表面張力は、まだ②
楽しい時間というのはあっという間に過ぎていくものだ。
朝に出かけたのに、遊んでいるうちに気づけば夕方になっていた。
微かに涼しくなった街が一日の終わりを告げてくる。長い影が地面に落ちているのを見ると、妙に寂しくなってくるような感じがした。
穂波と遊んだ日の帰り道はいつもこうだ。
まだ彼女と一緒にいたいけれど、それを言うのは無理で。
結局私たちは、いつものようにくだらない世間話をしながら駅まで歩いていた。
肩を並べてホームに立つ。穂波は今両手が塞がっているから、手を繋ぐことはできない。
最近、手を繋いだ程度では感情を抑えられなくなることはなくなった気がする。平静を保ったまま彼女と触れ合えるのはきっと、いいことだと思う。
変な態度を取ったら、好きだってことが悟られてしまうかもしれないから。
「今日は、楽しかった」
「ほんとに?」
「嘘なんて、つかないよ。色々疲れたけど、楽しかった」
「……そっか。ならよかった」
電車を待つ時間は、せいぜい二分程度だ。
電車に乗ってしまったらあとは帰るだけで、家に帰ったらまた穂波の顔が見たくなるのだろう。
何度会っても、その度に別れるのが寂しくなる。
毎日会っていても、夜になると彼女の顔が見たくなる。
それがきっと恋しているってことなんだろうけれど、少し辛い。朝も昼も夜もなく、いつでも彼女と一緒にいられたら、それが一番幸せだ。
そんなの無理だって、わかっている。
わかっているけれど、わかりたくない。
私はいつだって、そう思っている。理性と本能がせめぎ合って、当たり前のことを嫌だと思ったり、納得できないと思ったり。
恋は疲れる。
幸せよりも、疲れる時間の方が長い気がする。
でも自分でやめようと思ってやめられるものでもないのだ。
「電車待ってる時間って、暇だよね」
「そうだね」
「なんか、ちょっとした遊びでもやろうか」
「何するの?」
「んー……背中に文字書いて、それを当てる遊びとか?」
「……いいけど」
「じゃあ、最初私からやるね」
穂波は荷物を片手で全部持った。かなり重そうだけど、大丈夫なんだろうか。
ちょっとだけ心配していると、背中に触れられた。
直接じゃないからまだマシだけれど、くすぐったいのは確かだった。
しかし、それ以上に。穂波に触れられたことが嬉しい。やっぱり今の私は彼女との接触に少しずつ慣れてきていて、思わず好きなんて言いそうになることはない。
その代わり、胸がじわじわ温かくなっていくような、そんな感じがした。
指先がくるりと動いて、文字になっていく。
くすぐったさが文字の形で残って、そこがひどく熱かった。
「ゆきは?」
「正解」
彼女が私の背中に残したのは「ゆきは」という文字だった。
こういう時に私の名前を選んでくれるのは、やっぱり。ふとした瞬間に私のことを考えてくれているからだったり。
そう思うだけで、心が浮かび上がる。
「今度は私ね」
「はい、どーぞ」
「……」
穂波は私に背を向けてくる。
別にやましいことをしているわけではないのに、ドキドキする。
穂波の背中を見ることは何かと多いけれど、こうしてじっくり見るのは初めてな気がする。
私より小柄で、華奢な感じの体。
いつまでも見ていられるような気がするけれど、そうもいかない。私は指を筆にして、そっと彼女の背中に文字を書き始めた。
小さな背中が微かに揺れる。
その僅かな動作が妙に色っぽく見えるのは、私の頭がどうかしているせいなのかもしれない。
私は無意識のうちに「す」と書いていた。
いや、馬鹿な。
私は何を書こうとしているのだろう。流石にこの状況で「すき」なんて書いたら取り返しがつかないことになる。
二文字目を無理やり変える。
まだ、修正はできるはずだ。
指が少し震えて、字が曲がっていく。大したことのない遊びに、こんなに必死になっている私は本当に、どうしようもない。
「すし?」
「……正解」
私は小さく息を吐いた。心臓が張り裂けそうだ。
「お寿司、好きなの?」
「そうだね。私もこの島国の民だから」
「いや、民て。急に言葉遣いおかしくなってない?」
「……穂波。電車来たよ」
「あ、誤魔化した」
穂波はくすくすと笑う。
電車が来たのは本当だ。私の指が狂いそうになっている間に、二分経っていたらしい。
私たちは電車に入り、ちょうど二席空いたのでそこに座った。
車内は混んでいるから、必然的に肩と肩が触れ合うほどの近さで座ることになる。混んでいるところは好きじゃないけれど、今日ばかりは人が多くてよかったと思った。
電車が動き出すと、穂波は船を漕ぎ始めた。
寝る子はよく育つと言うけれど、穂波は小柄だし、全体的にちょっと幼い印象を受ける。
そこがいいといえば、そうなんだけど。
一駅通過する頃には、穂波はもうほとんど眠っていた。頭が傾いて、隣の人の方にいきそうになっている。
なんで私の方に来ないの。
そんなこと、眠りかけの穂波に言っても仕方がないんだけど。
私はそっと彼女の肩に手を回した。少しこっち方面に力を入れてやるだけで、簡単に穂波の頭は私の肩に着地する。
ふわりと、甘い香りがした。
さっき嗅いだ香水の匂いともまた違うその香りは、穂波本来の香りなのかもしれない。一日遊ぶ中で香水の匂いはすっかり薄れて、穂波らしさが顔を出していた。
こっちの方が好ましいかもしれない。
好きな人の匂いについて深く考えているのも変態っぽいから、やめる。
「ゆきは……」
小さな声が、耳を打つ。
「穂波?」
呼びかけても、返事はない。
今私の名前を呼んだのが、どうしてなのか。
わからないまま、肩に手を置き続けた。
目覚めるまでずっとこうしていればいい、と思う。
警戒心のかけらもない顔で眠っている穂波を見て、私は愛おしいような、ちょっと嫌なような、そんな心地になった。
隣に座っているのだから、少しくらいドキドキしてもいいのではないかと思う。少なくとも私はドキドキしている。
触れ合っているだけで心臓の鼓動が早くなって、感情が噴火したみたいに溢れ出してどうにかなってしまいそうだった。
いや、とっくの昔にどうにかなっているんだろうけれど。
はぁ。
ため息をついて、時間が過ぎるのを待つ。一生このままでいたかったけれど、そうもいかない。しばらくすると、私の乗り換え駅に着いてしまう。私は少し迷ってから、穂波を起こして立ち上がった。
「私、ここで降りるから。じゃあね、穂波」
「うん、また明日ね、雪羽」
夏休みなんだから、明日会えるかどうかなんてわからない。
なのに穂波はまた明日と言った。
いつもと変わらないその挨拶が妙に嬉しくて、私は小さく息を吐いた。
扉が開くのに合わせて、電車の外に出る。振り返ると、穂波が手を振っているのが見えた。
私から手を振り返してもいいんだろうか。
迷いながらも、私は穂波よりもっと小さく手を振った。振っているかどうか、わからないくらいに。
それでも穂波はちゃんとわかってくれたらしい。
いつもよりも楽しそうな笑顔を浮かべて、少し大きく手を振ってくれた。
数秒後、電車が動き出す。
「無邪気に笑っちゃって、ばか。……大好き」
聞こえないとわかっていれば、好きって言えるのに。
穂波にも聞いてほしい。聞こえてほしい。
でも、怖い。
心には表面張力のようなものがあって、面と向かって好きって言うのをギリギリ防いでくれている。それは私が頑張って抑えているためでもあるんだろうけど。
しかし、一度決壊してしまったらもう、止まらない。溜まりに溜まった好きという感情は溢れ出してしまうだろう。
そうなったら終わり。
終わり、だと思う。
もしかしたら、始まりになるかもしれないけれど。それに期待するには、穂波の気持ちはまだ遠過ぎる。
「ほんと、ばか」
誰に向けているのかわからない言葉を呟くと、胸が少し重くなった気がした。
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