王の母アンナ・カレイド

 油断した自分が腹立たしい。舌打ちをぐっと堪えて笑った。


「泣きんぼうなんて、久々に聞きましたよ。だいたい、俺をそんなふうに呼んでからかっていたのは、叔父上とダニエルくらいでしたよ。まさか、アンナにまでそう呼ばれる日が来ようとは」


 わざとらしく嘆いてみせた彼が覚えている限り、幼い頃にそう呼んだのは先王と父クリストファーの乳兄弟だけだった。まさか、いい大人になってそう呼ばれるとは思わなかった。


「泣きんぼう? アンナ、詳しく」

「デビー、待って。アンナも…………」

「そのまんまよ、そこの伊達男は泣き出したら手がつけられない赤ん坊だったから、泣きんぼう。泣き声はびっくりする大きいし、なかなか泣き止まない。百戦錬磨の子守も逃げ出したくなるくらい、手がつけられなかったのよ」

「まぁ、それは……」


 予想に反して可愛くない夫のエピソードに、デボラはうつむきお腹を撫でる。


(余計なことを……)


 内心頭を抱えたマクシミリアンは、心配ないと妻の手を包み込む。


「アンナは話を盛っているだけだから、たしかに泣きんぼうって呼ばれてたけど、それだって大げさにからかっていただけだから、ああそうだ、ほら、赤ん坊は泣くのが仕事って言うし…………デビー?」


 必死に言い募る夫がおかしくて、デボラは堪えきれずにクスクス笑いだしてしまった。


「必死すぎよ、マックス。まったくもぉ……」


 涙が出るほど、彼女は笑っている。


「…………とにかく、アンナの話を真に受けないでくれ」

「フフフッ、そうね、そういうことにするわ」


 憮然とする夫がおかしくて、デボラはしばらく笑いが止まらなかった。


 実のところ、アンナはマクシミリアンが主張するように少しも盛っていない。むしろ、逆だった。ひと月に子守が五人も辞めたことや、子守部屋から離れた賑やかな厨房の使用人まで泣き声に精神を病む寸前だったなどなど、実害があったのだ。賢いアンナは、そこまでデボラに教えるつもりはなかった。


 デボラの笑いが収まるころ、マクシミリアンは咳払いをひとつした。もうこれ以上、アンナに主導権を握らせるわけにいかない。


「そういえば、国王陛下が嘆いていましたよ、アンナがちっとも帰ってきてくれないと」

「あら、なんで?」

「なんでって……」


 マクシミリアンがびっくりするくらい、アンナの返事はそっけないものだった。


「アンナが母だからに決まっているでしょう」

「それは……まぁそうなんでしょうけど、困るのよねぇ」


 アンナは、心底理解できないと言わんばかりの大きなため息をついた。


「たしかに、わたしが生んだわ。でも、それだけ。本当にそれだけなの。他になぁんにも、母親らしいことの一つもしていないから、困るのよ」


 どう言えばいいものかと、マクシミリアンはデボラを見やるけれども、彼女もさっぱりわからないようだった。


「そもそも、妊娠するなんて思ってもみなかったのよね。たしかにちょっと考えればわかりそうなものだったんだけど、コニーの子種は役に立たないって、二人そろって思い込んでいたのよね。怖いわよねぇ、思い込みって。フフッ」

「…………」


 まったく笑えなかった。特にマクシミリアンは、コーネリアスがどれほど病弱だったのかを知っているから、なおのこと笑えなかった。


「妊娠したってわかったとき、どうやって堕ろせばいいのか、そればっかり考えてたわ。最低な母親でしょ。コニーにそれを相談したら、危うく発作を起こす寸前で、もう大変だったわ。彼、堕ろすなんてとんでもないって真っ青な顔で怒ったのよ」

「いやいやアンナ、なぜ、叔父上が賛成すると思ったんですか」

「だって、私生児なんてロクなものじゃないもの。狂王みたいなのは、もう二度と存在してはいけない。そう言えば、コニーもわかってくれると思った。コニーが、そのことを一番よくわかっているはずだったから」


 狂王と聞いて、マクシミリアンは合点がいった。

 先々代の国王ロベルト――つまり、マクシミリアンの祖父もまたジャックと同じ庶出の王だったのだ。大きく異なるのは、ロベルトは認知すらされていない私生児だったことだ。

 暴君と言い切るのは難しく、国王でありながら王家を激しく憎悪し続けた男。無辜の民までは憎みきれなかったからか、悪政ばかり行ったわけでもなく、今でも施行されている法もある。矛盾した言動が多く、女物の派手な衣装を好んだ。

 狂王と呼ぶしかない祖父がそうなった最大の要因は、やはり私生児だったことだ。


「そしたら、コニーったら王籍に自分の長子として入れるって。矢車菊館で育てるって。王位継承権も与えるって。父のような狂王にはさせないからって」

「それで、アンナは説得されて生む決意をしたのね」

「まさか! わたしが妊娠している間、彼の世話を誰がするというのよ。わたし以外の誰かに、あの人の世話をさせるなんて、考えたくもなかったわ」


 アンナの献身は、美談として語られることが多いけれども、実際には美談にするには憚れる話も多いのだ。彼女の言う世話には、当然、下の世話のようなことも含まれる。多くの者が抵抗を感じるだろう行為も、彼女は他人にさせたくないというのは、もはや献身のひと言では収まらない独占欲や醜い執着すらあった。

 マクシミリアンは、そんなアンナの重たい愛情を喜んで受け入れてしまうコーネリアスも大概だと思っていた。


「そしたら、あの人、わたしが出産するまで絶対に誰かの世話になるようなことにならないからと、懇願してきたのよね。たしかに、あの頃はちょうど薬も改良されていたし、発作で倒れることも滅多になくなってはいたから無理をしなければ大丈夫だろうって、わざわざ医者に言わせてくる始末。あの人、なんであそこまで子どもを望んでいたのかしら。今でもわからないわ」

「それで、ついに決心したわけですね」

「ううん、そんなわけないでしょ。わたしが目を覚まさせてやらないとって思って、『生まれてくる子に、あなたと同じ苦しみを味あわせたいの?』って、はっきり言ってやったわ。ひどいこと言ったとわかっているわよ、もちろん。コニーがあまりにも頑固だから、言わせたあの人も悪いわ」

「…………」

「でも、コニーは顔色変えてこう言ってきたのよ、『君の子でもあるんだぞ。君譲りの病気一つしない丈夫な子に決まってるだろう!!』って。まったく、本当にどうしようもないでしょ」

「……結局、アンナはどうやって堕ろさずに生むと決心したんですか」


 マクシミリアンのやや投げやりな問いに、アンナは大げさなくらい肩をすくめる。


「決心なんてしていないわ。結局、しびれを切らしたコニーは、人に命じてわたしを軟禁したのよ。思い出すだけで、腹が立つわ。もうなんなのよ!! いくら、王籍に入れるからって、わたしは結婚しないのよ。狂王のような私生児じゃなくても、庶子よ。絶対、ロクなことにならない」

「でも、そうはならなかったわね」

「結果的には、ね。あの頃のわたしが情緒不安定だったのは認めるわ。コニーの判断は、お腹の中の子はもちろん、わたしを守るためにも正しかったのよ、きっと。陣痛が始まっても、まだ生まれてくるべきじゃないって考えてた。本当に憎くて憎くて、暴れたこともあるわ。すぐに押え込まれたけどね。…………はぁ、こんな薄情なわたしを、本当にどうして母上なんて呼んで抱きしめてくるのか、さっぱりわからない。理解不能よ」


 これはジャックに聞かせられないなと、マクシミリアンは顔をしかめる。そんな彼に、アンナは不敵に笑う。


「そんな顔しなくてもいいわよ。全部話したもの」

「ジャックにですか!?」

「ええ、もちろん。わたしに旅に出るなって、うるさかったんですもの」

「あーそれは……」


 アンナをアスターに引き留めようと、ジャックが旅行に猛反対していたのを思い出す。あれは、ちょっとした――いや、かなりの大騒動だったなと。


「でも、生んだことは後悔していないの。矛盾しているけど、これでよかったのかもしれないとすら、思えてきたの。ううん、ちょっと違うわね。あれだけ激しく拒絶していた感情が、すぅっとどこかに消えて、残ったのが『よかったのかもしれない』だったのよね」

「案ずるより産むがやすしというやつでは」

「そうなの、マックス!! まさにそれよ、それ!! でも、あの子に抱いた感情ってそれっぽっちなのよ。とてもとても、母親の愛情にはほど遠いわ」


 母と慕うジャックが受け入れられないうちは、アンナはアスターに帰ることはないのかもしれない。マクシミリアンはそう悟った。


(最愛の人の思い出が多すぎるのが帰らない理由だと思っていたが、それだけではなかったのか)


 それでも、マクシミリアンは思うのだった。立ち寄るくらいでいいから、息子が待つアスターに帰ってやってほしいと。


「俺が思うに、ジャックはコーネリアス様を通して、あなたを母と見ていたのではないでしょうか。父が愛し寄り添う人は、母以外の何者でもないと。俺から見ても、あなた方お二人はまさに仲睦まじい夫婦のようでしたし」

「そういうものかしら。……そういうものかもしれないわね」


 まだ腑に落ちたわけではないようだけれども、アンナはずいぶんスッキリした顔になった。


「ところで、あなたさっき泣きんぼうって呼んだのは、コニーとダニエル・ドーソンくらいだと言ったわよね」

「……言いましたが。他にいたんですか?」


 幼い頃の彼に気安く接してくれる大人と言えば、叔父と父の乳兄弟しか、はっきり覚えていない。とはいえ、幼い頃のことだ。覚えていないことのほうが、当然多い。


「もちろん、いたわよ。たくさんいたわ。あなたの泣き声を聞いたことのある人は、みんなそう呼んでいたんじゃないかしら。もちろん、あなたの五人の叔父はみんなそう呼んでいたし、あなたのお父君もお母君も」

「…………」


 父と母と聞いてマクシミリアンが顔をこわばらせるのをよそに、アンナは続けた。


「だって、そもそも一番最初にそう呼んだのは、あなたのお母君のパトリシア様だったんですもの」

「え?」


 そんな話、知らない。聞いたことがない。母が、そんなあだ名をつけるような人だったなんて、知らない。いや――


(俺は、父のことも母のことも、何も知らない)


 ――――ィン

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