第3話 兎と虎は互いが気になる



「自由とは責任が伴うものです。貴方はなぜ一族に帰れないのでしょう? 一族から求められている責任を果たしていないからではないのですか。貴方のしていることは自分本位の身勝手な行為としか思えません」


「あんたになにがわかる! 知ったような事ばっかり言いやがって!」


 老虎とらはなぜこんなにも腹立たしいのかと、余計に苛立ちを募らせた。余計なことを言うのではなかった、と後悔した。


(わかってんだよ。んなことくらい——。なのに、初めて話したこいつに言われる筋合いはねぇ)


 兎族の男は肩を竦めた。


「この話は終わりにしましょう。いくら時間をかけても平行線だと思います。それに申し訳ないのですが、私は忙しいのです。貴方とお喋りをしているこの時間が、とても無駄なことをしているような気持ちになります」


「別に、あんたと喋りたかったわけじゃねぇ……」


 老虎は言葉に詰まった。すると男は大きくため息を吐いた。


「貴方から話しかけてきたのではないですか」


「うっせー。なんだかちょっと、あんたのこと……」


「私がなんですって?」


 男は瞳を細めて老虎を見据えてきた。老虎は答えに窮し、すっかり黙り込んだ。


(こいつには、全てを見透かされてしまうようで怖い。……怖いだって? このおれ様が、こんな兎野郎を怖いだって?)


 彼は老虎の真意を伺うかのように、じっとこちらを見つめていた。老虎は自分自身の心の動きに戸惑い、そして自問自答していた。しかしそれは。今ここで答えが出るような簡単なものではない。


 しばしの静寂の後、老虎は首を横に振ってから口を開いた。


「おれはこれから逃げるからな! あんたの命は助けた。おれはあんたを殺せたのに、殺さなかった。だから——」


「見逃せと?」


「そうだ。今回はおあいこだ。次会った時は、必ず仲間を返してもらう。それまで丁重に扱ってやってくれ」


「まあ! 堂々と逃亡宣言をし、更には捉えた罪人たちの処遇にまで口を出すと言うのですか!」


(いちいち気に触ることを言う奴だな)


 男は周囲の様子を伺うように視線を巡らせ、それから軽くため息を吐いた。


「いいでしょう。こちらもタイムリミットです。次にもし出会ったら、今度は本気で捕獲します。抵抗するならば、少々痛い目に遭ってもらうことになりますけれど」


「それはこっちのセリフだぜ! その首洗って待ってろよ!」


 老虎は兎族の男の前から身をひるがえす。それから屋根から駆け下り地上に降り立った。男は追ってくる様子はない。屋根の上を仰ぎ見る。


 大きな青白い満月を背に、そこに立ち尽くす男は、まるでこの世の者とは思えぬほどに美しく、老虎の心を捕らえて離さない。


(なんだっつーんだよ。おれ、どうかしちまったのか? あんないけすかねぇ奴が綺麗だなんて……)


 老虎は名残惜しい気持ちの意味を理解できずに困惑していたが、そんな思いを振り払うかのように首を横に振ってから、闇の深い裏路地に姿を溶け込ませた。



***



「いいのですか。見逃して」


 背後から明るい声が響いた。兎族の男——エピタフは、老虎が消えた路地から視線を外さずに「いいのです」と静かに答えた。


「本気で革命組をせん滅しようとしているわけではないのです。我々の目的は、革命組メンバーたちの『身の安全の確保』です。逃れた者たちは無事にアジトに帰ったことでしょう。

 ——軍事省は撤退しましたか? リグレット」


 背後から現れた鳶色とびいろの耳を持つ、やはり兎族の少年——リグレットは、耳をぴんぴんと跳ねさせてから笑った。


「魔法省に先を越された、と怒って帰っていきましたよ。明日、厳重に抗議すると言っていましたけど」


「そうですか」


 リグレットは「今回——」と言った。


「革命組が動いた理由は、どうやら西通りにある古物商から古文書を盗み出すのが目的だったようです」


「古文書?」


「ええ。闇市で売られていた古文書らしいです。例の歌姫のことが書かれた古文書らしいです。革命組もこの一件に関わるつもりなんでしょうか」


「そうでしょうね。彼らのことです。黙っているはずがありません。我々はおとりに踊らされて、まんまとしてやられたということですね」


「今回は完敗ですか?」


 エピタフは肩を竦めた。


「さて。なにを持って勝敗が決まるのか。私には測りかねますが、当初の目的は果たした。それで良しとしましょう。王宮にも古文書は存在します。奪われた古文書には、そう深い意味はないでしょう。……それよりも、あの虎にやられた者たちの傷はどうですか」


「ちょっとした打ち身ですよ。もうすっかり意識を取り戻しています」


「そうですか——」


(あの虎。手加減しましたね)


 老虎に痛めつけられた魔法省の職員たちは、ほぼ無傷に近いということだ。複数人の魔法使いたちが、仲間を捕獲しているあの状況下で、瞬時に判断を下し、仲間を救出しようとするその勇気に、エピタフは少々感銘を受けていた。


「武道に長けた男です。相手を傷つけずに意識だけを奪う術を知っている。敵ながらあっぱれ——と言ったところでしょうか」


「革命組なんて辞めて、こちらの味方になってくれるといいんですけど」


「そうはいきません。虎族です。仲間に引き入れたと知ったら、宰相ピスが卒倒することでしょう。それに、魔法を使える素質もなさそうだ」


 リグレットは「うふふ」と笑った。


「エピタフ様は、随分とあの虎がお気に入りのようですね」


「お気に入りですって?」


 突然のリグレットの言葉に、エピタフは声が上ずった。彼はつぶらな瞳を悪戯に細めて笑っていた。


「なにを言い出すのです。リグレット」


「だって。仲間を逃がすための追いかけっこにも敢えて乗っかるじゃないですか。楽しんでいますね。後ろを取られたのだって面白いからでしょう? エピタフ様が本気を出したら、あんな虎なんて瞬殺ですよ。それなのに、あんなに揶揄からかって」


「そんなはずありませんよ。私はそこまで性格がねじ曲がってはいませんから」


「そうかなあ」


「リグレット」


 嗜めるように彼の名を呼ぶと、流石に言い過ぎた、と思ったのだろう。リグレットは「すみません」と首を引っ込めた。


「まあいいでしょう。軍事省よりも先に何人か確保できたのです。夜も更けていますが、一度王宮に戻ります」


「撤退ですね。私は先に屋敷に戻っています」


 リグレットは小さく頭を下げると、その場から立ち去った。


 一人残されたエピタフはふと青白い満月を見上げた。闇に消えていった老虎の後ろ姿が脳裏によみがえる。その振る舞いは粗雑。言葉遣いも悪い。けれど彼の戦い方は合理的で、無駄がなかった。


 それになにより。老虎の瞳に見据えられると、心が持っていかれそうになる。ギラギラと炎が燃えている黄金色の瞳。時折見せる優しい色に、心が揺れる。


 エピタフは「自由——ですか」と呟く。


(そんなもの。私には不必要なものです。本当の意味で自由に生きている者など、この世界のどこにもいないのですよ。野生の虎)


 首を横に振り、王宮に向かうため、エピタフはその場から姿を消した。




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