サイボーグドッグス

犬護 駄犬

サイボーグドッグス

第1章 夜明け

第1話 星ヶ島

 ひび割れたコンクリートの床から地上4メートルにいるアルヴィナ・フィルシアンドを2発目の閃光と爆音が包んだ。その2メートル上ではバディの男がダブルアクションの拳銃の引き金を半分引き終えて、今にも撃発しようとしていた。そしてその狙いは地上へ、油断を突かれて立ち眩んでいる傭兵達の1人に向けられた。まもなく、その閃光で狙いがつけられなくなると知らずに。間もなく銃撃戦が起きるだろう。ケースから手を離す、こいつを手に入れるのは苦労した。これをあの無鉄砲な女に渡したらどうなるのだろう?興味が湧いて来た……ここは成り行きに任せよう、この室内を包む煙のように。目を閉じると閃光が右眼、左眼の順に流れていった――。

 

 眩しい太陽の光を追うように電車が左に曲がり始めた。夏の陽光が右から左へと少しずつ流れる。もう夏も終わりで涼しくなってきたが、それでも頭痛が起きそうなくらい海は輝いていた。手に持っていた携帯電話の液晶も目一杯明るくしていたが、真っ暗のように見えている。しばらくすると電車は真っ直ぐへと向きを変え、そのままトンネルに入った。風圧で薄い窓がたわみ、車内の光で一瞬きらりとガラス面が輝いた。

 ……携帯電話の電波が入らない。

 仕方ないので携帯電話をしまった。周りを振り回したが、特にやることはなさそうなので窓に映る自分の姿を見つめていた。いつも目に入るのは髪の毛だ、母の髪色が混じったブロンドヘアは金から明るい茶髪をまばらに蓄えていて、アタシのお気に入りだった。しかし、父譲りの髪の硬さであちこちが派手に跳ねていた。朝は抑えてたはずなのに昼を過ぎるといつもこうだ、何時間かけようとこの髪は言うことを聞かない。これはちょっとしたコンプレックスだ。顔はと言えば、やはり母と同じように彫りが少し深く、大きいなアーモンドアイと小さな口は父に似ていた。目の色は茶ともオレンジとも取れる色でなかなか珍しいものだという事だった。

 オレンジ色の目立つ服は分厚い防刃生地で仕立てられていて、その生地の裏には衝撃が加わった瞬間に固まるジェルが充填されていた。保冷剤のようにぐにゃぐにゃと包まれるような着心地は人を選ぶもので、この直射日光の下ではひどく蒸れるものだった。なんとかして脱ごうにも、手で持つには重いので着るほか解決策がなかった。そもそも脱ぐ事は推奨されていない、所属を示すものだったからだ。

 ――特別民間武装法人星ヶ島自警団。

 武器の所持を認められている証ゆえに、ジャケットは目に付く色だったのだ。


 物思いに耽ってると、ようやく電車はトンネルを出た。窓に映っていた狭い車内にいるアタシの姿から、星ヶ島の海岸、水平線から空まで伸びる海にへと景色は変わった。本州と星ヶ島を連絡する浮島『スターオーシャンアイランド』から、星ヶ島に上陸したのだ。島で唯一の路線に乗って電車は星ヶ島を横断していった。

 トンネルを出た先は観光地区になっていた。煌びやかで豪華な商業施設が多く立ち並び、その中でもとりわけ大きい観覧車が出迎えてくれた。トンネルから出て5分も経たないうちに遊園地が営業するホテルの駅に到着すると、大きな荷物を持った観光客らしき集団が慌ただしくも楽しみそうに降りていった。出発の頃には随分と乗客は減った。今から発車する電車にいるのは本州から島に帰る人と、祝日に休めなかったビジネスマン、そして自警団のアタシだけだった。元々予定が無かったけど、あんなに楽しそうな人がいるなら友人でも誘ってどこかに行けばよかったと思った。この休日シフトの振替でどこかに行こうかなとさえ思えてしまう。

 商業区を過ぎて、島を縦断する巨大な公園に差し掛かった頃、後ろの車両から同僚の男がおもむろに入ってきた。

「見回りついでに車掌と話してきた」

 そう言うと男は暑そうな黒いロングコートを脱いで、電車の椅子に腰掛けた。重いロングコートはぐにゃりと席に形を馴染ませた。周りの人が彼の姿をチラリと見たが、アタシの服を見て納得したように各々の会話や作業に戻っていった。彼もまた、自警団員で拳銃を2丁ぶら下げていた。周りが落ち着いてそうなのを見てから声をかける。

「何か言っていた?マージェス」

「……特には。最近の噂とか全くの出鱈目に思えるくらい、普段通りらしい」

 噂というのは、最近電車の自動化がようやく始まったという事だ。本州の大都市では、とっくの昔に自動化が行われているが、規模の小さい星ヶ島の鉄道会社では長らく自動運転が見送られていた。

「それと、ここから後ろの車両はセーフだ。家族連れと本州から帰ってきた人くらいで怪しいやつはいない」

 マージェスはアタシの方に目線を向けた。なるほど、見回りしなくちゃいけなかったのか。チラリと後ろを振り向いたら、問題なさそうだったので誤魔化すことにした。

「……えーっと、確認済み。この遊園地で新しく乗ってきた乗客はゼロだったわ」

「そうか」

 マージェスは特に何もいうことなく、これまた暑そうなプレート入りのキャップを脱いで、この暑さにため息をついた。

 マージェス・ザックサンズはアタシのバディだ。英系アメリカ人の彼は、日本の生まれだ。その後アメリカに家族と共に帰国、警察官として数年勤めた後、うちの自警団長に引き抜かれる形でこの仕事に就いた。彼は趣味を兼ねた特訓であちこち軽い怪我をしていた。今日の彼の新鮮な生傷は柔道の時に切った耳、短い茶髪に白いガーゼが目立っていた。また、瞼の薄い垂れ目には若干の疲れが残っているように見えた。

「それにしてもその制服、暑そうね」

「まったくだ……銃で撃たれるよりこの暑さに殺される」

 マージェスの隣の席に置かれたロングコートも、アタシの制服と同様に分厚い生地でできており、もれなくジェルが詰まっていた。加えて、彼の制服の上着は戦闘向きの特殊警備隊仕様ということでロングコートになっていた。おまけに黒い。夏に着るのはもはや拷問だし、何が戦闘向きなのか全く理解出来ない。

 アタシはまだ普通の警備隊だから、このオレンジのジャケットで済んでいるけどそのうち特殊警備隊に異動したらこれを着ることになるんだろう。

 別部隊所属の隊員とバディを組む事なんてほとんど無い。そういう時は大抵異動が近いことを前提となっている。特殊警備隊はいつも人手不足だし、マージェスが他部隊への異動届けを出したという話は聞いていないし、彼自身そのつもりは一切なさそうだ。つまり、この悪魔のロングコートを着る日は目前だと言っていい。少しうんざりしてきた。

 そうこう考えているうちに、電車は星ヶ島最大の公園の駅に到着し、さらに乗客が減った。

「……なんでアタシ達、こんな暑い電車で警備してんだっけ」電車はエアコンが効いていたが、日光がジリジリと熱を感じさせる。

 早く夏が終わらないものかな、目を細くしながら宝石を散らばせた海をじっと眺めた。トンネルを抜けた時より遠くに行ってしまったが、そのおかげで小さなダイヤモンドが積み重なるように光を輝かせていた。

「抜き打ちでの警備だからだ。楽勝な仕事というのはサボりを正当化してくれる」

 辺りを見渡しながら彼は言う。サボりと言うが、入念に周囲を確認する様は生真面目に思えた。

「なんだ、あんたもサボりたいときあるのね。まぁ、休めるならいいけど」

 アタシも吊革から手を離して、マージェスの向かい側に座った。もう1車両に5人も乗っていなかった。

「たまにはこういう楽な仕事も良いもんだろ……ん?」

 マージェスは怪訝な顔をしながら自分の左耳を指差した。連絡が入ったらしい。イヤホン型の通信機を指で押さえながら、相槌を打っていたが、すぐに連絡は終わったらしかった。彼はおもむろにロングコートを着ると右脇腹に吊り下げている拳銃――ナガンM2005を指先でトントンと叩いた。アタシはなるほどと頷いた。

「さて、次の駅で降りよう」

 緊急出動だ。


 電車が騒がしい街に入る前、再開発が予定されている北の静かな工業地帯跡地へと迂回した。今の星ヶ島は世界有数の先進的な埋立地だが、その最初期は別の工業地帯から持ち込まれた特殊な処理を要する排水や廃棄物の処理施設が多数建てられていた。今は廃棄物処理技術の進歩と島の経済構成が変化したことで、施設が必要なくなり、その跡地だけが残っている。ただ、廃棄物に含まれていた化学物質の影響でここだけは雑草すら満足に生えないほど汚染されていた。綺麗に整備された公園と徹底的な管理下にある商業施設区と中心街から比べたら、ここはあまりにも退廃的であった。

「いつ来てもここは静かだね」電車から降りたアタシはそう呟いた。

 ねっとりとした熱気には海の臭いと生ゴミの甘ったるい臭いが混じっていた。ここで息を吸うとむせそうになる。

 駅からそう遠くない所にまだ取り壊しの進んでいない地区があったので、そこに向かった。ホームレスや密売人、チンピラの溜まり場になっているらしく、自警団による一斉摘発やボランティアによる救援活動も虚しく、度々トラブルが発生してる危険地帯だ。大抵緊急出動がかかるのはこのあたりだ。マージェス曰く、ここだけはアメリカの治安が悪い田舎町のようだという。しかしながら、この朽ちかけてる雰囲気は嫌いじゃなかった。

 アタシ達は窓が茶色に汚れ、屋根がひどく錆びている赤煉瓦の工場に向かった。そこで壁に寄りかかりながら、酒瓶をぷらぷらと振っている薄汚い老人に声をかけた。

「様子はどうかしら」

「隣のブロック、煙突の先が赤い工場だ」老人は擦り切れた喉奥から捻り出すように話し始めた。

「あの工場の中で違法薬物の取引が行われている。先程取引相手が入った。お前たち以外に、小林・白兎バディとスパイク・ダニエルバディの2バディを手配している。10分後には到着する。お前達は工場の西から潜入し、内部の様子を確認しろ。西にある塀から事務所に入れば、売人と客の両方から死角を保てる。売人と客は工場北出口から入った。客の車種はセスタ製のグレーのセダン。工場に入った売人は3人でハンドガンを携帯、見張りは2人でハンドガンとサブマシンガンで武装している。そして売人だ、こいつは詳しく分からん。少なくとも成人していないだろう。奴は徒歩でここまで来た。商品と思われるケースと特殊なヘルメットを装備している。鉄砲玉の可能性もある、気をつけておけ」

 老人は立ち上がり、足早に立ち去った。

「うちの諜報科は優秀だな」

「あんたも諜報科でしょうが」

「どういうわけかこっちの仕事しか回されないんだよ」なんとも言えない苦笑いを口に含みながら、彼は再び拳銃、今度は左脇に収めてる.45口径のグロックを指で叩いた。


 曲がりなりにも諜報科として潜入の訓練を受けていたマージェスに連れられ、あっさりと工場の2階の事務所にたどり着いていた。かつて工場でフォークリフトなどが走っていたのであろう、あちこちに凸面鏡があり、そこから売人と客の様子が伺えた。何か話をしているらしい。

「ふむ……早速取引してるじゃないか」

「なんでこんな所で取引するんだ。バレバレじゃん」事務所に積み上げられたカビ臭い段ボールの陰に潜むアタシは呟いた。

「まずいな」物陰から顔を出していたマージェスが急にしゃがみ、静かにこっちへ移動した。

「どうかした?」

「情報通り、売人らしき少年がフルフェイスのヘルメットを被っているんだが、その表面にカメラが付けられている。それも軍用のだ」

「えっ?」アタシが物陰から顔を出そうとすると、マージェスはすぐに頭を押さえつけた。革のグローブでぐいと押し付けるもんだから髪の毛、特別毛根の頑丈な毛が数本音を立てながら抜けた。痛いなんてもんじゃない、目がチカチカする。

「痛った……!なにすんの!」

「軍用カメラというのはかなり視界が効く、鏡にいるオレたちなんて見られたらすぐに気付かれるぞ。鏡で見た目が変形してても、機械の眼からならすぐに覗いてると分かるんだ」

「でもなんだって子供がそんな装備を?」まだがっしりと頭を押さえているマージェスの手を払った。髪の毛がもっとめちゃくちゃになった。

「あんなものを使えるのはこの島では限られている、これはきっと都雅コーポが絡んでる……」

 髪をどうにかしていたアタシは、都雅と聞いて目を丸くした。

「なにか様子がおかしい、ここは連絡するべき――」マージェスが携帯端末でメッセージを打とうとした、その時に事態が動き始めた。

 どうやらもう1つ、グループが現れたらしい。ただ、呼ばれざる客であるのは明らかであった。その様子から銃を構えたまま立ち入ってきたことは容易に想像できた。

「動くな!」静止を促す声と共に、何人もの厚底のゴム靴の擦れる足音が響いた。その足音にまじって異様なほど、重く、固い機械音も混じっていた。

「くそ、何が起きてる」

 メッセージを送信したマージェスは静かにグロックを抜いた。もっとも、完全装備の連中に効くとはマージェスも思ってないだろう。

 マージェスはこの足音が落ち着くまでの間、恐らく人と判断されないであろう、ナイフをダンボールの影から覗かせた。刃の表面にはは周囲の光景が圧縮するように映されている。アタシ達2人は鏡を覗くようにして、付近の様子を見た。ナイフで凸面鏡を写しているもんだから確認するのはひどく難しいことだった。バディが言うには、どうやら押し入って来たのは5人だ。その内、1人が異様なブーツを履いているように見える。機械頭の少年の1人と3人の売人は銃を構える暇もなくただ手を上げていた。メッセージの返信が入る、すでに向かっている4人以外の応援は期待できないそうだ。状況を判断しながら監視を続けろとのことだった。

 

「お客の方々はごめんなさいね。私たち、それを取り戻しに来たの」

 静かになった頃、ブーツを履いた1人が一言発した。若く、自信ありげな女の声だ。

「色々言いたいのはわかってよね?春取くん、そのヘッドセットも持ち出し禁止なのよ。今ならまだお仕置きだけで済むわ。この売人らは捕まえるとして、あなたは戻るだけの権利……いや義務がある」

 春取と呼ばれた機械頭の少年は、そのレンズだらけのヘッドセットをおもむろに外した。彼はサイボーグではない、生身の人間だった。そして、ヘッドセットが外されたという事はアタシ達が見つかる可能性も減ったという事だ。マージェスはナイフの反射を覗き見る監視をやめ、録画を行うためにカメラを取り出した。より鮮明な映像が確認できるようになった。女と春取という男の様子が分かるようになったが、その女の姿はやはり異様だった。武器は携帯していないが、その体格に似合わない異様なブーツが嫌悪感を覚えさせた。彼女の華奢な上半身に比べて、脚が長く、太すぎる。まるでコンパスのような容姿だった。下半身だけサイボーグとでもいうのだろうか?

 春取は女を見つめた後、手元のヘッドセットを静かにアタッシュケースの置かれたドラム缶に載せた。茶髪のぼさぼさな頭を横に振って、女をジロリと見た。若く見える彼の眼光はまるで死に瀕した老人のように濁った眼であった。そして、彼は数ある鏡の中から1つだけを見つめた。アタシ達に目を合わせてたように感じる。マージェスも同じことを思っていたようで、まさかという表情でこちらを見た。ただの偶然だ、と言うようにアタシは首を振った。長い沈黙の後、春取は鏡から目を離し、見た目に似合わない低い声で言葉を発した。

「ヘッドセットなら返そう、だがこいつはだめだ」少年のすぐそばにある錆び付いたドラム缶の上の小さなアタッシュケースに手を乗せた。

「だめよ。それの回収が第1目標なの、開発部もカンカンなのよ。資料も、研究室もあんた全部めちゃくちゃにするから、完璧なそれを作るにはまた16年かけて研究するか、それを5年かけて解析するしかないのよ。かと言って力づくで奪い返そうにも、あんたとやり合うのはなぁ……」女は半ば呆れ気味に説得を始めた。

「おいおい、一体何を言ってるんだ。俺たちはただヤクを……」客と思われる男の1人が言った瞬間だった。

 初めは目の錯覚かと思った。少なくとも5メートルは離れているブーツの女が、一瞬で少年を通り過ぎて客の男のすぐ前に辿り着いた。倉庫内の風が激しく乱れ、埃が舞った。女はショートヘアの髪が乱れていることを気にせず、その男をじっくりと見ながら言った。

「あなた、これを買おうとしたの?」細い腕先の指を伸ばして、アタッシュケースを示した。

「おまえ……」

「やめといた方がいいよ。こんなのに追いかけられるの、嫌でしょ?」異様に長い脚を反対の手で撫でながら女は言った。

「出て行ってくれないかしら、見逃すわ」

「わかった、わかったよ」

 客と思われる男は慌てた様子で仲間を連れ出した。マージェスがすかさず、こちらに向かっていた応援の1つを追跡に向かわせるように連絡した。

 ブーツの女が少年に振り返った。脚のふくらはぎにあたる箇所から熱風が出ているのが確認できる。あの脚で蹴られたら、ひとたまりもない。下手に反撃しなかった客は賢いなと感じた。しかし、ではなぜこの女は力ずくで奪わない?

「で、返してくれるかしら?」

「無理だ」

 少年はアタッシュケースに左手を乗せた。そして右手に握り拳を作ったのを見て、ブーツの女の部下達は一歩ほど後退った。

 ブーツの女もできるだけ、騒ぎを起こしたくないようだった。しかし、どうもこの女は説得には向かないようだ。悩みに顔が僅かに歪み、何を言っていたか全く分からないが、悪態をついていた。

「――いい?よく聞いて。あなたが怒る理由も分かるわ、私だってすごく複雑な気分なの。でもそれだけは駄目、これ以上の犠牲が増えるかもしれないのよ」

「犠牲が起きるのはやむを得ないだろう。その覚悟ができているのはお前も理解してるだろう?どうして反抗しない?」少年の問いかけにブーツの女はやるせなく答えた。

「私達は常人じゃない。一人で制御するには強大すぎる。力を正しく使うには、都雅に従うしかないのよ。それに、面倒を見てもらわないと生きることすら難しいわ」

「だからと言って、飼い犬Cyborg Dogであるのが正しいとは思えないな」少年の声にドスが効いてきた。深い怒りは離れたアタシたちにも伝わってきた。

 都雅コーポレーションの内ゲバか?マージェスがつぶやいた。いつ戦闘になるのか分からない雰囲気にアタシも銃を抜いた。かつては過剰に思えた自警団の制式拳銃の.45口径がこれほど頼りなく感じるのは初めてだった。それでも、グリップを強く握りしめて覚悟を決める事にした。あのケース、そして少年には何かある。

「落ち着いて、春取――」少年が遮るように言った。

「さっきから、2階でおれたちを見ているのは何なんだ」

 心臓の音が一瞬、聞こえなくなった。わずかな世界の静止の中、マージェスが動き出していた。アタシが立ち上がる頃には、彼はスタングレネードとスモークグレネードの両方を1階に向けて投げ付けた。刹那、彼の後ろ姿が閃光に蒸発した。けたたましい爆発音、そしてアタシも続く形で2つ目のスタングレネードを投げた。もはや、何も聞こえず、何も見えない白い世界。

 本来なら逃げるべきところを、アタシは何を思ったのか、逃げるための攻撃を突撃のための攻撃にしてしまった。2階から、それも奴らに向けて飛び降りたのだ。マージェスは恐らく叫んだだろう。しかしもう遅く、風が服と髪を撫でた。重力だけを頼りに地面へ足を向けるのは困難だった。それに無限に落ちるかのような感覚に陥りそうだった。しかし、急に加わるコンクリートの衝撃にアタシは膝を崩し、前転するように転げた。まだ、耳鳴りで何も聞こえていないアタシは、何かにぶつかった時、それが錆び付いたドラム缶だとは気付かなかった。いつ襲われるのか分からない中で、煙幕に立った。脚は……どうやら折れていない、頑丈な身体に感謝だ。揺らぐ白い膜に、例の少年がアタシを見ていた。狂人を見るような顔だったが、目が合うなり彼は何か勝ち誇るような顔をしながら、指をこちらの足元に向けた。

 アタッシュケース。ドラム缶が倒れた拍子にアタシの方に落ちたのだろう。小さなケースをぱっと拾い、少年に再び顔を向けると瞬く間に銃弾が飛び交った。互いに煙へ隠れるように離れ、少年を見失った。アタシが落ちてきたことに女の部下は誰も気付かなかったのだろう。銃弾は2階へ向けて光の軌跡を残していた。まだ使っていなかったスモークグレネードを出入り口に静かに転がし、重い鉄の扉の隙間から脱出しようとした。後ろを振り返るとブーツの女は煙から遥か高く、天井までの15メートルすれすれまで飛び上がっていた。アタシは危機を感じ、とにかく外に出ることを考えた。

 北の出口には客の連中がいると伝えられていたため、ハンドガンのセーフティを外した。この事態にあの弱腰な客は逃げるだろう。だが、用心棒が豊富な装備を持ち出して来たら?アタシはすぐにズタボロにされるだろう。現場に居てはならないのはアタシ達の方だ。自警団は少なくとも裏社会の連中から恨まれている。嫌な考えが脳裏をよぎる中、後ろでは壮絶な銃撃が起きている。もう引くことは出来ない、一歩一歩出口の扉から外に出る。飛び降りた際の痛みが今になって脚を包んでいた。

 歯を噛み締める。耐えろ!死ぬぞ!と自身を鼓舞した。

 煙の隙間が見える度、銃口を向けて敵がいないか確かめた。そして、煙が晴れているところまで移動すると、発進時のタイヤ痕がくっきりと残されているのを見つけた。つまり、客は都雅の犬が恐ろしくて、とっくに逃げていたという事だ。そこに知っている声がした。

「アルヴィナさん!?よかった、こっちへ」応援に駆けつけていた白兎がサブマシンガンを抱え、影から出て来た。繰り返される銃声に体を縮こめながらも勇敢な彼に連れられて安全なところへ避難し、携帯端末で連絡するとすぐに車が駆けつけ、それに飛び乗った。

「何があった?マージェスはどこへ?」同じく応援で白兎のバディ、運転手の小林が叫んだ。

「見つかったんだよ!しかも相手は都雅のサイボーグだ!マージェスが先に仕掛けて、アタシは脱出した。あいつとははぐれたから行方は分からない……」小林とダニエルは驚愕した顔を見せた。

「で、そのアタッシュケースは何なんだ?まさか盗んだとでも言うのか!」太腿に乗せていた小さなアタッシュケースを指差した。

「……戦闘中に売人とばったり出会っちまって。……うん、貰った」それを聞いた2人はがっくりとした。やっちまったなと白兎は呟き、小林がハンドルを親指で軽く叩きはじめた。

「……とりあえず尾行がないか、確認しながら帰るぞ」

 運転する車は、持ちうる限りの力を振り絞りながら、路地に入った。小林の運転は激しく、路地にあるドラム缶やらゴミ袋を次々にはねながら狭い路地を走った。このあたりの土地勘は彼最大の長所、袋小路に捕まることなく大通りへと向かった。激しく揺れる車内、白兎はアタシに怪我がないか確認を済ますと小銃を脇に抱えて外を見た。19歳の新人の顔には汗が浮かんでいて、グレーの髪が額に張り付いていた。

 心臓の音がようやく感じられるようになった、はち切れんばかりに脈を叩いている。軽い目眩すら起きている中、手元にあるアタッシュケースを眺める。強化プラスチックで覆われたそれはずっしりと重く感じられるように思えた。Dと書かれたステッカーのそば、取っ手のあるロックを外し、おもむろに開ける。外を警戒していた白兎も手元へ視線を向けた。それは教会や劇場の重厚な両手扉を開けるかのように、がこんと音を立てて開いた――。

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