漫画家と少女

@kain_aberu

漫画家と少女

 午後四時半。

 放課後の誰もいない教室の中は、静まり返っていると何処と無くもの悲しさを感じる。

 もっとも、その静寂と、夕暮れの薄暗い雰囲気は、自分には相応しいだろう。

 国続香織(くにつぐかおり)は、薄暗い中でぼんやりと思った。


 国続香織。

 中学三年生。

 決して不健康、というわけでは無いけれど、肌の色は白く、体型は痩せていて背も低い、同年代の誰よりも子供っぽく見られる。

 小さい頃から、あまり表情が動かず、常に無表情。友達と呼べる存在も、今までほとんどいなかった。

 そればかりか……

 香織は、項垂れる。

 香織はずっと、小さい頃から所謂『いじめられっ子』だった。毎日の様にクラスメイト達から罵声を浴びせられ、時には暴力を振るわれた事だってある。

 だからこそ、ますます香織の表情は昏く沈んだものになり、ますます表情が動かない。

 そして中学生になった現在、香織の日常は相変わらず変わらない。虐めを受けたりはしなくなったけれど、クラスメイト達からほとんど無視されている。

 最初のうちは、それが嫌で、クラスメイト達に自分から話しかけたりもしたけれど、だが最近ではそれもだんだんとどうでも良くなっていた。

 どうせ自分には、友達なんか出来ないのだ。


 静かな教室の中で、香織は黙って、机の引き出しから取り出したノートを広げた。

 そこには、香織が描いたイラストがある。

 それが唯一の趣味だった。勉強も音楽も、はっきり言ってどちらも平均以下の成績しか残せない香織が、ただ一つだけ続けている事。時には教室の風景を描いたり、お気に入りの漫画のキャラクターを自分の絵柄で描いたり、あるいは自分で思いついたキャラクターを描いたり。香織はずっとそうして、一人の時間を過ごしてきた。

 絵を描くのは好きだった。そうしている間は、辛い現実を何もかも忘れられる、自分のような、『日陰』に生きる人間でも、絵を描いている間はほんの僅か、この世界に生きていても良いんだ、と感じる事が出来る。

 この趣味に関しては、誰にも言っていない、クラスメイト達はもちろん、両親にも秘密だ。これは……

 これだけは、誰にも何も言われたくない。

 自分だけの『聖域』だからだ。

 だけど。

 香織の口元に、ほんの一瞬自虐的な笑みが浮かぶ。

 『聖域』だとか、『誰にも何も言われたくない』と言っても、『絵』だけで食べていけるようになろう、などという気には微塵もならなかった。当然だ、世の中には自分よりも上手い絵を描ける絵師達が沢山いる、自分がそのうちの一人に名を連ねる。

 香織は目を閉じ、その時の光景を想像しようとした。

 無駄、だ。

 いくら想像しても、何の意味も無い。そんな『未来』など、自分には訪れる訳が無い。

 なぜなら自分には、そんな才能は無いからだ。このイラストだって、もっと上手く描ける人間は沢山いる、そういう人間は、ずっとずっと前からそういう才能に気づいて、それを開花させ、人の何十倍も努力して、そうした地位を手に入れているのだ。

 自分のように、ほんの少し上手いだけの素人とは違うのだ。

 ははは、と。

 香織は笑った。

 自分はそういう、何も無いちっぽけな人間なのだ。

 

 そんな事を考えて、イラストを描いていたせいだろうか?

 それとも、自分では自分の事をバカにしながらも、少しでもよく見せたいと思って集中し過ぎていたせいだろうか?

 それは解らない。

 だが。

 いずれにしても、描く事に夢中になっていた香織は、全く気がつかなかった。

 すぐ横に、人が立っている事に。

「っ」

 声にならない声と共に、香織はそちらを見る。

 そこに立っていたのは、一人の女子生徒。

 彼女も、香織が気がつかないように静かにしていたのだろう、突然ばっ、と振り返った香織を見て、やや驚いた様な顔になる。

「……あ 貴方……」

 香織は声をあげて、その女子生徒の顔を見る。

そこに立っていたのは、すらりとした長身の女子生徒。

 香織と同じ様に、肌の色は白いのに、不健康な印象しか与えない自分とは違い、きめ細やかで、その肌はとても美しい。

 手も足も、香織よりもずっと長く細くしなやかで、かなり背が高い。

 髪の色は金髪、染めているのでは無く、何処かの外国人とのハーフだかクォーターだかで、生まれつきこの色だそうだ、その両目も、薄い緑色で、神秘的な雰囲気を漂わせている。

 香織はその女子生徒の緑色の瞳を、じっと見る。

 彼女の事は知っている。というよりも、クラスの中で……

 否。

 この学校の中で、彼女の事を知らない人間はいないだろう。

「天辻月葉……さん」

 香織は、その名前を口にする。


 天辻月葉(あまつじつきは)。

 それが彼女の名前だ。

 見ての通りの完璧なスタイルと美貌。

 加えて成績も優秀で、スポーツも万能。

 明るくて社交的な性格で、教室の中だけで無く、彼女がいれば、例えそれが何処であろうと、必ずと言って良い程沢山の人の輪が出来る。

 その中心で、穏やかに微笑んでいる女子生徒。

 何の努力もせずとも、常に沢山の友達に囲まれ、何もせずとも才能に恵まれ、それを享受して、何不自由なく暮らしている、彼女の家や両親の事を、香織は知らないけど、きっと金持ちのお嬢様か何かなのだろう。

 虐められたりだとか、お金が無くてほしいものを我慢したりだとか、そういう玄人は無縁の、幸福で、恵まれた一生を送っている女子生徒、香織が『日陰』ならば、常に『日向』で生きている人間。

 それが彼女だ。

 香織は、そう思っていた。

 そんな彼女が今、自分の目の前に立っている。

 何の為に。

 解らない。

 いいや。

 香織は、微かに笑う。

 解りたくも無い。

 香織は、いっそ挑戦的な眼差しを、目の前の女子生徒、天辻月葉に向けた。

「何か、用?」

 香織は問いかける。

 だが彼女はそれに何も言わず、じっと視線を香織の手元に。

 いいや。

 机の上に、向けていた。

 香織はそちらを見る。

 そして……その視線の先にある物に気づいて、また少しだけ笑う。

 彼女が見ていたのは、自分が今まで描いていた教室の絵だったのだ。

 それで香織は、彼女が何を言うつもりなのか、何となく理解出来た、こういう事は、昔何度もあったのだ、自分がイラストを描いているのを見ると、それに気づいたクラスメイト達が、机に寄って来て自分がイラストを描いているノートを取り上げ、それを見て何かと囃し立てる。

 大方彼女も、そういう事をするつもりなのだろう。だけどもう……

 香織は、ノートをぱたんと閉じた。そのままそれを、机の脇にかけられた自分の鞄の中に入れる。

「言いたければ言えば?」

 香織は言う。

「クラスのみんなで、せいぜいバカにしなさい」

 そうだ。

 もう慣れている。ノートを取り上げられて、自分が描いた絵をみんなが見て、そして色々とバカにした事を言う。悲しい、恥ずかしい、だけど……

 だけど、それだけだ。

 ノートなんか、また買えば良い。

 絵のネタになりそうな風景も、漫画も、アニメも、ゲームも、世の中にはいくらだって存在している。何の意味も無い事だ。絵を描きたいという心までは、所詮クラスメイト達だって、どうする事も出来ないのだ。

 だから、何とも思わない。まあ、ノート代はバカにならないので、出来るならばノートを取り上げられるのは迷惑だから、さっさと鞄にしまったわけだけど。

 いずれにしても……

「貴方が何を言おうとも、何をしようとも、私は何とも思わないから」

 香織は言い放ち、椅子から立ち上がる。

 さあ。

 帰ろう。

 これ以上ここにいて、この女子生徒にノートを取られたり、ぎゃあぎゃあと囃し立てられたりするのは面倒だ、絵を描くのに集中出来なくなる。

 教室の風景は、頭の中にしっかりと焼き付いている、後はそれを思い出して家で描けば良い。

 香織はそう思って、教室を出て行こうとした。

 だけど。

「ちょっと待ってよ」

 声がする。

 香織は振り向かない。

「待ってったら」

 声がして、はしっ、と。

 右手首を、優しく掴まれる。

「何を早とちりしているのか知らないけど、私は貴方の絵をバカにするつもりなんか無いわよ」

 慌てた様子で、月葉が言う。

 香織は何も言わない。

「ただ、その……」

 月葉は、そこで言葉を切り、何かを言い淀んでいる様子だった。

 香織は、まだ何も言わない。面倒そうに月葉の方を振り返っただけだ。

 自分の手首を掴む月葉の手の力は、それほど強くは無い。ちょっと右手を振れば、簡単に振りほどけるだろう。

 早くそうすべきなのだ。どうせこんな……

 こんな『日向』に生きる人間は、自分とは違う世界に生きているのだ。

 こんな人間と、自分は関わるべきでは無いのだ。

 香織はそう思った。

 そして、手に力を込めようとした、とにかくこの手を振りほどいて……

 香織は、そうしようとした時だった。

「あの、今の絵……」

 月葉が言う。

「もっと、見せてくれる? 他にも描いてるんでしょう?」

「……は?」

 香織は、思わず聞き返していた。


 そして。

 香織は、ノートを広げて月葉に渡していた。

 何故、そんな事をしたのか、香織自身にもよく解らない。

 『絵を見せて欲しい』。

 そんな風に言われたのが初めてで、少し嬉しかったのかも知れない。

 だけど。一体……

 ちらり、と。香織は正面を見る。月葉は黙って、香織が渡したイラストの描かれたノートを、食い入るように見ていた。ぱらり、ぱらり、と。ページを捲る音だけが、静まり返った教室の中に響く。一体彼女の様な人間が、何故わざわざ自分の描いた絵なんか……

 聞こうとしたけれど、あまりに真剣に自分の絵を見る彼女に、香織は何も言えなくなっていた。今はとにかく、絵を見終わるのを待っていよう、どうやらノートを持ち去ったり、自分をからかったりする意図はなさそうだ。

 香織は、そう思いながら月葉を見ていた。

 ややあって。

 彼女、天辻月葉は、ぱたん、とノートを閉じ、香織に手渡した。

「ありがとう」

 月葉は言いながら、じっと香織の顔を見る。

「……どうも」

 香織はそれだけ短く言い、ノートを再び鞄にしまって立ち上がろうとした。

 だけど。

「国続さん」

 月葉が呼びかける。香織は何も言わない、あまりにも何年間も、自分の名前をきちんと呼ばれた事が無くて、どんな反応をすれば良いのか解らなかったからだ。

 だけど。

 月葉は、香織の目を真っ直ぐに見据え、はっきりと呼びかけて来た。

「……なに?」

 香織は、それに、やや上ずった様な声で返事をした。あまりに真っ直ぐに名前を呼ばれて、どういう反応をすれば良いのか解らなかったからだ。

 月葉は、じっと香織の目を見たまま。

「貴方、漫画とか描ける?」

「……はい?」

 またしても、香織は思わず聞き返していた。


「……何で私、こんな事してるんだろ?」

 数時間後。

 自分の部屋の机の上に、A4サイズのプリントを広げながら、香織は小さく呟いていた。


『貴方、漫画とかかける?』


 真っ直ぐに自分の顔を見て聞いて来た天辻月葉(あまつじつきは)に、香織は間の抜けた返事を返した。

「だから、漫画よ、漫画」

 月葉が言う。

「……それは……」

 香織はどう答えて良いのか解らなかった。描いた事など無い、少なくとも本格的な物は描いたことが無いのだ。だけど、昔、ノートにそれらしいものを描いた事ならばある。

 何も、馬鹿正直にそんな事を言わずとも、はっきりと『描いた事が無いし、描けない』と言えば良いのに、何故か香織は、はっきりとそう答えてしまったのだ。

 その言葉を聞いて、月葉の表情がぱっ、と明るくなる。

 そして。

 月葉は、手に持っていた学生鞄から、ごそごそと何かを取り出して香織に押しつけて来た。

「だったら、これ、漫画に出来る?」

 月葉が問いかける。

 それは、A4サイズのプリントだ、そこそこの枚数があるが、どうやら小説の様だった。

「何、これ……?」

 香織は思わず聞き返していた。

「私が書いたの」

 月葉は、何の躊躇いも無く言う。

「そんなのはだいたい想像が付くわよ」

 香織は言い返す。

「私が聞きたいのは、何で私にこんな物を渡すのかって事」

 香織は、じっと月葉の顔を見て言う。

「だから、これを漫画にして欲しいのよ」

 月葉が言う。

「期限は、まあ今週一週間でどう? 解らない事あったら、どんどん連絡してくれて良いから、あ、メッセ交換しない? それから……」

「だから……っ!!」

 早口で捲し立てる月葉に、香織はさすがに声を荒げた。

「なんで私がそんな事しなきゃいけないのよ!? 自分の書いた小説でしょ!? 自分でやれば良いじゃ無い!!」

 香織は怒鳴り付ける。

 その言葉に、月葉はじっと香織の方を振り返る。

「……それが出来れば苦労しないわよ、私ね、話は書けるけど、絵は全然描けないの」

 その言葉に、香織は鼻白む。

「で でもそれなら……ほら、うちの中学って確か漫研があったじゃないの」

 それは事実だ。もっとも香織は入ろうとは思わなかった、漫画が描ける仲間は欲しかったけれど、他人と上手くやれない自分が、集団の中に入ったところで上手くやれるわけが無い、それを香織はよく知っている。

「漫研は真っ先に当たったけどダメだったの、あの人達って、漫画の話してるばかりで全然描いてないし、描けないって人までいたわ」

 月葉は言う。

「だからって……」

 香織はさらに言う。

「貴方しかいないの」

 月葉が言う。そこには、他の人間なんか全く眼中に無い、香織以外には頼めないのだ、という雰囲気が漂っていた。

 断りたい。

 それだけは解っているのに……どうすれば断れるのかが全く解らない。

 そして。

 香織はそのまま、おずおずと彼女が差し出して来た小説を受け取る事しか出来なかった。


 そうして。

 香織は帰宅するなり、机に向かって漫画を描き始めた。

 漫画を描くのに必要な画材や用紙は、部屋にいくつかある、漫画を描いた頃、少しだけ興味を持っていくつか購入したのだ。もっとも、使う日が来るなんて思ってもいなかったけれど。

 何故、こんな事になったのだろう?

 香織には解らない。

 だけど……もう受け取ってしまった以上は仕方が無い。

 香織は、とにかくペンを走らせた。

 描けば良いのだ。描いて、出来上がった漫画をあの少女、天辻月葉に渡せば良い。出来なんか知るものか、とにかく描いて渡せば良い、気に入らなければ後は他の人間に頼むのでも、自分で描くのでもすれば良いのだ。とにかく、自分が描くのは今、この時だけだ。

 それで良い、それであの女とはもう関わらない。

 香織は、そう思ってペンを走らせた。

 途中で、物語の原案を見る。最初は、漫画にするべき点だけを纏めた物かと思えば、よく読めばそれはきちんとした小説だった、理不尽に大勢の人間から命を狙われる事になってしまった兄を守る為、彼らと激しい戦いを繰り広げる妹の物語、作中にある主人公である兄や、その妹の容姿などをもとにしたラフイラストを描いて、さらに沢山のシーンを次々とイラストにしていく、描写が正確なおかげで、あまり悩む事無く、各シーンをイラストに起こすことが出来た。

 そうしている間に……

 香織は、自分の表情が柔らかくなっていることに気づいた。こんな風に……

 こんな風に、きちんと漫画を描いたのは初めてだけれど……

 作中の台詞を、キャラクターに喋らせる、今は残念ながら、あの月葉が書いた台詞を、そこに書かれた表情で言わせている、つまりは自分で『創った』キャラクターや世界観、ストーリーでは無いのが残念だけど。

 だけど。自分は今……

 今、一つの『作品』。

 いいや。

 『世界』を構築しているのだ。

 それは……香織にとっては今まで感じたことが無い……

 喜びだった。

 楽しい。

 香織は、本当に……

 本当に、いつ以来なのか自分でも解らないくらいに……

 そう、感じていた。

 


 翌日。

 中学に登校した香織は、月葉の席にゆっくりと歩いて行く。

「……おはよう」

 香織は、月葉に言う。相変わらず彼女の近くには、数人のクラスメイト達がいて、突然近づいて来た自分を、じろじろと胡乱な目で見ていた。

 だけど。

「おはよう、香織ちゃん」

 月葉が、にこやかに笑って言う。

「……か……」

 香織ちゃん。

 そんな風に呼ばれるのは……初めてだ。

 だけど。

 香織は、軽く頭を振り、その喜びを頭から追い出す。自分は彼女と仲良くなりたいわけじゃ無い、彼女に頼まれた『仕事』を果たしたから、その報告に来たに過ぎないんだ。

 そう、香織は自分に言い聞かせる。

 そして。

 鞄から取り出した原稿を、香織は月葉に無言で差し出す。

「これ……」

 それ以上の事は言わない。ただ黙って、それを月葉に無理矢理受け取らせ、そのまま香織は月葉の返事も、他のクラスメイト達の視線も無視して歩き、自分の席に戻る。

 これで終わりだ。

 彼女との縁も。

 あの楽しい時間も。

 何もかも、終わりだ。

 それで良い。

 それで良いんだ。自分は所詮……

 所詮、『日陰』に生きる人間なのだから。

 そう。

 これで終わりだ。

 夢は、もう終わりなのだ。


 そう、思っていたのに。


「香織ちゃーん!!」

 放課後。

 帰ろうとした香織の背後から、月葉の無遠慮な声が追いかけて来る。

 香織は、ゆっくりと振り返る。

「なんで帰っちゃうのよ、せっかくこれから一緒に……」

「あのさ」

 香織は、じっと月葉の顔を見る。

「あんまり、私に関わらない方が良いよ」

 香織は、ちらりと教室の真ん中の方を見る、今日はまだ、教室の中にはクラスメイト達がいる。

 今朝のクラスメイト達の視線。そして今も何人かが、香織と月葉を見ている。

 自分のような『日陰』の人間と一緒にいるところを見られれば、彼女も自分と同じく悪く言われるのだ。

「原稿の感想とか、別に聞かなくても良いから……私の描いた漫画なんてあんなもの、貴方には良いものじゃ無かったと思うわ」

「何言ってるのよ?」

 月葉は言いながら、ゆっくりと……

 ゆっくりと、香織に近づいて来る。

 そして。

「私が誰と一緒にいたって自由だし、それに……これから私達が一緒にいるのは当たり前になる、と思うよ?」

「それは……」

 どうして? と聞くよりも早く。

 月葉の両腕が、香織の首に回され、そのままぬいぐるみみたいにぎゅっ、と抱きしめられる。

「ひゃっ……!!」

 思わず声をあげた香織を無視し、月葉ははっきりと言う。

「みんなー!! ちょっと聞いて!!」

 キンキン声が、教室に響く。

 クラスメイト達がこちらを見る。

 そして。

 月葉は言う。

「この子、国続香織(くにつぐかおり)ちゃん!!」

 月葉が言う。

「私の親友で、これから……」

 月葉は、次の言葉を教室一杯に響く声で宣言した。

「これから、『漫画家』を目指す私の作画担当として、私の考えた話を漫画にしてくれる人でーす!!」

「はああ!?」

 さすがに、香織は声を上げていた。


 そして。

 香織と月葉は、月葉の案内で彼女の家に来ていた。

 彼女の家は、金持ちどころか、街外れにある薄汚れたアパートで一人暮らしをしていた。

 もっとも、一人暮らしをしている時点で、香織にとってはもの凄い事なのだけれど。

 だけど今は、それよりも先に聞かないといけない事がある。

「どういう事か説明してくれる?」

 香織は問いかける。

「だから、あそこで言った通りよ」

 月葉は言う。

「私は、『漫画家』になりたいの、だから作画担当として手伝って」

「いやよ、私は……」

 香織は言う。

 そうだ。

 自分には、そんな才能は無いのだ。

「貴方の絵を見て、漫画を読んで、貴方しかいないって思ったの、だからお願い」

「……だからそんなの、他にイラストの上手い人に……」

 香織は言う。

「そういう人を探している時間は無いし、貴方より上手い人を知らないわ」

 月葉ははっきりと言う。

「時間が無いって……」

 高校生になるまでにデビューしたい、という事だろうか? 香織は思った。

「とにかく、私と一緒に漫画家を目指して」

 月葉が言う。香織は何も言わない。あまりの強引さに言葉が出て来ない。

「貴方だって……」

 月葉は、じっと香織の顔を見る。

「貴方だって、このまま何もしないで生きていくなんて嫌でしょう? それに、結構楽しんでいたんじゃ無い?」

「……それは……」

 香織は言い淀んだ。

 月葉にっこりと笑う。

「だから、私と一緒にデビューを目指して欲しい、もしも……」

 月葉は、じっと香織を見る。

「もしも、この一年の間に、デビュー出来なかったら、その時はすっぱり諦めても良いわ、だけど今は……私が考えた話を、出来れば一作品でも漫画にして、そして……」

 デビューして欲しい。

 力を貸して欲しい。

 何も言われなかったけれど、その意志だけは伝わって来る。

「……私は……」

 香織は言い淀む。

 だけど。

 月葉は、もうそれ以上は何も言わなかった。イエスか、それともノーか、もうそれ以外の返事は聞かないし、自分もこれ以上は何も言わない、そういう雰囲気が伝わって来る。

 香織は目を閉じる。

 漫画を描いていた時の、あの楽しかった瞬間。

 彼女に、『香織ちゃん』と呼ばれた時の温かさ。

 彼女に、『親友』と言われた時の胸の高鳴り。

 月葉の真っ直ぐな眼差し。


 気がつくと、いつの間にか香織は月葉の事ばかりの考えていた。

 ああ。

 それで、ようやく気づいた。

 自分は……彼女と一緒にいたいのだ、と。

 そして。

「解ったよ」

 香織はため息と共に言う。

「ただし、一年間だけ、デビュー出来なかったら諦めるわ」

  それまでは。

 彼女の側にいよう。

 自分がそうしたいのか、それともただ、自分の存在を求めてくれる人間がいる事が嬉しくて、彼女に依存したいだけなのか。

 香織には、まだ解らない。

 だけど今は……彼女と一緒にいたい。香織は、その感情を優先する事にした。


 それから一年後。

 月華(げっか)。そういう名前のペンネームの少女が、とある雑誌社の編集部に漫画を持ち込んだ。

 残念ながら漫画雑誌に掲載される事は無かったけれど、もっと描けば、いつかデビュー出来るかも知れない。担当編集は、そういう評価を下した。


「ダメだったよ」

 編集部を後にした月華、国続香織(くにつぐかおり)はそう言って、目の前のお墓に手を合わせた。

「……何が一年で良い、よ、一年しか……」

 香織は、目の前の墓に向かって言う。

「一年しか、時間がなかったんじゃ無い……」

 そうだ。

 天辻月葉(あまつじつきは)は、あの時既に病魔に冒されていたのだ。もう既に助かる見込みは無かった、苦しまなくて済むように、薬だけでどうにか日常生活を送っていたが、もう身体は限界近かった、あの白い肌は、もともとの物では無く、病気のせいだったのだ。

 なのに自分は、何も気づいてやれなかった。

 そして。彼女と描いた漫画も結果はあの有様だ。

 香織は黙って、墓石を見ていた、彼女があんなアパートで暮らしていたのも、最期は好きなように生きたい、というえ彼女の希望で、両親が金を出していたのだそうだ。中学で、沢山友達を作り、ずっと前からなりたかった漫画家を目指す。それが最期に、月葉がやりたかった事だったという。

 だが……

「結果がこれじゃあね」

 香織は肩を竦めた。

 彼女が遺してくれた話は、今回ので最後の一作だ、他の作品は、全部既に別の編集部に持ち込んだり、賞に応募したりしたけれど、どれもこれも同じ様な評価だった。

「私……どうしたら良いのよ……」

 香織は項垂れる。

 自分では、話は考えられない。絵は描けても、自分には彼女の様な話を……

 そんな……


 ひゅうう……


 風が、吹いた。

 それは、香織の全身を撫でる様な風。

 香織は、項垂れていた顔を上げる。

「まだ、終わりじゃ無いって?」

 香織は問いかける。

 確かにあの時、月葉の考えた話を漫画にしていた時に感じた、あの感情。

 自分でも、いつの日にか……という感情。

 香織は、軽くため息をついた。

「貴方の作品には、及ばないと思うわよ? 時間も一杯かかると思うわ」


 だけど、それが貴方の『夢』なんでしょう?


 声が聞こえた。

 そう。

 月葉の『夢』は、いつしか……

 いつしか、香織自身の『夢』にもなっていた。

「そうね」

 もうこれ以上……

「下を向いていても、意味が無いし、ね」

 香織は、顔を上げる。

 そして。

「私は!! 国続香織!!」

 香織は大声で言う。

「天辻月葉の親友で、彼女と一緒に漫画家デビューするわ!!」

 そして。

 香織は、歩き出した。

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