第一章 リセールの駄目男
商人たち
神なき国、あるいは医療の国と呼ばれるヴァルト王国は、東にそびえ立つ黄金山脈、南にはかの有名なグウィン大河、北は湿地帯に長細いのローグ湖、西には大河に流れ込むリウル河に囲まれていた。国土は、大陸西部でも小さい方であるけれども、神から与えられる奇跡とも魔法とも呼ばれる力に頼らず、グウィン大河の南に広がる神の国フラン神聖帝国に次ぐ強国にのし上がった国である。
そのヴァルト王国の南西の端っこ、リウル河とグウィン大河の合流地点の河岸に水の都リセールはある。
王国一の交易都市として名高いリセールは、水の都と呼ばれるだけあって、そこら中に水路が張り巡らされており、異国の珍しい品が集まっている。なので、商業都市としてだけではなく、一生に一度は訪れてみたいと、王都アスターよりも憧れられる観光都市でもあった。
リセール公マクシミリアンが輝耀城で告発を始めるおよそ二ヶ月前の三月一日。
風光明媚なリセールでひときわ目を引く時計台がある行政庁舎の会議室にて、
「だぁから、今すぐでなくとも、必要なことだって!!」
議長席で声を荒げるマクシミリアンに対して、テーブルを囲む七人の男たちはずいぶんと冷めた目をしていた。
「そんなこと言わっされてもなぁ」
「今のままでええわ」
うんうんと首を縦に振る彼らは、リセールを拠点にしている大商人たち。商業都市でもあるリセールでは、影響力のある顔役たちだ。
「大公がリセールの民のことを思ってくれとるのは、よぅわかっとる。だが、こればかりは、なぁ」
「やっぱり、今のままでええよ。なんも問題なくやっとるじゃないか」
敬愛を込めてリセールの民はマクシミリアンを『大公』と呼んでいる。彼らはマクシミリアンのリセールに対する思いを、充分に理解していた。そうでなかったら、新しい住民税の草案を出してきた時点で、全員席を立ち引き止めるまもなく会議室を出ていったはずだ。
そもそも、少しでも多く金を稼ぐことを考える商人たちと、少しでも効率よく税金を納めさせる役人が会議をすれば、対立するのはよくあること。
都市リセールを含めたリセール地方でもっとも偉いのはマクシミリアンだけれども、顔役でもある彼らの意向を無視するわけにはいかない。彼らの影響力は、行政長官に匹敵あるいはしのぐほどだ。かつて、何人もの行政長官が彼らをないがしろにして追い出されてきた。
「わしらだって、大公のためなら多少は力になりたいと思っとるよ」
「だが、これはちぃっとばかし無理があるんじゃないか」
ようするに、彼らを説得できなければ、草案は白紙になる。
マクシミリアンの声に熱がこもるのも無理はなかった。
「この草案に沿った新しい住民税なら、治安は今よりよくなるし……」
「大公」
くぐもった声が、彼の熱弁をさえぎる。
七人の顔役たちの中で異彩を放つ男が、会議が始まってから初めて口を開いた。口を開いたと言っても、金箔を貼った仮面に隠れて見ることはできないけれども。
身を乗り出していたマクシミリアンが、仮面の男の一声でぐっと押し黙り居住まいを正す。
「大公、この草案によれば、戸籍を重視することになる」
「そうだ。現行の世帯単位ではなく、戸籍によって税を徴収するようにしたい」
マクシミリアンが答える声は固い。
仮面の男は「フン」と鼻で笑った。グッとマクシミリアンが握る拳に力が入る。
仮面に黒い頭巾。顔の傷を理由に仮面で隠し決して素顔をさらさない男の名前は、フィリップ・グッドマン。王国で知らぬものはいないグッドマン商会の会長で、顔役の中でもっとも発言力があるのが、彼だ。
なにも、顔役の七人全員の賛同を得る必要はない。他の六人が反対しようとも、この仮面の男ただ一人の賛同を得ることができればそれでいい。それが、もっとも難しい。
マクシミリアンがとりわけ彼への回答に慎重になるのには、そういった理由がある。
「これには、民の負担は基本的に変わらないとあるが?」
「そうだ。今でも世帯の人数や構成などを考慮した上で徴収する額を決めている。世帯から戸籍にかえても、その家庭の負担は基本的にはかわらない。増税が目的ではないことは、理解していただきたい」
「増税が目的ではないなら、はやり戸籍管理の強化が目的か?」
「…………それもある」
「フン。それ以外に何があるというのだ」
マクシミリアンは言い返せずに、唇を噛んだ。言い返したいことはある。けれども、フィリップの言葉を否定せずに説得させるだけの言葉を、今の彼は持っていなかった。
「大公も理解しているはずだ。このリセールという街が、交易の中心地であり、観光地にもなっているからには、人の流れが激しいことを。戸籍管理の強化は、この街の性質にそぐわない」
言われなくとも、わかっている。わかった上で、改革をしようとしているのだ。
「それに民の負担が変わらなくとも、移行するにあたって反発は必至だろう。特に、我々のような富裕層以外の中間層および貧困層からの強い反発は容易に予想できる」
「だから、反発を限りなく少なくするために、あなた方に協力してほしいと言っているんだ。今すぐでなくともと言っている」
「フン」
もうこうなっては、引き下がるしかない。のっぺりとした金箔の仮面の下で、せせら笑っているに違いない。素顔は知らないけれども、マクシミリアンの目に浮かぶようだった。
「大公、我々は商人。民のために頭を働かせるのは、大公たち役人の仕事だろうに。二千を超える民を納得させるのは、相当な労力がかかる。相応の見返りがあるならまだしも、誰がタダ働きをするというのだ?」
見返りを与えることはできない。為政者側が民に金銭等を見返りに与えるのは、賄賂とみなされることがあるからだ。慎重に慎重を期して正当性を主張できれば、もちろんその限りではない。
けれども、ここリセールではそうはいかない。商業の街というのは、悪い言い方をすれば金がものを言う街。融通を利かせてもらう術としてだけでなく、前述したように気に入らない役人を追い出す罠としても賄賂は大変有効だった。過去に何人もの行政長官や役人たちが、その手の話で失脚してきた。なので、マクシミリアンは正当性いかんを問わず、徹底して見返りを与えないことにしている。
今回は、引き下がるしかない。
「わかった。この話はなかったことにしよう」
容赦ない追求に張り詰めていた空気が緩む前に、フィリップはしっかりと釘を刺すのを忘れなかった。
「では、大公もみなさんもこの件を、決して口外しないように。リセールの民をなかった話で騒がせても、何一つ益にならないからな」
それはごもっともだと、顔役たちも次々と深くうなずく。益にならないと納得してしまえば、その口は貝のように閉ざされるだろう。
これで、この日の会議は終了だ。
「大公、せっかくいつもより早うアスターから戻ってみえたんだ。丘の上でのんびりされたらええ」
「うんうん。夫人もお体が大事なときだもんだで、ゆっくりするのが一番だで」
などと顔役たちは、疲れがどっと押し寄せてきたマクシミリアンに声をかけながら退出していく。
顔役たちは、マクシミリアンを心からねぎらい、気遣ってくれている。それはわかっているけれども、今の彼にはその気遣いを素直に受け止められないでいた。
(丘の上でゆっくり、ねぇ。わかっているんだけどなぁ)
目を閉じ眉間をもみながら吐いたため息が重い。
いつもなら、丘の上――リセールの街とリウル河、グウィン大河を見下ろす高台にある領主館で待つ妻のもとに帰れると考えるだけで、疲れが癒される。けれども、今はどうも気が重い。
くだらないことでうじうじ悩んでいる自覚はあるけれども、いやだからこそ、余計に気が重い。
席を立つ書記官に議事録はしっかり残しておくように念を押す頃には、会議室は閑散としていた。
今日は大事な客人を領主館で歓待しなければならない。遅くとも、晩餐に間に合うように帰らなくては。
今は昼前。
軽い昼食を食べてからでも余裕で間に合う。けれども、今は食事よりも睡眠を取りたい。行政庁舎に隣接している官舎で仮眠をとるほどの時間はないから、移動の馬車の中で体を休めるしかない。
(なんか急な案件とかあれば……)
今は領主館に帰りたくなかった。
行政庁舎でやり残している仕事はないかと、今一度頭の中で探していると、毒々しいくらい甘ったるい女物の香水の匂いがした。
「大公、少しいいか?」
「…………なんだ?」
帰りたくないばかりに急を要する案件が欲しいと願った罰なのか、これは。
側に来て声をかけたフィリップを、つい胡乱な目つきで見上げる。マクシミリアンとしては、白目むかなかっただけマシだと、自分を褒めてやったけれども、どちらにしても失礼な態度である。
フィリップ・グッドマンほど、リセールで──いや、国中で厄介な男はいない。
仮面に頭巾で顔を隠している時点で厄介なのに、人となりまで厄介だった。
リセールに来る前、噂でその異様な出で立ちを耳にしたとき、面白がってフィリップが複数人いて時々入れ替わっていてもおかしくないんじゃないかとうそぶいた記憶を完全に抹消したいと何度思ったことか。こんな厄介なやつが複数人いては、とてもではないけれども神経が持たない。
マクシミリアンが行政長官に任ぜられて、右も左も分からないリセールにやってきたとき、まだ一七歳の若造だった。次期国王候補の一人として、幼い頃から高度な帝王学を叩きこまれてきた。水の都と称されているけれども、都市の一つくらい容易に治められると思い上がっていても、無理もない話だったのだ。そんな一七歳の若造にも、仮面の
グットマン商会は、もともとリセールを拠点とする貿易商で、フィリップは四代目の会長だ。三〇年ほど前までは、近隣の下級貴族を顧客に抱えているものの、リセールの顔役たちには到底及びつかないほどの規模だった。そんなグッドマン商会を、王国中の街や村に支店が立つほどの大商会に成長させたのは、お世辞抜きでフィリップ個人の経営手腕だ。今では、もともとの貿易商を続けつつ、『どんな家庭も御用達のグットマン商会』を謳い文句に、お手頃な価格で安心安全な箒から家、土地などあらゆる商品を取り扱っている。
今ではすっかり国民から親しまれているグッドマン商会だけれども、そのトップはとてもではないけれども親しめる相手ではない。容赦のない彼の言動に、マクシミリアンは何度も何度もリセールから逃げ出したくなった。逃げ出したくなると同時に、見返してやりたいとも思った。リセールに来てから自覚したことだけれども、マクシミリアンは存外負けず嫌いだったらしい。
自尊心をけちょんけちょんにされ、今日のように良かれと思った案にダメ出しされるたびに、負けじと彼に食らいついていった。そうこうするうちに、フィリップは認めるところはしっかり認めてくれることに気がついた。そして今でも認めたくないことだけれども、フィリップに認められるのが嬉しくなってきた。今のところ、本人に絶対に言うつもりはないけれども、育ての親である亡き叔父のコーネリアスの次くらいに、フィリップは師だと密かに尊敬している。絶対に言うつもりはないけれども。
それはそれとして、フィリップが厄介な相手であるのは間違いないのだった。
「このあと、まだ仕事は残っているのか?」
「いや、ない」
わざわざ、仕事の有無を尋ねるほど厄介な案件だろうか。マクシミリアンは、どうしたものかと内心頭を抱える。
フィリップは生まれも育ちもリセールの下町とされているけれども、マクシミリアンは密かにアスターで育ったのではと考えていた。リセール特有のなまりのない言葉遣い、それからにじみ出る教養や立ち振舞いは、それこそアスターの中でも上流階級が住まう一等地で育たなければ身につかないものだ。ただし、女物の毒々しい香水を愛用しているのは、趣味が悪いとしかいいようがない。
「では、丘の上でゆっくり休養するといい」
「…………は?」
思わぬ話の流れに戸惑うマクシミリアンに、フィリップはのっぺりとした仮面の目元をコツコツと小突いた。
「ひどいクマだ。これでは、リセールの伊達男が台無しだな。……また何か根を詰めて無理したのでは?」
「そうだ。今日の会議で議題に上げるためにあの草案を、徹夜で仕上げた。労をねぎらってくれるなら、今からでも前向きに検討してくれたほうがよほど嬉しいんだがな」
憮然として机の上の草案を叩くマクシミリアンに返ってきたのは、「フン」だった。
「徹夜でまとめた草案? ただの思いつきを書きなぐったメモだろう、あれは。時期尚早。大公もわかっていたはずだ。違うか?」
「…………」
返す言葉もないほど、フィリップは見透かしていた。
(さすが、
舌打ちをしたい衝動をどうにか抑え込むマクシミリアンに、フィリップは本題を切り出す。
「伝言を頼みたい」
「伝言?」
「今日だろう。アンナが来るのは」
「…………チッ」
マクシミリアンは、今度こそ舌打ちを我慢できなかった。
よりによって、フィリップに今日の大事な客人を知られているとは。
ごく一部の者しか知らないけれども、彼以外の人物なら「耳が早いな」となごやかに話を続けられる情報だった。
「まったく油断も隙もないな、
「そうでもない。わたしは彼女の支援者の一人だということを忘れてもらっては困る」
「…………それで、伝言というのは?」
忘れているものか。彼が支援者だということは、つねづね面白くないと苦虫を潰しているというのに。
疲労で回らない頭で言い返したところで、より面白くない思いをするのは目に見えている。結局、嫌々でも伝言を頼まれるほかないのだった。
「では、『いつでも歓迎する』と」
「それだけか?」
「充分だ。では、わたしはこれで」
「フン」
思わず、マクシミリアンは彼のように鼻を鳴らしてしまった。
仮面に頭巾の
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