only you①
雨の音が聞こえる。
窓の外を見ると、バケツをひっくり返したみたいな大雨が降っているのが見えた。梅雨だから雨が降るのは当然だけど、今日のは一段とひどい。
放課後。
私は穂波と一緒に帰るべく、彼女の教室に行った。
「穂波? 穂波ならさっき帰っちゃったけど」
彼女の友達に言われて、落胆する。
珍しい。穂波は割とのんびりしているから、普段はすぐに帰ったりしないのだが。
私はがっかりしながら、昇降口に向かった。友達には先に帰ってと言ってしまったから、今日は一人で帰るしかない。
そう思ってバッグの中を見る。
「……あれ」
いつもバッグに入れているはずの折り畳み傘が、ない。
そういえば、昨日使ってしまったのだったか。普通の傘は大きくて邪魔だからいつも折り畳みを持っているのだが、裏目に出たかもしれない。
こんなことなら、普通の傘を持ってくればよかった。
仕方なく校舎の中に戻る。雨が止む気配はないけれど、待っていれば少しくらいは雨脚も弱まるだろう。
そう思って、教室に戻ろうとする。
その時、穂波の教室が目に入った。
感じるはずのない気配を感じる。
「穂波?」
空になった教室の中に、穂波だけが座っていた。幻覚でも見ているのかと思ったけれど、確かに穂波の気配を感じる。
「帰ったんじゃなかったの?」
「あ、雪羽。ううん、帰ってない。ちょっと上の階に雨見に行ってた」
「何それ」
「雨、強いなーって。天気予報曇りだったから、油断してたよ」
「傘持ってきてないんだ」
「雪羽は?」
「私も忘れた」
私は教室に入って、彼女の隣の席に座った。
窓際の席に座った彼女は、ぼんやりと窓の外を眺めている。
雨に隠されて、景色はほとんど見えない。
なのにどうして、穂波はずっと外を見ているんだろうか。
「雨、すごいねぇ」
のんびりした声で、彼女は言う。
激しく降っている雨とは正反対のその声を聞いて、心が穏やかになっていくのを感じる。
穂波は、不思議だ。一緒にいるとドキドキさせられる時と、ひどく穏やかにさせられる時がある。
どちらも嫌いじゃなくて、もっと穂波と一緒にいたいと思う。
「雨、結構好きなんだよね」
「そうなの?」
「うん。雨の日って、すごく静かでしょ? 世界が閉ざされてるっていうか、不純物がなくなるっていうか」
「あんま、よくわかんないけど」
「じゃあ、ちょっとこっちに来てみて」
穂波は立ち上がって、窓のすぐ近くに立った。私も立って、彼女の隣まで歩く。
「目、瞑って」
今からキスされるみたいな感じだ。
そんなことはありえないとわかってはいるけれど、少しドキドキしてしまう。かといって目を瞑る程度のことに抵抗を見せるのも変だ。だから私は、大人しく目を瞑った。
「静かでしょ。雨の音しか、しない感じ」
穂波の声が聞こえる。
目を瞑ると、耳が敏感になるような気がする。いつもは聞こえないような、穂波の小さな呼吸音まで鮮明に聞こえて、雨の音なんてどうでもよくなってくる。
しかし。
確かに、静かかもしれない。雨の音には穂波から発せられる音以外は全て飲み込んでしまう力があって、辺りは静寂に包まれていた。
世界が閉ざされている。
確かに、そんな感じがする。雨に閉ざされたこの教室という静かな世界に、二人。
肩を並べてただゆっくりとこの場にある音を耳でかき集めていると、この世には私たちしかいないような気がしてくる。
目を開けると、穂波が見える。彼女はなんだか愛おしげな表情で、雨を見ていた。
そういう顔は、私に向けてほしいと思う。
無理だってわかっても、やはり。
全ての表情を私だけのものにしたいと、どうしても願ってしまう。
「なんか、ちょっと贅沢だよね。この静けさを二人だけで感じるって」
「……そうかも」
雨なんて私にとっては、濡れるし髪はぼさぼさになるしで、嫌なものでしかなかったのだが。彼女が好きならば、私も雨のことを好きになりたいと少し思う。
「……本と音楽、どっちがいい?」
唐突に、彼女は言う。私は首を傾げた。
「なんの話?」
「せっかく二人きりだからさ。雨の日にすると楽しいことをしようと思って」
「……じゃあ、音楽」
「りょ」
穂波はバッグからイヤホンホルダーを出す。
おや、と思った。
穂波はいつもワイヤレスのイヤホンを使っているはずだ。彼女がコードのついたイヤホンをつけているのを見たことはない。
「あ、これ? コードついたやつの方が音がいいって聞いたから買ったんだー。違いなんてわかんないけどね」
薄い水色のイヤホンをスマホに挿して、穂波は画面を操作し始めた。
「はい、片っぽどーぞ」
「……うん」
私は穂波のすぐ近くまで椅子を持ってきて、座った。
左耳にイヤホンをつけて、座る。
穂波も座って、右耳にイヤホンをつけた。
それからすぐに、曲が流れ出す。ゆったりとした静かめな曲で、こんな日にはぴったりだった。
見れば、穂波は目を瞑っていた。
雨の日の静けさだとか、耳に流れる音楽だとか。そこから何かを感じ取って、心で咀嚼している様子だ。
その顔は可愛いというより、綺麗だった。ぴたりとくっついた両の唇に、眠ったように閉じられた瞼。
彼女は今、何を感じているのだろう。何を思っているのだろう。
その心に触れたい。
その心を覗きたい。でも触れたり覗いたりできないのが心で、どれだけ仲良くなってもそれは変わらない。
もどかしい。何が好きとか、普段何をしているとか。簡単なことならいくらだってわかるし知れるのに、こういう時に何を感じるのかはわからない。
好きなのに。
大好きなのに、全部知れないのは苦しい。
教えてほしい。私のことも、もっと知ってほしい。それでも、全部教えて、全部知ってなんて言うのはきっとおかしくて。
だから私は、膝の上に乗せられている彼女の右手を、そっと握った。
一瞬の硬直の後、手が握り返される。
彼女がそれを拒まないことは知っている。知っているけれど、実際に手を握り返されると嬉しくなって、心が浮かんでいく。
「静かだと、音がすごくよくわかるんだ」
「どういうこと?」
「雨が雑音を全部消してくれるからかな。音が生きてるみたいに、踊るっていうか」
「詩的だね」
「そうだね。雪羽はどう? 音、踊ってる?」
「……わかんない」
「そっか」
私の耳の中で踊るのは、いつだって穂波の声だ。
静かな世界でただ音楽を聴いたところで、感じられるものはそう多くない。私は音楽よりも、穂波を感じたいと願っている。
何よりも穂波のことが知りたい。
たとえ彼女の考えを完全に理解することができなくても、好きな人のことはたくさん知りたい。
彼女の手を、少し強く握る。
イヤホンのコードと、互いの手。それが私たちを繋いでいる。
イヤホンは異なる存在である私たちに同じ音楽を流していて、互いの手は温度も硬度も大きさも、何もかも違う私たちを少しだけ同一の存在に近づけてくれる。
手を繋いだからって何が変わるわけじゃないけれど。
繋いでいる間は、私たちはただの他人から、一歩近づいた存在になれる。
そんな気がする。
「雪羽は、いつも私のこと見つけてくれるよね。どうして?」
「どうしてって……」
「私って、ほら。前も言ったけど特徴ないじゃん? どうやって私のこと見つけてるのかなーって。不思議」
気配がわかるって言ったら、流石に引かれそうだ。
自分でも穂波のことをすぐに見つけ出せる理由はわかっていないのだ。
「それは……」
「それは?」
返答に窮する。
穂波は私の方に目を向けてから、窓の外を見た。
それから、何かに気づいたように立ち上がる。自然と私も立ち上がって、イヤホンが外れた。
静けさが少し、遠ざかった気がした。
「虹だ」
「……ほんとだ」
いつの間にか、雨が上がっている。
まだ鈍色が残る空にはカラフルな虹がかかっていて、それを見上げる穂波の顔はいつも以上に輝いていた。
「写真撮らなきゃ。虹記念に」
「何、虹記念って」
「二人で初めて虹見た記念!」
そう言って、穂波はスマホで写真を撮り始めた。
片手じゃ写真を撮りにくいだろうに、手を離す気配はない。
それは嬉しいけれど。
どうせ手を繋いでいるのだから、もっとドキドキしてみたりとか……。
ないな、穂波だし。
はぁ。
穂波は本当に、私のことをただの友達としか見てくれていないらしい。好きって態度には出していないから、仕方ないんだろうけど。
知ってほしい。知らないでほしい。
友達のままじゃ嫌だ。
しかし、今の関係が心地良いのもまた確かで。
私の心はめちゃくちゃだ。
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