一話 町娘・お咲
快晴の小春日和、辺りは賑わっている。
そんな中、
先月、妹が殺された。たった一人の家族だった。奉公先の井戸に落ちての事故死、或いは自死であろうと判ぜられたが、そんなはずはなかった。そんな理由がないと、妹は殺されたのだと、強い疑念が残って声を上げたが誰にも相手にされなかった。むしろ迷惑だと、これ以上の不敬を重ねるならば手打ちにするぞと脅しをかけられる始末である。
妹は僅かばかりの見舞金になって帰ってきた。悔しくてたまらなかったが、誰が仇かも分からないのだ。そうやって暗い日々を過ごしていたある日のこと。
棚の奥に丸め込まれた紙があった。妹が書き損じたであろう文を見つけたのだ。何の拍子にそんなところへ入り込んだのか、それは愛しい人への別れの手紙だった。しかも、相手は冷や飯食いと言えども奉公先の武家の
(ああ、やはり妹は殺されたのだ)
すとん、と落ちてきた。
(ならば、おれが、この手で──)
喜八は
そんな日々を過ごして半月、すっかり喜八はやつれていた。夜もろくに寝付けなかった。仇敵は中々隙を見せなかった。疲ればかりが溜まり、仕事でも些細な失敗をすることも出てきた。
皆の心配そうな視線が、痛い。
この日もどうにか日々の仕事をこなし、さあ休憩しようとしたところ、声がかかった。ちょうど客が一人入ってきたところだった。
「よくいらっしゃいました。ささ、本日はどのような──」
その客人は無言で店を見渡して、静かに呟く。
「おぬしと二人で話をしたい」
「と、申しますと……」
「内密の話だ」
まるで身に覚えがなく、
「そ、それでは──」
仕方なく客間に案内した。
喜八はこの老人に覚えはない。さては何処ぞのご隠居が、暇潰しに来たのだろう。もしくは孫か子の為と称して、無理難題を引っ掛けてくるのか。
そう思っていたのだが、
「おぬし、恨む相手が居るな」
「その恨み、この爺に売れ」
「なんと」
喜八は目を
それでも、無視ができなかったのは老人の目に宿る炎を見たからだろう。喜八と同じ色の感情が、そこに渦巻いていた。
「私の恨みをあなたに売れと、そう仰いますか」
「そう言っている」
「売れと……、幾らで」
ぎろりと爺の目が鋭く尖った。喜八は思わず幾ら、と聞いたことを後悔した。斬り殺される──そう錯覚させるに十分な眼光だった。
「し、失礼申し上げました」
「この爺、売れと言ったが銭で買い取るとは言っておらぬぞ」
「それでは一体──」
「おぬしが得るのは、銭ではない。ただひとつ、ぬしの仇敵の死だけじゃ」
「なんと!」
叫んで、慌てて声を落とした。誰の耳があるかもわからない。
「では、あなた様は仇討ちをしてくださると──」
「そう言っておる」
喜八はまたひどく、狼狽した。
なぜこの老人が己の恨みを把握しているのか。そもそも何故、手を貸そうと言うのか。何度も言うように、喜八はこの老人を知らなかった。
「あの、名をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「必要か?」
「いえ──」
歯切れ悪く口籠ったが、老人は低く声を紡いだ。
「まあ、よい。
「蒔田様。私は喜八と申します。この店で手代を勤めております」
蒔田はひとつ頷いた。
「失礼ながら、何故、私の恨みを晴らしてくださるのでしょうか」
「理由が必要か」
「え、いや──」
また口籠る。喜八にすると、この老人はどうもやりづらい。それでもなんとか、知らぬ人相手には頼みづらいのだとそれらしいことを取り繕った。老人はやはり短く答えた。
「恨み屋だからだ」
「恨み屋と……」
「晴らせぬ恨みを貰い受け、代わりに晴らす」
老人は迷いなくそう言った。
喜八は少しだけ迷ってから、頷いた。わからないことだらけだが、黙っているのも良くない。
「なるほど、それで、恨みを持つ私の所へいらしたのですね」
「そうだ。故に聞く。おぬしの恨みはなんだ」
「……い、妹が殺され、事故死とされたことにございます」
「して、恨みの相手は」
「それは」
言い淀んだ。この老人を何処まで信用していいのだろうか──、もしや仇の手先ではないか──。けれども喜八は気がつけば口を開いていた。
「あ、
「ほう、藍綱の倅か」
喜八は腹を括ると、強く頷いた。
「間違いございません」
「して、奴は何をした」
「彼奴は我が妹を食い物にし、己が都合でそのやや子ごと殺めたのです──!」
「それが事故死と相成ったか」
「はい。どうも奴に
喜八の言葉に老人が頷く。
「なるほどな」
「そうです。私は奴を恨んでいる。いっそ、この命と引き換えにとも──」
「やめておけ」
激昂する喜八を、一言、蒔田が
「ひとつだけ、忠告しておく」
「……何でございましょう」
「売った瞬間から、その恨みはおぬしのものでなくなる。おぬしはなんの恨みも持たなくなるのだ。それはこの爺の恨みとなり、この爺が己のものとして恨みを晴らす。おぬしは今後、奴に対して手出しはできぬ──恨みなどないのだから」
「そ、それは」
「おぬしがどうしてもその手で、と言うならばこの話はなかったことにしよう。己が手で叶うものならば、爺の手を借りるまでもあるまい」
「……」
「どうする」
「……」
仇敵との力量の差、それは喜八自身よくわかっていた。相手は武士、己は一介の町人に過ぎない。あの男には傷ひとつつけられず、よくて子飼いの輩に多少の傷をつけられるか否か。きっと、己が死んだ後も藍綱は変わらず人生を謳歌するのだ。妻をとって、子を授かって、妹が手にできなかった何もかもを享受して──。
そんなことは、赦されない。
溢れる怒りも、やるせなさも、己の手で決着をつけたい気持ちをすべて押さえつけ、それでもと喜八は心を決めた。それでも、可能性がある方に賭けたいと。
「どれだけ、待てば良いのでしょう」
「すぐだ」
「すぐ?」
「そう待たせはせぬと言うことだ」
「……わかりました。これより恨みは捨てましょう。我が恨み、確かに蒔田様に売らせていただきたく」
喜八は頭を地に擦り付け、震える声を絞り出した。この恨み、忘れられるだろうか──。忘れねば、忘れて、この男に望みを託すのだ──。
「どうか、お頼み、お頼み申し上げます」
「果報を待て」
蒔田は用は済んだとばかりに腰を上げた。
*
夜、とは言えまだ木戸も締まらぬ宵五ツ(午後八時)頃──藍綱玄二郎は夜道を歩いていた。夕涼みがてらのその隣には馴染みの岡引、
提灯が右に、左に揺れる。この辺りは夜に商う店も少なく、周りに人影はない。
「いよいよでございますね」
惣右介が言う。無論、近く控えた祝言についてだ。
「まあ、な。ちと面倒もあったが──いや、あの時は助かった。礼を言うぞ、惣右介」
「いえいえ」
「じきにまとまった金子が入る。そうしたら、おぬしも晴れて武士の身だ」
金で武士の身分を買ってやろうと、そう言うのである。口約束にすぎないそれを、惣右介はありがたがって頭を下げた。
「はは、有難い限りです」
「ふ、無論、家臣としても取り立ててやろう」
満足げに藍綱は口角を上げた。
藍綱は遠縁の武家に婿入りする予定となっていた。姫君のことは二、三度見掛けただけだが、非常に美しく、交わした文にも淑やかさと知性が見え隠れする申し分のない女性である。相手も藍綱を気に入ってくれたらしく、つつがなく縁談は進められた。
さて、そうなると厄介な問題が出てきた。
奉公に来ていた女だ。名は藍綱の記憶にはなかったが、酔った勢いでほぼ無理矢理に手篭めにした。その後も都合の良い時に甘い言葉を囁けば女は黙って言うことを聞いていた。そこまではよかったのだ。それなのに、いざ縁談がとなった途端になんと子を腹に宿したのだと言うのだから、藍綱はどうにかしてこの女を始末せねばと焦ったのである。
(奉公を続けさせてもらえるなら黙っていると約束したが、子が生まれれば親は誰だと言う話にもなろう。親兄弟は問い詰めるに違いない、そうすればあやつが口を滑らさないとも限らない……)
そんなことになれば、藍綱の縁談は即破断になるのは目に見えていた。それは藍綱としても困るのだ。
だから、殺した。
夜半に井戸前に誘き出して、甘い言葉を囁き、もう戻りますとはにかんだ女を冷たい井戸に突き落とした。よほど驚いたのか、落ちる前に頭でもぶつけたか、女が悲鳴ひとつあげなかったのは幸運だった。証拠などは事前に動いていた惣右介がもみ消して、結局は不運な事故と片づけられたのだったが。
(いや、馬鹿なことをした。今後はおれも気をつけねばなるまい)
時が来れば適当な理由をつけて惣右介も始末して、それからは綺麗さっぱり過去を捨て改心をし、婿入り先の跡取りとして精進せねばなるまいと考えていた。
二人並んだ帰り道、ふと、目の前に影があった。木立の影間に人がいる。
藍綱は並々ならぬその気配に、惣右介を手で制して立ち止まった。惣右介も険しい顔で闇を
「なんじゃ、お前は!」
藍綱が声を上げた。
「待ち伏せか! おぬし何処の者だ!」
「……」
返事はない。
代わりに、一人の老人が出てきた。薄い灰色がかった髪を短く束ね、上等ではあるが使い込まれた小袖が風に揺れ、腰には大小二本差し。何処ぞのご隠居だろうかと、藍綱は踏んだ。その手は柄にかかっている。
「何用か。おれを誰か知っての愚行か」
「藍綱玄二郎」
「な──」
「しかし、連れ合いは存ぜぬな。二人連れか」
老人はそこでふと、そういえばあの手代の男がそんなことを言っていたなと思い出す。これが藍綱の手先の岡引、なればこの男も斬って差し支えなかろうとも、ちらりと考えた。
刹那。
老人が地面を蹴った。何を問う間も与えられず、藍綱の目の端を銀光が走る。
(き、斬られた⁈)
(いや、おれではない)
(では──)
藍綱が隣を見ると、惣右介がその悲鳴ごと真っ二つに両断されていた。黒々と血が噴き出して藍綱の袖を濡らす。忙しなく目をぎょろりと動かして、血の泡を吐きながら、湿った音を立てる。
「だ、だん、な……」
うつ伏せにどさりと倒れた。数度
襲いくるのは得体の知れない恐怖。
藍綱は咄嗟に刀を抜いていた。抜きざまの一閃を軽く跳ね返されて、慌てて距離をとる。
「お、おのれぇッ!」
何が起こったかを理解できぬまま、吼えた。
まず一人、と呟いて老人は刀の血を払った。残りの一人──藍綱は構えたままじりじりと距離を測っている。
「お、おぬし、何の恨みがあって」
「お咲の云々に対する恨みだ」
「お、お咲だと……? そんな奴は知らぬ」
そこでひとつ思い至る。もしや、あの女の名がそうであったのではあるまいか──。とすると、この老人は親族か、懇意にしていた相手か。
(あの小娘、武家の出だとは聞いていないぞ)
藍綱は顔を歪めた。相手が武家ともなれば、ここで逃せば後々の計画に障りが出よう。老人一人がのこのこと仇討ちに現れた今が好機だと考えた。
(惣右介の代わりはすぐ見つかるだろう。いくら腕が良くとも所詮は老人、辻斬りに襲われてこの俺が見事退治したことにしてくれるわ)
二人、対峙する。
老人の剣気は鋭く、思わず後退りそうになるのを藍綱は必死で
ぎらりと月光が跳ねた。
「き、きぇぇえいッ」
藍綱が跳び、叫び、上段から一息に袈裟に振り下ろす──その目の端を老人が通り過ぎた。藍綱の刀は宙を裂く。腹に異物を感じた藍綱は視線だけ腹に向けた。刀だ。藍綱の胴に突き刺さした刀を、老人は真一文字に引き抜いた。
藍綱の腹から血と臓物がこぼれ落ちる。それを手で抑えて、膝から崩れ落ちた。老人は冷たい視線でそれを見下ろしている。
「き、貴様……な、何……」
「恨み屋、蒔田雨露亮」
名を聞くと、ごとりと音を立てて藍綱が斃れた。
*
その事件は、たちまち喜八の耳にも届けられた。噂話も散々聞いた。店の者が買ってきた瓦版を剥ぎ取るようにして読めば、確かに事件が載っている。しかし、どの話を聞いてもその下手人については何の手がかりもないのだという。
仇が死んだ──。
初めはその実感も湧かなかった。それでも数日経てば心も追いつき、試しに藍綱の家の周りに行けば葬儀の話も耳にして、ようやく終わったのだと理解した。なんとあの男、過去には喜八の妹以外にも方々に手を出していたらしい。それが表沙汰になるや、遺族の怨恨によるものではないかと噂されるようになった。
己ではきっと成し遂げられなかった悲願。妹では仇討ちにすらできなかったであろうそれを叶えてくれた、あの老人──。
喜八は慌てて『蒔田雨露亮』という名の老人を探し始めた。
そうやって日ばかりが経ち、ようやく喜八も寝つくことができるようになり、全てがようやく前へ進み出す。過ぎる日々の中、喜八の人生はまた少しずつ順調になっていったが、蒔田のことはいくら探しても手がかりひとつ見つけられなかった。
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