TABAKO(旧煙草)

洙槿

第1話


 蝉がそろそろ求愛を始めようかと迷っている時期にその授業は行われた。

 現代文の先生は授業をしに来ているのか、雑談をしに来ているのか、全くわからない。ただ、今日は少し雰囲気が違った。昨日の小テがみんな悪かったのだろうか。私は満点だったはずだが。入ってくると同時にチャイムが鳴る。席についている私は先生の優しい口調の号令を聴く。週番長が黙想と言い、半分の生徒は目を開けていても先生は何も言わない。私は目を開けたら先生がいないかなと思いつつ黙想をする。黙想って精神を落ち着かせるためのものなら私も目をつぶっていない人たちと、いやそれ以上に不良な生徒なのかも。

 そんなことを考えて礼をする。すると、先生はいきなり言った。

「悪いけど今日から三週間は机を班にしてください」

 意図がわからない。今まで班でグルーピングなんてしてこなかった。嫌だ。いつもみんな先生の授業は聞かされるだけだから小テが終わったら寝てるけど、熱心に聞いている私はいるのに。先生が言っていることはよくわからないけど、先生の声を聞いている私がいるのに。グルーピングなんてしたら、先生の声を聞く時間が短くなるじゃん。

 そんな私の気持ちなんて知らないから先生は言葉を続けた。

「今日から皆さんに短歌を作ってもらおうと思います。ただ、いきなり作れと言われても困ると思うので、テーマと作り方を教えますね」

 ほう、テーマか。短歌ってラブレターというイメージしかない。

「テーマは『初恋』です」

 ほう、初恋か。初恋って苦いか酸っぱいかのイメージしかない。

 「で、作り方ですが、かの有名な小倉百人一首から選んでそれを紐解いていきながら学んでいきましょう。ではプリント配りますね」

 そういって先生はその角ばった少し頼りない細い指でプリントを数えて各列の先頭に配る。

 こういうのって経験とか本とか漫画とかで作っていくんだよね。確かに恋愛系の本とか漫画はよく読むけど、ああいうのって詐欺だと思う。だってあんな奇跡みたいなことがそうそう起きるはずがない。

 先生の百人一首のどれかを説明する声を聞きつつ、私は奇跡が起きなかった初恋に、あの頃に思いを馳せた。



 塾の帰りにコンビニでコーンポタージュを買って改札に入った。ホームには黒縁にパンツスーツのいかにも芋女っていうOLと開放型ヘッドホンからアニソンが漏れ出しているイケメン風大学生だけ。

 前は一緒に帰る人もいたのに、と自分を少し恨みつつプルタブを持ち上げて押し下げて缶を開ける。少しずつ飲む。猫舌って面倒臭い。そんなことを彼に言ったら、舌の使い方がヘタクソなだけ、だと一蹴されてしまった。私の方がよっぽど面倒臭かったのだろうか。

 半分くらい飲んだところで電車がホームに入ってきた。それに入ると優先席じゃないところが空いているのにも関わらず、私は吊革に吊られることにした。今座ると終点まで立ち上がれないような気がして。

 二駅で降りると改札を出て駐輪場に向かった。駅から五分くらい歩かないといけない。意外に不便だ。疲れているときは特に。なんで駅の横の空き地を買い取らなかったんだ。

 駐輪場につくと女子高校生がいた。毎日どこかの自転車のサドルに横に腰掛けて煙草を咥えている。特に恐喝されるわけでもないのでいつも無視していた。でも、今日は声をかけざるを得なかった。なぜなら私の自転車に座っているから。いなくなるのを待とうかと思ったけど早く帰ってご飯食べたいし、眠りたかったから、声をかけた。

「あの……その自転車、」

「ああ、君の?ごめんね。あ、ねぇねぇ、君東中でしょ?」

「え?は、はい」

「へー、東中って不良多くない?誰かにいじめられてない?」

「だ、大丈夫です」

「私も東中だったんだ。だから一応先輩!」

「あ、はい」

「まあ、そんな硬くならんくてもいいよ。私なんてこんなだし。毎日塾?」

「家だと集中できないので」

「ふーん。兄弟いるの?」

「い、いえ、いないです」

「テレビとか?」

「ニュースしか見ないので、あんまり……」

「ふーん……」

 ここで沈黙が続けばどいてくれるんじゃないかと思ったのに、私の口からなぜか言葉が出た。

「せ、先輩もですか?」

「私が勉強してるように見える?」

「あ、いや、そうじゃなくて……、先輩も家が嫌い……ですか?」

「うん。嫌い。……がからこうしてるの」

先輩は一瞬大きく目を見開いて、そのあと即答した。驚くほど力強い声と目で。そのあと少し恥ずかしそうにはにかんだ。

「……毎日ですか?」

「そうだよ。おっと、そういえばこの自転車君のだったや。ごめんね。なんかこんな話しして。じゃ」

「あ、あの」

「ん、どうしたの?」

「時々、来てもいい……ですか?」

「いいよ。話そ話そ。面白そうだし」

「ありがとうございます」

「でもねー、今日は早く帰った方がいいよ?そろそろお巡りさん来ちゃうから。補導されちゃう。私もかーえろ!じゃあね!バイバーイ」

「バ、バイバーイ……」

 少しぬるいサドルにまたがり家に帰ってご飯を食べてお風呂に入って、ベッドに入った。でも、なかなか寝付けなかった。それがなぜかはよくわかっていた。だけど、本当にそうなのかと自問自答しているうちに眠った。次の日は寝不足でずっと片足を夢に突っ込んだ状態だった。

 キーンコーンカーンコーン。



 回想に耽っていた私を現在時刻に戻したチャイム。それまでに課題を伝えられなかった先生はチャイム後に早口で言った。

「次の授業までに最低一つは作っておくこと。号令はなしで。ではお疲れ様」

 先生が教室から出ていくと私は変える準備をした。今日はこれで終わり。あとは終礼だけ。早く部屋に帰ろう。それからすぐスーパーに行けばタイムセールに間に合う。

 高校生になった私は一人暮らしをしている。仕送りは塾のお金と家賃と少しのお金。学校行って塾行っていたらあまりバイトもできない。高校生だと時給も安いしやりくりするのは結構大変だ。でも、せっかく掴んだ安らぎをもう二度と手放したくない。

 その夜、塾はなく、バイトのシフトに入っていた。学校の人に知られると少し恥ずかしいので学校から少し離れたところのレストラン。賄いは出るし、店長やスタッフの人はいい人ばかりだし、宝くじを引いたようなものだった。

 今日は火曜日であまり客は来なかった。だけど、パンツスーツで夜なのに帽子をかぶった細身の女の人が入ってきた。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

「二人です」

「ええと、お連れの方は……」

「君だよ」

 そう言って女の人は帽子を優雅にとった。

どこかで聞いたことのある声だと思っていた。まさか、つい数時間前に思いを馳せていた人だったなんて。

 「美咲……先輩?」

「久しぶり。変わらないね。……背も」

「う、うるさいです……」

「ごめんごめん。ついうれしくて」

「美咲先輩、もう社会人ですか?」

「んー、そうだったらよかったんだけど、浪人しちゃって今三年生」

「そうなんですか」

「今って忙しいかな?」

「えっと……」

 美咲先輩以外誰もお客さんは一組しかいない。どう考えても暇なのだが、一応店長の顔をうつむきながら見ると、にこにこしながら首を縦に振ってくれている。店長と他のスタッフさんに深々と頭を下げて先輩に返事をする。

「大丈夫だそうです!」

「いい人たちだね」

「じゃあ、こっちに……」

 美咲先輩を空いている席に通し、メニューを開いた。味にも盛り付けにもこだわったイタリアンレストランだけどリーズナブルで、でもチェーン店のような安っぽい感じではない。

 美咲先輩と注文を決めて、キッチンへ向かう。すると、スタッフの一人の西本さんが私の方に向かってくる。

「せっかくなんだから私たちの手伝いなんてしなくていいよ?」

「えっ、でも」

「でもじゃない!大切な人なんでしょ?」

「は、はい。ありがとうございます」

「そのかわり、あとで話聞かせてね?」

西本さんの少し下世話な話に苦笑いしながら注文を伝えて、席に戻った。

 美咲先輩と会うのが久しぶりすぎて何から話していいのかわからない。美咲先輩を見るとあの時に比べてほっそりしている。ただ、髪を上げてまとめていて、化粧が大人っぽくなっていて、あと笑い方が微笑むような感じになっていて、すごくドキドキする。

「どうしたの?大人っぽくなった私をみてドキドキしてるの?」

 図星をつかれて心臓が跳ね上がる。何度も聞いた声なのに今日はなぜか妖艶な感じがしてしまう。

「でもねー、私まだ大人じゃないんだよ?みんなさ、私のことなんだと思ってんのか」

急に猥談を振られて心拍数が急降下した。

「なんで急に猥談なんですか?」

「ワイダン?」

「下ネタのことです」

「ああ!猥談ね。てかさぁ、前みたいに話してよ」

美咲先輩はこういう強引な話題替えが本当に得意で困る。

「え?どういう感じですか?声おかしいですか?」

「その丁寧語!そんな丁寧語を使う君は嫌いだな」

「じゃあ、出会ったときは嫌いだった?」

「いや、それはさあ!」

少しすねたような美咲先輩は相変わらずな感じがして懐かしい。

「なによ?」

「いえ、美咲先輩だなぁって」

「???」

子供っぽく大げさに首をかしげる美咲先輩は猥談をしなければ本当に子供っぽい。でも、見た目は大人っぽいんだから困ってしまう。

「ところで、煙草やめた?」

「あー、電子」

「なるほど」

「あんま臭いしないでしょ?」

「まあ」

それよりも香水なのか甘い匂いがすごくするんですが。

「君は?」

「一応学生なので」

「隠れてこっそり吹かしていると。なるほどねー」

「ち、違うってば」

「ほんとに?」

「少しだけ」

「ほらね!」

本当に子供に見えてきた。煙草の銘柄も、吸い方も、ばれないようにするためのコツも、全部美咲先輩からなのに。

「失礼しますー」

注文したマルゲリータピザを西本さんが持ってくる。ニヤニヤしながら私を見るのはやめてほしい。

「では、残りのご注文の品も持ってきますね」

そう言って西本さんはキッチンへ帰った。美咲先輩はマルゲリータピザを八分の一に切り、四つ食べるのだろうと思ったが、七切れも食べた。結局私は一切れしか食べられなかったが、満足そうにしている美咲先輩の顔を見ていたら何も言えなかった。

 そして次に美咲先輩のペペロンチーノと私のナポリタン。一口ちょうだいと言って結構な量を持っていかれた私は追加でマルゲリータピザをもう一枚オーダーした。

 食べているときはよほどお腹がすいていたのか、それともそういう家なのか、美咲先輩はほとんどしゃべらなかった。

 そして、食べ終わると、

「満足した!」

と言って、早々にレストランを出た。最後に

「また来るかも」

と言って。

 美咲先輩ともっと話したかった。でもそれは少し違う。だって話そうと思えば話せる。だってLINEだって知っている。たぶん、初恋の傷というやつだ。一生治らないくせに、一生夢を見させてくる。だけど、やっと心の枷が外れたような気がする。

 だから私も前に進まなくてはならない。

 とりあえず銘柄を変えてみようかな、と初めて自分で選んだ煙草に火をつけた。

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TABAKO(旧煙草) 洙槿 @shukinshukin

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