開幕(1)
ブレイブは歯を食い縛り、少女を睨みつけた。それ以外、何もできない。
「ぐっ……う、ゥ……ッ!!」
今この瞬間にも彼は振り下ろした刃を翻し、さらなる攻撃を仕掛けようと考えている。だが全く手足を動かせない。鋼線の如く細く強靭な何かが絡みついて身動きを封じられた。
それは髪。桜色の頭髪。少女の頭から伸びた極細の触手。
彼女は余裕の表情のまま目の前の敵を称える。
「やはり、貴方が一番手強かった。力を封じられていても流石は天遣騎士団の長。最後まで信じてくれなかったわね。心を許したふりをしても、常に私を疑い続けていた。アイズを引き離したのも揺さぶりをかけるため。どうしても疑念が晴れず、万が一の場合には自らの手で対処しようと覚悟を決めてあった」
だから正体の片鱗を覗かせた途端、反射的に攻撃して来たのだ。脳内で何千何万回と自分を殺すための手順を考え、作戦を練り上げていたのだろう。実際見事な奇襲だった。他の六人なら確実に死んでいる。
でも無意味。すでに袈裟斬りにされたダメージも完全に癒えてしまっている。
癒える? いや違う、元から傷などついていなかった。
「深度という概念を知ってる?」
「何……?」
「イリアムはそれを知ったのよ。巨大な力を持つ者、あるいは重い宿命を背負った者はその分だけ魂の重量が増し、世界のより深い領域へ身を置くこととなる。
イリアム・ハーベストはやはり天才だった。その理を理解した途端、天士以上の『深度』に到る怪物を人工的に造り出してしまえるほどに。
「私、つまり完成した『アイリス』の深度は貴方のそれより遥かに深い。ゆえに、どう足掻いても貴方に私は殺せない」
それでも流石に天遣騎士団の長と言うべきか、完全に無効には出来なかった。だが、だとしても並外れた再生力まで有する彼女にとって、それは柔らかい枕で殴られたのと大差無い痛手。
憐れみ、見下す。確信できた。この男はもはや脅威ではない。これから起こる事態を止める術を、彼は一つも持っていない。
「さあ、始めましょうか。アイズもすぐそこまで来ている。最後の舞台の幕を開かないと」
「やめてくれ……!」
髪が服と皮膚を切り裂き、肉にまで食い込んで激痛を生じさせる。だが、それでも構わず手足に力を込めて抵抗を試みるブレイブ。なのにビクともしない。少女の髪にはこれ一本でも天士の膂力に対抗できるだけの力がある。それが数十本絡みついているのだ、動けるはずなどあるものか。
「力を封じたのは失敗だったわね」
彼の能力なら彼女を倒すまではできずとも足止めくらいはできた。嵐が起こす突風と軽い髪とは相性が悪い。魔獣も生み出した端から乱流に蹂躙され肉片と化してしまう。彼女自身は無敵の肉体でも下僕はそうでないのだ。
だが能力を使えない以上、今のブレイブは無力。そして、だからといって油断はしない。少女は彼との距離を一定に保ち続ける。近付けば何をして来るかわからない怖さがあるからだ。そういう男だと聞いているし、彼女自身も一年近く観察を続けて来て同様の結論に到った。
(このまま動きを封じておく。本番はアイズが帰って来てから)
手が届く範囲には近付かない。少女は一歩も動かず、髪だけを周囲に伸ばし始めた。どこまでも長く広く、この街全体を覆い尽くすように。
「やめろ! 頼む、やめてくれ!」
「やめない」
自分達が同じように助けを求めた時、誰か止めてくれたか? 狂った皇帝と復讐にとり憑かれた錬金術師が七人の少女を犠牲にしたのに、誰一人助けになど来てくれなかった。
「今なら間に合う! まだ俺しかお前の正体は知らない! 今やめれば、リリティアとして生きていけるんだ! 普通の少女のまま暮らせる!」
ああ、本当に流石だ。的確に痛いところを突いて来る。
たしかにそれは魅惑的な誘い。そうできたらと何度も願った。あのままリリティアとして、人間の少女として幸せに生きられたらと。
けれど無理。どうしても、この胸に開いた穴から、ぽっかりと口を開くその深淵を満たす闇から逃れられない。何もかも破壊してしまいたい。全人類に思い知らせたい。自分達が味わった苦痛と恐怖。それと同じものを味わわせてやりたい
だから実行する。今こそ教えてやる。今度こそ邪魔はさせない。
「普通の少女? 貴方、私を誰と心得ていて?」
言葉遣いと共に立ち居振る舞いが変わった。かつて受けた高等教育。そして礼儀作法に則り古式ゆかしく名乗りを上げる。
「そも、この身は『リリティア』などという名にあらず。しかと覚えなさい天士。我が名はアリス。アリス・ノーデルヒア・カーネライズ。父亡き今、私こそが正当なこの地の統治者。つまり帝国と、そこで生きる者達の主」
アリス。その名を聞いたブレイブは思い出す。焼け落ちた帝都ナルガルの中心で発見された貴人の遺体と、彼女を取り巻いていたさらに複数の少女の遺体。
あれこそが彼女だと思われていた。だが違ったのだ。彼女は今もまだ、ここに存在する。
「アリス……皇女……」
「いいえ、何度も言わせないで。今の私は皇帝。その権限をもって『徴兵』を実行します」
「待っ――」
止める間などあろうはずもない。すでに彼女の触手は都市全域に伸びてしまっていた。数十万の触手の、それぞれの先端が眼下の街にいる人々に突き刺さり『因子』を注入する。
そうしてナルガルと同じ地獄が再現された。
「ケンヒル、ごはんだよ!」
「あっ、うん! じゃあオレ帰るわ、またな!」
夕暮れ時、友人達と一緒に遊んでいた少年が別れを告げ、母に駆け寄る。夕飯の支度を整え息子を呼びに来た女は彼と手を繋ぎ、道を歩き出した。
今もまだ雪に覆われた道。大陸の中央部辺りでは、この時期にはもう雪が無くなっているらしい。そんな土地に住めたら楽だろうなと考えるが、きっと一生叶わない夢。
まあ、子が成長してもずっと親と一緒に暮らしてくれると考えれば、この街での暮らしも悪くはないのかもしれない。そんなことを考えて自分を慰める。
すると――
「おっと、どうしたの?」
ガクン。急に立ち止まった息子に引っ張られ、足を止めてしまう。振り返った彼女が見たものは、けれど我が子の姿ではなかった。
「え?」
何が起きたかわからない。そのまま彼女の意識は途絶え、首から上がくるくると宙を舞う。一瞬前まで息子だったものは長く伸びる刃のように変形した腕で母を惨殺した後、別れたばかりの友人達の方へ振り返った。
少年の姿はさらに変貌していく。肉が盛り上がり、皮膚が割け、硬質の外骨格を纏った巨大な虫のそれに。
左右に張り出した二つの目で凍り付いた友人達を見下ろす。
中の一人、幼馴染の少女が喉から恐怖を迸らせた。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
彼はまず、その少女から切り裂いた。同時に城の尖塔が半ばから砕け、崩れ落ちる。まるで開戦の狼煙のように空に上がっていく粉塵。そして轟音。中から飛び出した二つの影が空中でぶつかり合い、街全体から絶叫が上がる。
惨劇は、まだ始まったばかり。
「なんだ、なんなんだ!? チクショウ、どうしていきなり!」
「ア、アクス……!」
「離れるなフィノア! 俺が守る! 絶対に守るから!」
壁の如く巨大な刃がついた二つの戦斧。いつかの夜と同じくそれを振り回し、次々に押し寄せる魔獣から婚約者を守り続けるウォールアクス。血と肉片が二人の周囲に散乱し、降り積もっていく。
おそらくはアイリスの所業。だとすると追撃していたはずのアイズ達が敗れたか、あるいは振り切られてしまった可能性が高い。信じ難いが、この惨状はそれ以外に考えられない。
「アクス様、やめて! 勝手に動くの! たすけ――」
「!?」
魔獣化した者の中には、人としての姿を部分的に残す者もいる。意識もそうだ。けれど意志とは関係無く周囲の人間を襲ってしまうらしい。今またフィノアに向かって一人が飛びかかる。
それを彼は、歯を食い縛って倒した。
「ひぎうッ!」
悲痛な叫び。恨みがましい視線。目が合ってしまい、やり切れない想いが胸を突く。彼女は以前、貯水池の掃除を共に行った仲間。フィノアの友人。なのに殺した。
彼の地獄は終わらない。さらに次々に襲いかかって来る敵。女子供に老人が、必ず守ると誓った者達が魔獣化させられ巨大な戦斧の餌食となる。そのたびに耐え難い痛苦に見舞われ、存在意義を見失いそうになった。堪え切れず嘔吐する。目の端からは涙が溢れる。
「うっ、ぐ……ごほっ……チクショウ、チクショウ!」
なんのために――胸を叩く悔恨。何者かの声が頭の中で木霊する。自分と同じ顔、けれど髪と瞳の色が異なる男の幻覚が見える。
そいつが叫ぶのだ。一人殺すたびに『やめろ!』と訴えかけて来る。
(そうだ、そんなことのために天士になったんじゃない!)
――なった? 自分でも不可解な思考に気付いた途端、動きを停めてしまった。すかさず手足に喰らいつく魔獣達。痛みで我に返り、噛まれたのがフィノアでなくて良かったと安堵する。こんな傷ならすぐ治るのだ、彼女を守るのに支障は出ない。
「邪魔だ!」
振り払い、叩き潰し、飛散させる。手傷は受けたが、かえって冷静になれた。まずは彼女を安全な場所へ連れて行こう。余計な思考を打ち消し、それだけに専念すべきだ。
決意した彼の胸を複数の刃が刺し貫く。
「え……?」
呆気にとられたフィノアの声。彼女の半身は今、逆さまになってアクスの目の前にぶら下がっていた。腰から下が蛇のような姿に変じ、長く伸びて垂れ下がった結果この形に。蛇の部分の背から何本もの刃が飛び出てさらに彼女の婚約者を滅多刺しにする。彼の吐いた吐瀉物混じりの生温かい血が彼女の鱗に覆われてしまった皮膚を濡らす。
「フィ、ノア……」
「あ、ああ……」
互いに泣きながら相手の目を見つめた。けれど、直後に彼女もまた完全に魔獣と化す。彼を殺すことしか考えられない殺意の塊になって攻撃を仕掛けて来る。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
巨漢の悲痛な叫びが街の一角に木霊した。
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