第8話「分水嶺」②

   ■□■


 調整後、最終確認ついでに大規模機兵操作用の器具も見せてもらった。

 見た目としては、全身鎧に根が貼りついているもので、方術士は鎧の中へ入り、内部の根や玉に触れて術式を操作するのだという。

 実際に現場へ出たり、動くこともせず何千体もの機兵を操れると言われても、想像が及ばなかった。

「まぁ、一体一体に指示を出してるわけじゃねえからな」

 機兵全体をひとつの群れとして扱い、ここへ突撃、この位置で射撃、という多少大雑把な命令になる。そのあたりは通常の兵士でも同じようなもので、どちらも突発事態には弱い。実際の戦闘になれば、別に上空から監視する飛行型の小型機兵を飛ばし、味方と敵の動きを見て指示を出すことになる。

「方術士は自身と親の扶桑をつないで何千もの機兵を操る。扶桑の向こうにある機兵の目を見て部隊を動かすんだ。別名の通り、神経をつなぐんだよ」

 見るといっても、機兵に生物的な眼球がついているわけではない。方法としては、ティエンが偵察用に自分の身体の一部を飛ばし、その鏡像を認識する感覚だという。

「使われているのは、主にガラスだな。それを目にする」

 要は、見立てだ、とジャンは説明する。

「目のようなものを組み込むことで、そこに接続された扶桑はそれをものを見る器官として認識する。術者もまた、見ている、となる」

「……難しい」

「俺だって、動かせるだけの仕組みをうっすら理解してるだけだ。ったく、俺のご先祖様も、なんてもんを持ち込んだんだって思うよ」

 最終確認で機兵を動かすというので、キーンは先ほどの練兵場へ戻る。周囲には同じような見物人が多く集まっていた。

 キーンも今度は混ざって走り回らなくていいと言われていたので、練兵場を囲う階段状の座席に立ち、全体を見渡せる場所を確保する。

 合図と共に人型機兵が動き出し、等間隔に並んで行進する。続いて走る、銃を構える、設置された目標を撃ち抜くといった行動を取った。

 続いて中型から大型の機兵が練兵場を一周し、最後はそれらをふたつのグループに分けて撃ち合いをさせて終わった。

 大型機兵が出て行くと、練兵場は急にぽかりと広くなる。

 そこに点々と落ちているのは、壊れた人型機兵。

 撃ち合いのさなか、誤射か誤動作で破損したのだろう。中には大型機兵に踏みつけられたのか、原型をとどめていないものもある。

 機兵の最大の利点は、機械なので痛覚がないこと。腕が落ちても、突撃しろと命じられたら走る。足が壊れても、撃てと言われたら撃ち続ける。

 立て、塹壕を掘れ。

 走れ、止まるな。

 撃ち続けろ。

 不意に浮き上がってきた声に、キーンはめまいを覚える。反射的に階段の手すりをつかんで身体を支えた。

「あ……」

 息が熱い。

 逆に、身体は冷えている。

 寒い、冷たい、熱い、痛い。

「おー。キーン、ここにいたのか。こっちは終わったぞ」

 顔を上げると、バインダーを掲げたジャンが近づいてくるところだった。

「責任者に報告してくるから、すまねえが、さっきの扶桑のところに広げてる道具を片付けといてくれ」

 言って、ジャンはすぐに背を向けて行ってしまう。

 めまいは何度か深呼吸すると遠ざかった。晴れ過ぎた空の下で長時間走り回っていたので、少しばかり身体の中に熱がこもってしまったのだろう。熱中症になると、身体は逆に暑さを感じなくなることもあると聞いていた。キーンはこれで屋内に入る言い訳ができたときびすを返すのだった。

 扶桑のある部屋へ戻り、キーンはジャンが広げていた道具類を片付けていく。周囲ではスコルハの子供がいることに不審な目を向けられるも、先だって街中でからまれたように表だって突っかかってくる者はいない。

 どちらかと言えば、好奇の目を向けられている。先ほど練兵場で見せた体捌きに驚愕したり、四肢が機械義肢と知って首をかしげていたりと反応はさまざまだ。

 片付けが終わったので、話しかけられないうちに道具類を持って廊下に出た。そこで残りの果実水を飲んでいると、ジャンが戻ってくる。様子から察するに、報酬などの取り決めもきちんと終わったようだ。

「待たせたな。うちに来て飯食ってくか? どうせグロリアはまだ終わってないだろ」

 双方の案件が終了後、ジャンの店で合流することになっているのでキーンは首肯する。

 建物内から出ると、日は南中からかなり傾いたころだった。

 敷地内では訓練を行う一団や、大型車両が荷物を運搬しているところをすれ違う。到着した車両に何となく視線を向けると、人型機兵が下りてくるところだった。

 人の形を模しただけの量産型だったが、どれも故障個所が目立つ。機兵は指示されるまま進んで行く。頭が半分になっても、膝関節の故障でふらつきながらも、発声機能のない機械の群れは静かに倉庫の中へ連なって入って行った。

「ありゃあ、廃棄対象だろうな」

 ジャンが説明してくれる。あの倉庫で使えそうな部品を取ったあと、処理されるのだという。

「……廃棄」

 積み上げられている、人間の死体が見えた。

 違う、あれは、人の形を模した、人ではないもの。

 キーンも人間ではないとされ、一緒に集められた。

 戦場を駆け巡った機械仕掛けの兵士。壊れて動かなくなったものは一か所に集められる。持ち帰るのも手間がかかるが、機密もあるので放棄するわけにもいかない。なので、油をかけて火をつけられた。

 人の形をしたものが、燃えている。

 炎を前に座り込んだままのキーンを囲う者たちは、口々にどうする、どうするのだ、と言い合っているだけ。

 まさか、人間がいるなんて。

 知らない、知らなかったんだ。

 そうだ、俺たちはただ回収に来ただけ。

 あとのことは、他の連中に任せればいい。

 銃の先で小突かれながら、まだ動く人型機兵と共に荷台に乗せられた。

 運ばれ、下ろされ、並んだ先では機兵が使える部品を剥ぎ取られていく。表面の覆いを壊され、工具や手を中へ突っ込まれ、ぶちぶちと無理やり内部部品を引きずり出される。

 その光景を、列に並んだままじっと見ていた。

 作業員は人間からも同じように部品を抜くのだろうか、それとも、内臓なんかいらないと、そのままプレス機にかけるのだろうか。

 そんな、益体もないことをぼんやりと思っていた。泣いて叫んで、ここにいるのは人間だと主張するべきだったのだろうが、涙も出ず、声は枯れていた。助けて、と口を動かすこともできない。ただぼんやりと、目を開けているだけ。

 身体を壊され、戦場へ放り込まれ、ひもじくて痛くて怪我だらけで、自分の意思を発することもできなくて。

 もういい。

 もう、どうでもいいことだ。これでやっと、終わるのだから。

 壊れた化け物は、ここで処分される。

「っ、おい、キーン!」

 激しく肩を揺さぶられ、そこでようやく息をすることを思い出す。呼吸が止まっていたことに気がつかず、急に開いた喉に流れ込んできた空気にむせた。

「どうしたんだ」

 立ち止まってしまったキーンにジャンは様子がおかしいと声をかけるも、反応が返らない。息が止まり、そのまま倒れそうになったところを支えてくれたようだ。

 大丈夫だ、と示そうと首を振ったが、言葉は出ない。代わりに咳き込む。何かを言わなければとあせるほどに喉がひりついて声が震えた。

「……帰るぞ」

 咳が落ち着いたころを見計らい、ひょい、とジャンがキーンを抱え上げる。

「朝から働かせて悪かったな。戻ったら、たらふく食わせてやるよ」

 背中を軽く叩き、キーンが持っていた分の荷物も背負って歩き出す。

「重てえなぁ」

 愚痴をこぼすも、ジャンはキーンを下ろそうとはしない。

 足早に敷地を横切っていくジャンだったが、その背に声がかかる。一度は無視することにしたようだが、何度もかかる呼びかけに舌打ちして足が止まる。キーンもふらつく視界のまま顔を上げた。

 何人かに囲まれ、行く手をふさがれている。全員、黒く丈の長い衣装を身につけていた。方術士がよく着用している、袍(ほう)と呼ばれる民族衣装だ。ジャンもたまに着ていたな、といまさらながら思い出すも、急に頭上で、おい、と低い声を出されて肩が跳ねる。

 だがキーンを怒鳴りつけたのではなく、近くを歩いていた数名の若い兵士を呼びつけたらしい。

「こいつを、おまえの彼女か妹と思って丁寧に扱え」

 早口で言うなり、怪訝顔の兵士にジャンはキーンを無理やり預けてしまう。預けられた方も、ジャンの形相と、明らかに体調が悪そうなスコルハの子供に戸惑うも、それでも落とさず抱きかかえてくれた。

 気分が悪いのか、と気遣いつつ日陰まで移動してくれたので、この若い兵士らはスコルハに対して嫌悪感や苦手意識はあまりないようだ。

 ただジャンと距離が開いてしまったので、会話はあまり拾えない。それでも怒声や嘲笑といった、あまりよろしくはない雰囲気は伝わってきた。

 キーンを抱えている兵士らが、ジャンを囲んでいる集団は軍のお抱え方術士だと教えてくれる。特殊な技術を持っていることを鼻にかけ、軍内部でも威張り散らしているらしく、階級の低い兵士の彼らにはよく思われていないようだ。

 会話の断片から、ジャンの知り合いではなく方術士側が一方的に突っかかっている様子だった。扶桑の調整を外部に委託した件でもめているようだ。

 その程度の腕で、どこの出だ、と複数人から笑声交じりに問われ、ジャンが答えた。

「────」

 その音を聞いた瞬間、方術士の集団が水を打ったように静まり返った。たった一言で状況が変わり、ジャンは顔色をなくした方術士を一瞥すると、これ以上はつきあいきれないとばかりに輪の中からさっさと抜け出してきた。

「すまねえな」

 戻ってきたジャンは兵士らに手持ちの煙草を渡して礼を言った。彼らはジャンと方術士の間にある理由を聞きたそうだったが、まだ棘のある雰囲気を隠そうとしないジャンに何も言い出せず、煙草を受け取りキーンを返す。

 くたりとしたままのキーンを抱え直すと、ジャンは今度はこそ振り返りもせず施設をあとにするのだった。


   ■□■


 ジャンの店で何か食べるかと言われたが、首を振った。

 なら寝てろ、といつもの二階のベッドへ入るよう言われたが、落ち着く間もなくすぐにジャンがいろいろと手に持って入ってきた。

「ほれ、頭でも冷やせよ」

 濡れたタオルを渡されたので、額や首筋に当てる。ひやりとした心地よさに思わず息を吐くと、大きめのグラスが出てくる。炭酸水の中に果物が浮いていた。

 飲みながらタオルで身体を冷やしていると、思ったよりも熱を持っていることに遅まきながら気がつく。

「今日は天気が良かったからな。そこであれだけ動けば熱中症にもなるだろ」

 そういうのではない、と言いかけたが、ではどう伝えればいいのかわからず迷う。タオルを首にかけて炭酸水を飲むと、外側と内側から身体が冷やされ少しばかり物を考える余裕が生まれてきた。

「何を思い出したんだ」

 それでも、問いかけに対し、肩がわずかに動く。気まずさにグラスの中の果物を口に入れる。酸味の強い果肉が口の中で弾け、思わず顔をしかめた。ジャンが酸っぱいから無理に食べるな、と言ってくれたが半ば意地になって噛んで飲み下す。

「……『仲間』が、壊されたところ」

 顔がゆがんだのは、口内に残る酸味のせいだけではなかった。


   ■□■


 キーンは幼いころに親元から引き離され、保護施設とは名ばかりの人体実験場へ送られる。そこで健康な四肢を落とされ、機械義肢に換装された彼が次に命ぜられたのは、過酷な訓練だった。

 渡されたのは、小銃。

 これを持って走れ、伏せろ、撃て。

 身体を慣らすという名目の軍事訓練だった。

 兵士にするというよりは、手足の稼働状態をより実戦に近いところで観察したいだけ。訓練中に義肢や体内に熱がたまりすぎてしまい、脳が壊れて死ぬ子供も多かった。

 スコルハ保護政策という名目で集められた先住民内でも、特に子供の扱いは悲惨だった。十歳以下は生産能力がないとされ、集団で養育するという名目で親から引き離される。その後、ほとんどがすぐに殺された。

 当時、五歳程度だったキーンも処分対象だったが、人体実験の被験者に選ばれたことで即座に命を奪われることはなかった。代わりに四肢を落とされ、機械義肢になり、訓練を受け、多くの同胞の死を見た。

 そしてある日、人型機兵と同じ格好をさせられ、そのまま戦場へ放り出される。

 キーンが配属されたのは、建前上は人型機兵しかいない部隊。だが実際には、何割かが人間だったのだ。

 人型機兵はまっすぐに歩いて銃を撃ちまくる。その火線上で倒れていく者の多くは、敵兵ではなくスコルハだった。部隊には人体実験の被験者だけでなく、施設側から不要と判断された病人や老人も多くいた。

 終戦間際、人体実験が露見するのをおそれた技術開発部が被験者を秘密裏に処理するため、戦場へ送り込んだのだ。

 もちろん当時のキーンはそんな事情など知る由もなかった。ただひたすらに頭上を飛び交う弾丸から逃げ続けるだけ。

 だが輸送機から降ろされた段階で激戦区のど真ん中。隠れてやり過ごそうにも逃げる場所がない。自分のいるところもわからない。機兵は親の扶桑から送られる情報を共有して移動できるが、人間には地図の一枚も与えられず、指揮官は現場にいない。

 ないないづくしの中、さらに最悪だったのが、部隊は登録上、機兵のみだったので食料などの物資補給がなかった。なのでスコルハは皆戦うのではなく、死んだ敵や味方の懐を探って必要なものを手に入れた。キーンもはいつくばって弾丸を避け、赤い髪の死体の中に隠れて生き延びた。ただひたすらに、死なないためだけに動いたのだ。

 そうして泥と血にまみれている間に戦争が終わり、機兵と間違われて回収されたキーンは、他の機兵と一緒に処分されることになった。


   ■□■


「……ひでえな」

 ジャンは口元を手で隠す。

 キーンがなぜ機械義肢となったか、どうしてグロリアを襲ったのか、そのあたりの経緯は調べて知っていた。けれど本人の口から聞くのは初めてのこと。報告書と内容は同じはずなのに、たどたどしくも肉声で語られた内容はジャンに深く突き刺さった。

 ハミオン軍にしてみれば、処分のために戦地へ放り込んだ「廃棄品」が生き延びていたことに恐怖と戦慄を覚えたことだろう。

 終戦まで生きた子供は機兵と間違われて回収される。その段階でも、なぜか処分されなかった。その場で頭に銃弾の一発でも食らわせておけば終わったことを先延ばしにしたのは、現場の人間が子供の境遇に同情したのか、己の手を汚すことをためらって他部署に責任をなすりつけたのかはわからない。

 だがそのおかげで、キーンは逃げられた。

「というより、逃がしてもらった。……機兵に」

「機兵が、逃がした?」

 ジャンは反射的に聞き返す。言われてみれば、報告書には戦地から回収されたのちに脱走、グロリアらを襲撃した、とあった。だがそもそも、どうやって逃げたのだ。戦地ならともかく、ハミオンまで移送されたとなれば、子供がただの迷子ではないと気づいた者は多かったはず。もしジャンが人体実験を指示した側なら、即座に確保して閉じ込めるか、処分を命じるだろう。

 なぜ、どうやって、と焦燥と疑問符を浮かべるジャンを前に、キーンは感情の色が消えた声でつぶやく。

「さっき見た機兵みたいに、俺も列に並んでた」

 処分されるための列に並んでいた際、キーンの中は空白だった。

 傷ついた身体も、壊れかけの四肢も戦場から回収されてそのまま。実験施設から放り出されてからは、当然、機械義肢のメンテナンスは受けていない。故障よりも何よりも、成長した身体と義肢が合わず、接続部分が残った神経や骨に干渉し、歩くだけで激痛が走る。

 だが痛みが常態化しすぎて、痛いと思う思考すら溶けかけていた。

 そのとき、一体の機兵がキーンの肩を軽く押した。

 よろめいた身体は列からはみ出す。即座に、他の機兵が少しだけ動いてキーンの姿を監視から隠す。押し出す、隠す。その繰り返しでキーンは列を逆行し、出入口にあったコンテナの中へ放り込まれた。

 そうしてごとごと揺られて放り出された先は、廃棄物の山だった。

「俺は、機兵に助けられたんだ」

 馬鹿な、とジャンは思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込む。

 機兵は機械だ。扶桑という実態のよくわからないものを組み込んではいるが、無機物のかたまりにすぎない。

 だというのに、自発的に他者をかばって助けるような真似をするなんてありえない。

 けれどキーンは語るうちに思い出してきたのか、切れ切れに部隊にいた機兵について語りだす。

 人型機兵は規格ごとにすべて同じ形状をしている。なので見た目で区別はつかない。それでも何体かが、戦場で明らかにキーンに手を貸したという。

 盾となり、自らには必要のない物資を集めてくれたのだ。

「けど、みな壊された。俺は……何もできなかった」

 助けてもらったのに、助けられなかった、とキーンはうなだれる。その肩を年長者らしく支えてやりながらも、ジャンの思考の一部は鋭くとがっていた。

 おそらく、その機兵の行動はあらかじめ登録されていたものなのだ。扶桑には何らかの形で人命救助に関する基本原則が記述されていたのだろう。同じ扶桑から指令を受けた機兵はすべてその原則に従うことになる。

 その基本原則はおそらく、人間を見つけたら、可能な限り助けろ、というあいまいかつ単純なもの。

 聞けば聞くほど、今日、ジャンがハミオン軍に設置されていた扶桑の深層部にあった記述部分と合致する。

 それを書いた当人は特に何も考えず、あったら便利だろう程度の考えで数百行も術式の記述を増やし、こちらの仕事を倍増させたのだ。

 あの女、と思わず脱力する。

 子供が生き残れたのは、生来の頑強さや運もあったのだろう。その運が味方した。キーンのいた部隊には、ある特殊な記述を加えられた人型機兵が多数配置されていたのだ。

 そして、それを命じた当人は、自分の記述式がこんなところで生かされたことには気づいていないはず。

 今日、仕事を半分押し付けてきた女の顔が浮かぶも、ジャンは舌打ちする。

(ていうか、教えてやんねえぞ)

 俺の情報料は高いんだ、とここにいない女に向かって毒づく。

 保護政策という看板を掲げ、その裏で人体実験を行っていたハミオン軍。その内部で少しでも人命を救おうと走り回っていた変わり者がいたなんて、皮肉もいいところだ。

 そして当然、爪の先ほどの善意は相手に伝わるはずもなく、自分を守ってくれた機兵が朽ちていく様を目の当たりにした子供は復讐をはじめてしまう。

 自らの運命への嘆きと、自分を助けてくれた機兵が破壊されるのを止められなかった虚しさを抱えて。

 当時のキーンには憎悪と呼ぶほど激しい感情は残っていなかったようだ。ただただ空虚なまま、階級のある軍人を手当たり次第に襲撃する。キーンの部隊は方術による遠隔操作だったので、扶桑の情報共有がなかった彼は上官の顔も名前も知らなかった。

 そして何の因果か、適当に襲っていたところをグロリアに行き当たり、保護される。

(皮肉というか、運命というか……)

 物事のすべてが生まれる前に決まっているという考え方を、ジャンは苦手としている。それでも積み重なっていく偶然にジャンは背筋が冷えるのを感じる。これをいま理解しているのは、双方の話と情報を組み合わせた己だけという事実に震えた。

(けど、まあ……幸あれ、ってか?)

 頭を抱えてなでてやるとキーンは嫌がったが、ジャンが離さないのもわかっているのでされるがまま。その頭部に揺れる髪飾りを見つけてきたのもジャンだ。

 金メッキされた飾りは今のところ、彼の出自をたどる手がかりにはなっていない。せめてキーンが己の部族名だけでも覚えていたら、まだ探す手段もあった。だが収容所に入れられてからの過酷な境遇か、幼かったゆえか、彼は幼少期の記憶を失っていた。

(そもそも、おまえの一族の現状は、俺ら入植者側が原因だからなぁ)

 存在していることがすでに加害者となっている状態には思うところもあるが、直接的に害したのは祖先や他人で、ジャン自身がスコルハを特に冷遇した覚えはない。それでも考えてしまう。答えなんて出ないとわかっていても、思考は回って沼に沈む。

 落ちかけた頭を、キーンの声が起こした。

「ジャンの名前。さっき、違う風に言ってなかったか」

 さすがに嫌だったのか、キーンは腕でジャンの身体を押し返す。こちらも悪かった、と身体を離すと、キーンは特に気分を害した様子もなくこちらを見上げてきた。

「名前?」

「ジャンじゃなくて、その、チャン、って発音の方が近かったような」

 よくあの距離で聞こえたな、と純粋に驚く。そして隠していたつもりはないが、ジャンには別の名前があった。それを先ほど軍属方術士にたずねられたので久方ぶりに名乗ったのだ。

「ああ、それな。俺の本名。っても、今のジャンも偽名ってわけじゃねえよ」

 書くもの、と引き出しから紙とペンを出し、そこに字を書いた。

 【 張 雨澤 】

「これが俺の本名な。俺の一族が持ち込んだ、漢字ってやつだよ。発音も共通語とだいぶん違うから、近い音のジャンで呼んでもらってるだけだ」

 方術士を多く輩出する家系は、いまだに大陸風の名前をつけるところが多い。そして、彼らは本名を呼ばれることを好まず、大抵は通名を使用する。ジャンの場合、本名を共通語寄りに発音しているだけだと説明すると、キーンは納得したようだ。

「だから、ジャンは方術が使えるのか」

「もうとっくに実家とは縁が切れてるけどな。気にせずこれまでどおり、ジャンって呼んでくれよ」

 そっちの方が慣れた、と軽口をたたく。実際、もうあの名前を呼ぶようなつながりはずいぶんと薄くなってきた。それでも情報を得る際には便利なので、発音を忘れない程度には使っているのだが。

「俺が知ってる文字より線が多いな。なんか、記号か絵みたいだ」

「術式の記述はほとんどがこの漢字だぞ。今度教えてやるよ」

 まずは千字覚えろ、と言うとキーンは渋面を作る。だがジャンはこの少年は言われた内容を真面目にこなそうとする真摯な姿勢を持っていることをよく知っている。予想通り、キーンは不満そうにしながらも、小声で教えて欲しいと言った。

「なあ、名前、もう一回言ってくれるか」

 いいぜ、と言って、なるべくゆっくり聞き取りやすく発音してやる。一度ではよくわからなかった様子なので、速さや調子を変えて何度か声に出してみた。

「どうだ。まあ、共通語に比べると発音が独特だろ」

「聞いたことがない音がする。音と文字、なんか雨みたいだな」

「お、正解」

 雨を思わせる名前の男は、晴れやかに笑うのだった。

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