揺蕩い

花楠彾生

揺蕩い

 早朝、甘い香水の香りで目が覚めた。虚ろな目で右を見ると、朝顔の様な優しい笑みを浮かべる彼女と目が合った。

「おはよ。こんな所で寝てないでちゃんと布団で寝なよ」

「……あー、ごめん」

少し適当に答える。

「ねーまだ寝てるでしょ。……てかほっぺに字の跡付いてるよ。顔洗ってきな」

「まじ?……洗って来る」

昨夜、俺は原稿用紙の上で眠ってしまったらしい。ヨロヨロと立ち上がり、欠伸を一つ。洗面所へ向かう。

 鏡を見ると、何とも言えないみすぼらしい姿がそこには映っていた。髪があちこちに飛び回り、目蓋は重たそうにしている。鏡に近付いて右頬をよく見ると、『微睡み』という文字が薄く写っていた。大きく溜息を吐き蛇口を捻る。氷の様な冷水で顔をバシャバシャと顔を洗う。冷た過ぎて顔が少し痛かったが、気にせず柔らかいタオルで顔を拭く。大きく伸びをして彼女の元へ戻った。

 彼女は窓から外を眺めていた。その隣に俺は行く。

「目、覚めた?」

「うん」

窓の外を見ると、朝の美しい光りが街を包んでいた。マンションの10階にあたるこの部屋は、俺たちの住む街を一望する事ができる。まぁ、落ちたらひとたまりもないぐらいの高さだ。

「朝ご飯作ろー」

彼女は大きく伸びをしてコンロの前へ移動した。

 卵が焼ける小気味良い音が鼓膜を揺らす。

「あ、コーヒー作ってくれない?」

「了解」

そんな会話をして俺は彼女の隣に立ちコーヒーを作る。コーヒー豆の芳醇な香りが俺たちを包む。

 トースターが声を上げた。

「あっ、もう焼けたんだ。はやーい!新しいの買って良かったね」

「そうだねー。最新の機器は凄い!うん!」

「何それ?老人かよ」

彼女が笑って言う。小さな花柄の皿にトーストを。その上に目玉焼きを乗せる。今日の朝食はいつにも増して美味しそうである。

 コーヒーとトーストを持って小さなテーブルに移動する。

「いただきます!」

彼女がパンッと音を立てて両手を合わせた。続いて俺も言った。

「美味しいね。やっぱ春人のコーヒー最強」

「そりゃどうも。愛里が作ったものの方が美味いけどな」

彼女は小さく笑って「ありがとう」と言った。

 それから他愛もない話をして朝食の時間は終わった。俺は大学へ行く支度をした。

「そろそろ行くわ」

「おっけー。気を付けてね」

「はーい」

少し重たいリュックを持って玄関へ出た。いつもと同じはずなのに何か違う。

「愛里なんかした?」

リビングの方を見て叫んだ。10数秒待ったが、返事が帰ってくることは無かった。

「愛里?」

俺はまた叫んだ。しかし、返事が帰ってくることは無かった。

 1組足りない靴を見て、そこで気付いた。

「……あー、愛里もう居ないんだった」

ドアを開けて外を見ると、大きな入道雲が俺を見下ろしていた。

俺は彼女の元へ走った。

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揺蕩い 花楠彾生 @kananr

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