だけんちゃんショートショート

犬護 駄犬

ティアドリップ

――人々の住む街にはたまに不思議な人がいるものだ。

――だけんちゃんの住む街にもそんな人がいたりする。


 その男はよく地元の喫茶店に現れる。

 だけんちゃんが宿題をするときも、友達を待ち合わせするときも、学校からの帰り道でふと窓を見たときにでも、その男は居た。

 しかし、彼は本当に何でもないような人間だった。例えば、身なりはなんでも無い、ジーンズとありきたりなシャツであったが、どこか幸が薄すいように思わせる雰囲気を漂わせていた。それは彼のスニーカーが薄汚れ、踵のソールが変に擦れていて、身体を丸く縮こめて、土踏まずを椅子の足の横棒にかけているからだろうか。いや、彼のその奇妙な喫茶店での過ごし方がその特異な雰囲気を一層漂わせていたのである。


 それは桜の木のある校舎に、暖かい日差しが雪を溶かす頃だった。

 寒い

「こんにちわ、千代子さん。ご機嫌いかがです?」

 まるで慈しみをかけるのように、だけんちゃんに優しく声をかけたのは初老の店主だった。バンダナを巻いた、長身の店主はその長い腕からそっと、白い小鉢を置いた。所々、ニスが剥げている深い茶色の机の上にある小鉢には艶やかな焦茶の宝珠があり、天井のシャンデリアの灯りを映していた。だけんちゃんは軽く会釈して、一杯のコーヒーを注文する。そうすると店主はにっこりと笑みを浮かべて一言。

「ホイップとチョコソースをトッピングでね」

そう呟くと店の奥におもむろに入っていった。いつものやりとりだ。


 一粒、宝珠を摘む。じわりと指先で溶けるのを感じるとそれを口にした。指先でカリッ、コリッとかみ砕くと、宝珠を形作っていたチョコレートはすぐにとろりと口に広がった。そして中に隠されていた本当のお宝――コーヒー豆のほろ苦さが喉奥に効いてくる、渋い風味であった。だけんちゃんがお洒落なオトナになれるひと時をもたらしてくれる瞬間である。ふふっと音にならないため息をつくと、指に溶けたそれを舐めとった。

 指を軽く拭って数学の宿題を取り出すついでに、ちらりと目を横にやる。

 例の不思議な人である。

 その奇妙な過ごし方はいつもだけんちゃんに興味を抱かせた。彼も小鉢の中にあるものを口にしていたが、その中身は宝珠ではなかった。隠されてもない、お宝そのもの。コーヒー豆をただ、齧っていた。飲み物はお水か白湯だけ。コーヒー豆でいっぱいだった小鉢はたちまち空っぽになって、その度に店主が気を利かせて新しい小鉢を持ってきた。コーヒー豆でたっぷりのを。

「彼はいつもそうなんですよ」

 コーヒーを淹れてきた店主はカップを置くときにそうつぶやいた。不思議な人……とだけんちゃんはコーヒーを啜りながら思った。

 半時間後、彼は席から離れ、金を支払うなりそそくさと出て行ってしまった。その机にはいくつもの空の小鉢があった。


 それから数日、だけんちゃんは小テストで苦い思いを味わった後、帰途についていた。いつもの喫茶店がある道のりの途中で軽トラを改造したであろう屋台車が出ていることに気が付いた。そして驚いた事に、その主人はなんとコーヒー豆を齧る男だった。目を丸くしながらだけんちゃんは早歩きで屋台車に向かった。その見た目の悪い屋台車には例の不思議な男がいた。

「君はたしか」男が見覚えのある顔に問いかける。

「たまに喫茶店にいらっしゃる方ですよね……そのコーヒー豆を」

「貪る男だよ」彼は遮って言った。

「気味の悪い事をしていたのは常々感じていた、あそこの店主は理解してくれたが」

 そう言うと小さなポットから、とくとくと一杯のコーヒーを注いだ。

「お詫びとして、とりあえず飲んでみてくれ」ずいとカップをこちらに伸ばした。

「ええ……」おそらくエスプレッソ用の小ぶりなカップだった。

 すすっと啜る。ぬるく、わずかにとろみのついた飲み心地。

「これは……」だけんちゃんは眉間にシワを寄せる。

 それはコーヒーというにはあまりにもはっきりとしない温度で、熱くもなく、冷たくもない。端的に言えば、ぬるいというべきなのだろう。しかし、まるで元からその温度であるべきかのように彼女の口に馴染んだ。驚くべきことに、まるでいつか昔に味わったかのような懐かしさを覚えさせたのだ。そして、わずかにとろりとしたコーヒーはシロップのように舌を包み、飲み込んだあとも風味をどこまでも残していた。そして風味がいつもの喫茶店の豆以上にとても複雑であったのだ。深煎りのカカオを思わせる風味に塩味を感じさせ、わずかに土臭さすら感じさせる後味が続いた。

「驚いたか」男は無愛想に言った。

「ええ……とっても驚いた!でもどうやって――」

「企業秘密だ」また話を遮った。

「ですよねー」彼の話し方は少しうんざりとさせた。

「今日は試しで店を開いてる。明日からKホームでやるつもりだ」

「ホームセンターなら屋台車も多いし、いいかもね。じゃあ頑張――」

「ありがとう」

「もー!話を最後まで聞きなさいよ!」


 彼の移動コーヒー店は初め、散々な評価だった。ドリップコーヒーという看板に期待した客には期待を裏切るものだった。味はいいのだけれど、やっぱりぬるすぎる、そして量も少ないのに500円もするんだとだけんちゃんの友人が言ったことがある。サービスしてもらっただけんちゃんはちょっと得した気分だったが、やはりそうだよねとも思わせる評価だった。あのぶっきらぼうな性格も関係あると思うが……とも彼女は考えた。

 しかし数日すると段々と評価が変わってきた。意外にもこの街にはコーヒー好きが多いらしく、彼の屋台とコーヒー入りのカップを撮ったSNSの投稿が出始めた。そしてその口コミは広がっていってあっという間に街の名物コーヒー店になっていた。


 暖かくなり始めた頃、いつもの喫茶店でアイスコーヒー(それとサービスのホイップとチョコチップ)を飲みながらスマートフォンでニュースを読んでると思わず吹き出しそうになった。なんと彼のコーヒー店に往年の俳優やタレントなどの著名人すら並んでいるということだった、それだけならただの流行とも言えるかもしれないが、政治家や大企業の社長すらこぞって乗り付けてくるというから尋常じゃない。いくらコーヒーが好きなだけんちゃんにとっても、たった1種類のコーヒーだけで日本中の人々が興味を持つとは考えられなかったのだ。

「この味が懐かしい」と皆が口を揃えて語る。

 確かに、どこか懐かしい風味だったが、だけんちゃんにとってはそれほどまでではなかった。一体何がそこまでファンを生み出しているのだろうかとだけんちゃんは首をかしげた。スマートフォンの画面には老人の夫婦が並んでいる姿が写っていた。


 桜が蕾を蓄えた頃、人気は絶頂だった。決して多くを語らない男が淹れるコーヒーは大人の人々を虜にした。記憶の中の夕陽に照らされた芝生のような風味とかどうとか、感傷的なレビューがたくさん続いた。ホームセンターにある小さな屋台車への注目はあまりにも大きく、大手マスコミやテレビ局がこぞって大金を積んででも取材を申し込もうとしたのだ。とはいえやっぱり彼の事だ、取材をしたとしても多くは語らず、コーヒーの淹れ方のコツ程度でしか話さなかった。もちろん誰も彼の味を再現できず、何か怪しいものでも入ってるのではないかと疑問に思った人もいた。しかし、衛生管理の専門家が調理場やそのコーヒーの液を分析しても何もやましい物は入ってなかったのだ。安全でもあると分かったらもう人気は止まらない。弟子入りさせてくれと願い出る者すら現れた。もちろん弟子を取るような男ではなかったが。


 桜が新緑に衣替えを終えた頃のある日、だけんちゃんは買い物の用でホームセンターを歩き回っていた。無事に買い物を終えて駐車場に出るとどうも騒がしい。大きな耳を音の方向に向けるとどうも例のコーヒー屋での騒ぎらしい。

「いつになったら来るんだ!」

「もう2週間も来てないぞ……」

 どうやら客同士で揉めてるらしい。どうやら急に来なくなったそうで、困惑しているそうだ。

「もしかしたら……」だけんちゃんはさっさと家に帰り買い物袋をどさりと置く。そしてすぐにいつもの喫茶店へと向かった。確か彼はそこで豆を仕入れているはずだった。

 自転車を漕ぐ間、だけんちゃんは好奇心と後悔でいっぱいだった。なんで今まで喫茶店の店主に聞かなかったんだろう。あの奇妙な男が一大コーヒー屋に成長するなんて、一体何をしたんだろう。いつもの喫茶店は通学路にあるから学生には人気だけど街の外から客が来るほど人気じゃない。ということは呼び込むためにあの男に屋台車の仕事を与えたのだろうか、あまり良い服装ではなかったからお金に困っていたのかもしれない――そんなつまらない推測がたくさん出てくる。親しい店主をなんだと思ってるんだとだけんちゃんは頭をぶんぶん振った。顔を上に向けると桜が取りこぼした空の青さとと新緑を透かした明るい色が暖かい日々の平穏を象徴していた。


 お店には客はいなかった。もちろん、あの男も。

「おや、休日におひとりとは珍しいですね」店主はにっこりと笑った。

「ちょっと聞きたいことがあって……」いつもの席に腰掛ける。

「なんでしょう?水出しコーヒーは今日からだがね」だけんちゃんの聞きたいことはそれじゃないが、それを注文した。

 出された水出しコーヒーは期待してた通り、透き通るような風味だった。ただ、懐かしさというものは感じなかった。

「さて、何の御用でしょうか」店主はおもむろに小鉢一杯のお通しを置いた。

「最近あの不思議な男の人がお店を開いていたのですが、最近はやめてしまったそうなんですよ」

「ああ、彼ですね」

「あんなに人気だったのも疑問なんですが、どうして急に辞めてしまったんでしょう。何かご存知ですか?」

「人気の理由は私が煎ったコーヒー豆のおかげですよ……と言いたいところですが、彼の淹れるコーヒーはかなり独特です。なんでも、歳を取るにつれて若い頃の思い出を懐かしむようで、その頃の感情を呼び覚ます方法を知ってると言うことですが……」

「通りで大人がたくさん集まっているわけだったんですね」

「私も一口飲んだ時は思わず涙が出てしまいそうだったよ。ただ、わたしは自分の淹れるコーヒーが1番だと思っている」謎のサムズアップをした。メガネが輝いた。

「そして辞めた理由だがね……」店主が立ち上がり、ガラスコップに入れた一輪の花を手に取った。それは既にしおれていて、色も褪せている。

「先週だったか、彼がここに訪れてこれをくれたんだ。スミレだよ。たまたま咲いてて綺麗だったと持ってきてくれた」

「綺麗ですけど、もう枯れちゃいそうですね」

「だが美しい」そう言い切った。侘び寂びというものだろうか。

「でもそれが辞めた理由になるんですか?」

「その時に彼は言ったんだ、もう感情を動かすのは疲れてしまったんだと。それにあまり体調の良くない娘さんがいたと明かしたんだ。娘への思いをコーヒーに流して、なんとかお金稼ぎをしていたと」

「そんな、まるで娘が亡くなったみたいじゃないですか」

「涙が枯れたとも言っていたな」


 店主がスミレを戻すと一枚、花びらがこぼれた。

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