいたのだ。
「叔父上の手紙がある」
自分に宛てた手紙を手に取る。宛名は、コーネリアスの直筆でしっかりと書かれている。晩年は代筆に頼らなければならないほどだったと知っている三人は、マクシミリアンのために随分前から用意されたものだったと知る。
デボラとアンナが見守る中、マクシミリアンは封を開け手紙にさっと目を通す。
緊張のせいで強張った顔で目を通し始めたけれども、すぐに困惑の色を浮かべ、なんとも言えない複雑な顔で読み終えると、深いため息をついた。
心配する妻に、彼は無言で手紙をわたす。
「いいの?」
「ああ」
そう言うと、マクシミリアンは両膝に両肘をついて顔を覆った。
どうしようと、デボラがアンナに目で訴えると、アンナも困惑気味に身を乗り出して首を縦に振った。
そうして、二人は一緒に手紙に目を通すことにした。
”可愛い甥マクシミリアンへ
お前がこれを受け取ったとき、こう強く思っただろう。
『決して必要になる日は来ない』とね。
お前のことだ。いつか――たとえばお前が父になるときなどに、自分の父母のことを知りたくなるはずだ。そんな日が必ず来ると、確信しているし、そうあればと願ってもいる。
先に謝罪しなければならないことが、一つある。残念なことに、お前に遺してやれる物はほとんど残っていない。
二人が暗殺された当時は、まさに激動の年だった。あれほど、忙しい年は、後にも先にもないだろう。忌々しい狂人を倒しても、当然すぐに国がよくなるわけではなかった。言うなれば、狂人の尻拭いだ。
その尻拭いの一つとして、クリス兄様は国民の負担を一時的にではあるものの軽減するために、私物を売却せざるえなかった。もっとも、民のためになるならと、喜んで売却していったがね。呆れるほどに。
パトリシア義姉様は、私物のみならず自作の詩集を金に変えてしまった。彼女の詩は、実に素晴らしかった。同じように人の手に渡ってしまった宝飾品たちと同等、いやそれ以上の値段がつけられたほどだ。彼女の詩集は、四巻からなる私家本で三部ずつしか存在しない。後になって、その計一二冊が一人の好事家が手に集められていると知ったとき、どうにかして買い戻そうとしたが、何度交渉しても手放さないの一点張りでね、彼にとっては他の何にも代えがたい物なのだろう。諦めざるえなかった。
それから、クリス兄様は日記を書かない人だった。面倒だからと事務的な手記はあるが、あの人の人となりを伝えるようなものではない。だが一応、輝耀城の保管庫にお前が生きている間は遺しておくようにしてある。興味があるなら、アスターに取りに来い。
パトリシア義姉様の日記は紛失してしまったらしい。日記らしき物を書いている姿を見かけたという証言は、いくつもあった。が、見つからなかった。見つかればお前のために取っておいたというのに、とても残念だ。
そういう事情があって、二人の縁ある品物はない。
お前が父母のことを知りたいと思ってくれるだけで、わたしは嬉しい。
だが、わたしがお前に遺してやれるのは、二人の暗殺事件の資料しかない。
知っての通り、未解決のままだ。訳あって、事件解決を断念せざるえなかった。それでも、憎き人殺しをこの手で裁けなかったことは、本当に遺憾に思い続けている。
お前ならすべて白日の下に晒すことができるだろう。わたしは、できなかったが。
だがもし、二人の死の真相に関心がないのなら、この手紙ごと資料を処分してくれてかまわない。
二人を慕っていた誰かに尋ねてもいいだろう。それほど慕っていたわけではないが、アンナに聞いてくれてもよいぞ。まずはアンナと話をするといい。間違いなく役に立つはずだ。
最後になってしまったが、マクシミリアン、マックス、わたしの可愛い甥、泣きんぼうよ、お前の両親は、お前を心から愛していた。
その愛を、お前に少しでも伝えるきっかけになれたのなら、それだけでわたしは嬉しい。”
本当に他になかったのか。
デボラとアンナは同じことを切実に思った。けれども、文句を言うべきコーネリアスはすでに灰になっている。
開けるように勧めたアンナも、まさか中身がこんなものだとは思いもよらなかった。コーネリアスとパトリシアの思い入れのある品が入っているとばかり。当時を振り返れば、それが不可能だったと理解する。そのくらい、激動の年だったのだ。
(こんな物を遺すくらいなら、あなたから見た二人を書いて本にでもまとめればよかったのに)
敬愛する長兄とその妻のことになると、やたら饒舌になっていたのだから、それを書いてまとめることもできただろうに。アンナはため息をついた。
「気落ちしないで、マックス。こんな物だって知ってたら、絶対に開けろなんて言わなかったんだけど……本当に申し訳ないわ」
「ええ、わかってます。まったく、叔父上らしいです」
ようやくマクシミリアンは顔を上げると、意外にもずいぶんスッキリした顔で、両手で頬を叩いた。
「まずは鞄から出さないと」
「え、あなた?」
「いいのよ、マックス。無理しないで」
「コーネリアス様でも解けなかった事件なんだから、放っていても誰も責めないわ」
「そうよ、デボラの言うとおりよ。誰も責めないわ。クリストファー様とパトリシア様のことを知りたいなら、当時の七竈館の使用人だった人を探してあげるわ」
なぜかやる気を出したマクシミリアンを、デボラとアンナは止めようと言い募る。
そんな彼女たちをよそに、彼は鞄から資料を取り出していく。
「二人とも心配してくれるのはありがたいが、俺はこれを無視できないよ」
そう言った彼の笑顔に、今朝までの陰りはない。あったのは、決意と覚悟。
「それに、叔父上らしいじゃないか。暗殺事件を通して、なにか伝えたいことがあるのかもしれない。……言いにくんだが、俺は自分の親がどんなふうに死んだのか、まったく知らない。だから、無視できないんだ」
デボラとアンナは、どうすると視線を交わして、苦笑した。
「なら、しかたないわね。わたしたちも手伝うわ」
「いいのか、デビー。それにアンナも」
「言ったでしょう。あなたが一人で抱え込むのは間違ってるって」
「そうね、わたしもそう思うわ」
戸惑うマクシミリアンをよそに、彼女たちは鞄に残っていた資料に手を伸ばす。
「えーっと、ありがとう、なんだか心強いよ」
自分は一人ではないのだと、マクシミリアンは胸が熱くなり、こっそり目頭を押さえた。
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