姥捨て山で迎える最期の日

滝田タイシン

姥捨て山で迎える最期の日

「もうお前と喧嘩出来なくなるかと思うと寂しいな」


 コップに入った冷酒を飲み干し、博之はしみじみと呟いた。

 俺と幼馴染の博之は駅前の居酒屋で、テーブル席で向かい合って飲んでいる。七十歳目前の爺さん二人でサシ飲みだ。


「長い付き合いだからな、最初に喧嘩したのは幼稚園の時か?」


 俺はビールを一口飲んで喉を潤し、博之に応えた。


「おーい、お姉さん、冷酒もう一杯」


 博之は冷酒の追加を頼むと、刺身を一切れ口に運ぶ。


「ああ、確かそうだ。もう喧嘩の理由がなんだったか忘れたな。だが、あの時お前に噛まれた傷は、まだ腕に残っているぜ」

「本当か?」

「これを見てみろよ」


 博之はそう言うとシャツの袖のボタンを外し、腕を差し出す。上腕の柔らかい部分に小さな円形の傷痕が残っている。


「これがそうか。六十年以上も残る物なんだな」

「笑い事じゃねえぞ。本当に痛かったんだから。未だに憶えているぜ」

「すまん、すまん。でも懐かしいな」


 俺は懐かしさに顔が綻んだ。


「喧嘩もしたけど、それ以上にお前にはいろいろ助けられたよ。本当にありがとう」


 博之がそう言って頭を下げた。


「何を言ってるんだ。俺の方こそいろいろ助けられたよ。ありがとうは俺の台詞だ」


 心からそう思い、俺も博之に頭を下げた。


「ジジイが二人で気持ち悪いな」

「全くだ」


 その後も俺達は、飲んで食べて、昔話に花を咲かせた。



 西暦二千年も半ばに差し掛かる頃、日本には予想より早く、超高齢化の波が押し寄せていた。六十歳以上の老人が約二人に一人となる異常事態。若者が老人を支え切れない現実が誰の目にも明らかだった。

 改善案として、俗に言う『姥捨て山』法案が制定された。七十歳以上の人間は全て安楽死させると言う究極の法案だ。ただ、老人に無条件で死んで貰うのではない。七十歳の誕生日の一週間前に、政府から本人しか使用出来ない、百万円分の養老カードが支給され、どんな貧困者でも最後の一時を有意義に過ごせるのだ。金持ちとは違い余裕の無い生活を送ってきた人間にとって、人生の悔いを残さない為の時間とお金だった。



「あと十日ぐらいか?」


 もう十分に飲食して、そろそろお開きかと言うタイミングで俺は博之に聞いた。


「良く憶えていたな」

「ああ……」

「明日と明後日は子供や孫達が集まってくれるんだ」

「それは良かった。最近は誰も見送ってくれる人間がいない老人も多いらしいぜ」

「そうだな。本当に幸せな人生だったよ……」


 博之はしみじみと言う。


「そうそう、その事でお前に渡したい物があるんだ。年取ると物忘れが激しくて困る」


 そう言うと、博之は鞄の中から大き目の封筒を取り出し、俺に差し出した。


「なんだ、これ?」

「まあ、中を見てみろよ」


 封筒の中には数冊のパンフレットが入っていた。


「これは、もしかして……」


 博之が俺に渡したのは、最後の一週間のプランを提案したパンフレットだった。

 養老カード制度が出来ると、当然それを目当てにしたビジネスが盛んになる。人生最後の一週間を思いっ切り贅沢に過ごせるよう、様々な企業からプランが提示されていた。どのプランも豪華な食事や温泉、マッサージ、中には性接待を匂わせる内容まであり、それでも百万円ポッキリと言うサービスプランなのだ。人数も家族向けから夫婦や対象者個人と様々あるが、当然対象者一人のプランが一番豪華だ。最後の一週間ぐらい思い残す事なく贅沢に過ごせば良いと言う世間の風潮もあり、多くの人間が利用していた。

 博之が持ってきたパンフレットは、対象者一人向けの豪華なプランの物だった。


「俺は最後の一週間を豪遊して過ごすぜ」

「ええっ、そうなのか……」


 俺は驚きの余り声を上げてしまった。


「やはり、軽蔑するか……」


 博之は悲しそうな表情を浮かべた。


「いや、すまん。決して軽蔑したから声を上げた訳じゃないんだ。少し意外だったんで」


 博之は夫婦仲も良く、俺は勝手に家族と過ごすものだと考えていた。


「勘違いしないで欲しいが、今まで俺は嫁さんを裏切った事もない、家族の事を優先してきたんだぜ」

「ああ、それは分かっているよ。だからこそ、意外だったんだ」

「でもな、考えてみろよ。俺達は生まれた時から不況、不況と言われる中を一生懸命に生きてきた……」


 確かに俺達平成生まれにとって、不況が当たり前の世の中だった。結婚して子供を持つ事すら困難に思えるような青年期を過ごした。


「夢も見られないような暮らしの中で、結婚して子供を作って、贅沢もせず我慢して生きてきたんだ。最後ぐらい全てを投げ出して、自分勝手をやったって罰は当たらんだろ?」

「ああ、その通りだ。誰もお前を責める権利はないだろう。奥さんはどう言ってるんだ?」

「ああ、芳江は理解してくれたよ。今まで一生懸命家族に尽くしてくれたんだから、最後ぐらいは思いっ切り楽しんでってな」

「そうだったのか……良い奥さんだな」

「ああ、俺には勿体ないくらいの女だったよ……」


 博之なりに考え抜いた結論なのだろう。家族の理解があるなら、何の問題もない。


「お前はどうするつもりなんだ?」

「……俺はまだ考えていない……」

「呑気なお前らしい。だからそのパンフレットを持って来たんだ。一度目を通してみろよ」

「ありがとう。そうするよ」


 残された時間は後一か月程だと言うのに、俺はまだ何をすべきか決めかねていた。ただ一つ思うのは、後悔したくないと言う事だ。死ぬ間際を満足して迎えられるようにしたいと言う事だけだった。


「俺もすぐに行くさ。またあの世で飲もうや」


 俺達は居酒屋を出ると握手をして別れた。これが最後の別れだとお互い知りつつ、笑顔の別れだった。



「ただいま」


 博之と別れた俺は、自宅マンションに帰って来た。


「お帰りなさい」


 妻の陽子が出迎えてくれる。六十七歳の陽子は、俺の目には昔と変わらず綺麗な最愛の妻だ。


「お風呂の用意が出来ているけど、すぐに入る?」

「いや、お茶を淹れてくれないか」

「はい」


 俺はダイニングに行き、テーブルに着いた。


「はい、どうぞ」


 すぐに陽子が熱いお茶を淹れてくれた。


「ありがとう」


 息で冷ましながらお茶を一口飲むと、俺は自分が落ち込んでいるのを感じた。博之と最後の別れをしてきた事で、一か月後の自分がリアルに感じてきたからだ。


「大丈夫?」


 陽子が俺の肩に手を置き、心配そうに訊ねる。俺が博之と最後の別れをしてきた事を、陽子は知っていた。


「ああ、すまん、何でも無いんだ。少し疲れただけだから……」


 俺は不安な気持ちを悟られないように、笑顔で明るく陽子に応えた。


「この封筒は何?」


 陽子は俺がテーブルの上に置いた封筒に気付いた。


「ああ、それは……」


 特に隠すつもりも無かったので、中のパンフレットを取り出して、陽子に見せた。


「これは……」


 陽子も何のパンフレットかすぐに分かったようだ。


「博之の奴、最後の一週間にそれを使うそうだ」

「えっ、そうなの……」


 陽子は驚いた。夫婦で付き合いのある俺達は、博之夫婦の仲の良さを知っているので、陽子も意外に感じたのだろう。


「あいつもこれまで家族の為に頑張ってきたからな。最後は何もかも忘れて羽目を外したいんだろう。奥さんも了解しているそうだ」

「そうなんだ……」


 陽子は少し暗い表情になった。


「あなたも私に遠慮しないで、予約しても良いのよ。あなたには十分幸せにして貰ったから、最後は後悔のないようにして貰いたいの」


 思い詰めた顔をしている陽子を見て、言うべきでは無かったかと後悔した。


「あ、そう言う意味じゃない。その……俺もそのプランを使いたい訳じゃないんだ……」

「うん、それは分かってる。でも、あなたに遠慮して欲しくない事は本心なの」


 そう言われても素直に受け取れはしない。


「ありがとう。本当にまだ迷っているんだ。後三週間は時間があるから、考えておくよ」


 それは、俺の本心だった。最後の一週間をどう過ごせば死ぬ直前に後悔がないのか、まだ決めかねていた。



 七十歳で人生が終わる分、定年は六十歳と決められていた。年金も定年直後から出るので、十年間はのんびりとした生活を送る事が出来る。

 我が家も息子と娘が共に結婚して家を離れ、俺が定年して以降、陽子と二人で喧嘩する事も無く幸せに過ごした。最後の一週間の行動を間違えて、後悔はしたくはない。



 日曜日になり、息子の弘樹が一人で訪ねてきた。長期休暇の時以外は実家に来ない息子だが、俺に残された時間が少ないので会いに来てくれたのだ。

 弘樹から散歩しようと誘われ、二人して外に出た。


「小さい頃はここで良くキャッチボールしたな」


 近所のグラウンドが併設されている公園に来ると、弘樹が懐かしそうに声を上げた。


「もう三十年以上前だな」

「小さい頃は父さんのボールが怖かったよ」

「お前が中学生ぐらいになったら、俺の方が怖かったぞ」


 少し疲れた俺は、グラウンドが見渡せる観客席のような、幅の広い階段に腰を下ろした。


「何か飲み物買ってくるよ」


 弘樹はそう言うと、自動販売機まで行って缶ジュースを二つ買って戻って来た。俺に一つ差し出して、横に座る。

 俺達二人は並んで座ったまま缶ジュースを飲み、黙って誰も居ないグラウンドを眺めていた。


「……まだまだ何年も生きられるのに、なぜ死ななきゃならないんだよ……」


 懐かしい場所に来て、想いが込み上げてきたのか、弘樹は俯いて小さな声で呟いた。その肩が小刻みに揺れている。


「悪い事ばかりじゃねえさ。年寄りが死ぬ分若い人間がまともに生きられるんだから」

「で、でも……」


 顔を上げた弘樹の瞳に涙が浮かんでいる。 もう四十代半ばの良いおっさんになった息子の顔に昔の面影が浮かんだ。


「ありがとう」


 俺は弘樹の肩に手を置き、礼を言った。弘樹は「えっ?」と驚いた表情を浮かべる。


「ギリギリの生活でいろいろ我慢してきただろうにな……立派に成長して、孫まで産んでくれた。俺は死んでも、子や孫の中に生き続ける。それだけで十分幸せな人生だったと思えるよ」

「ば、馬鹿野郎、なんで父さんが礼を言うんだ。礼を言うのは俺の方だろ……」


 弘樹はとうとう泣き出してしまった。


「良い大人が泣くな、みっともない……」


 俺もつられて涙が出てくる。


「父さんも泣いてるじゃねえか」


 俺達は涙を流しながら、笑いあった。



「父さん、最後の一週間はどうするつもりなんだ?」


 公園を出て家に向かう途中、急に立ち止まって弘樹が聞いてきた。


「うん……」

「業者の個人プランを使うのか?」

「いや、それは使わない」

「どうして? 母さんが反対してるのか? 俺から言ってやろうか?」


 弘樹は茶化す感じではなく、真剣に聞いている。最後ぐらい良い思いをさせてやろうと考えているのだろうか。


「いや、母さんは薦めてくれたよ。自分に遠慮する事は無いってな。でも俺は母さんと旅行に行こうと思っているんだ」


 俺は考えた末にそう決断していた。


「そうなのか……それで後悔しないのか?」

「俺も良く考えたさ。でも死ぬ瞬間に、母さんの悲しそうな顔が浮かんできそうでな」

「母さんは行って良いって言ったんだろ?」

「母さんが本当に悲しい顔をするかどうかじゃなく、俺が最後の瞬間に悲しい顔を想像して後悔しそうって事だ」

「そうか……」


 弘樹はまた歩き出した。


「俺も七十になったら、そう思うものかな」

「お前はお前だ。俺の行動に縛られる事は無い。もし一人で好きに振る舞ったとしても、誰も責めんよ」

「まあ、まだ時間があるから考えるのは止めとくよ」


 人生七十年と、はっきり制限がつくと人間色々考えるようになる。残された時間に焦り、自分本位に生きる人。逆に残された時間を家族と共に過ごそうとする人。時間が残り少なくなっても今までと変わらない生活を続ける人。何が正解かは分からない。弘樹も自分自身の正解を見つけて欲しいものだ。


「弘樹、一つだけお願いがあるんだ」

「何? 何でも言ってくれよ」

「お母さんの事だが……」

「うん……」

「一緒に住んでくれとは言わないけど、マメに連絡を入れてやってくれないか」

「ああ、それはもちろんだよ。同居出来れば良いんだけど、家も狭いからな……連絡はマメにするし、顔も出すようにするよ」

「ありがとう。それを聞いて安心したよ」

「残された者の事は任せてくれよ。後は父さんが悔いの残らないようにしてくれれば良いから」


 頼もしくなったものだ。息子が自分を超えたのがこれ程嬉しく思える事もないだろう。



 家に帰り、陽子も一緒に食事を取った後、弘樹は「今度は家族も連れてくるよ」と言い残し帰っていった。


「いっぱい話が出来た?」

「ああ、そうだな……あ、そうだ、最後の一週間は旅行に行く事にしたよ。一緒に行こう、北海道だ」

「えっ? あなたはそれで良いの?」

「ああ、それが一番だと考えたんだ。もう一度新婚旅行で行った北海道に行きたいって」

「ありがとう」


 笑顔になった陽子の顔を見て、自分の判断が正しかったと感じた。



 旅行に出かける前の、最後の休日。弘樹は約束通り、家族を連れてやって来た。娘の紗耶香も家族を連れて来てくれた。大人が六人で子供が五人。小さなマンションはいつもと違い賑やかだった。

 小さな孫達は、まだ意味が分からず、お爺ちゃんお爺ちゃんと抱きついてくる。中学生の愛梨はもう今日の意味が分かっていて、どこか余所余所しい。俺に対してどういう顔をすれば良いのか分からないのだろう。みんな笑顔で送ってくれようとしているのが良く分かった。


「お父さん、ありがとう」


 我慢が限界になったのか、別れ際に紗耶香が泣きながら抱きついてきた。俺は「おかあさん、駄目じゃない」と泣きながら怒る愛梨も一緒に抱き締めた。

 みんなが帰った後、俺はリビングで陽子と二人お茶を飲んでいる。


「俺はこの歳まで元気でいられて、本当に良かったよ」


 静かになったリビングで俺は心からそう思った。


「ボケもなく、病気でもない。健康で、意思もしっかりとした状態で家族に別れを告げられた」


 陽子は肯定も否定もせず、何も言わずに聞いている。


「後は旅行を楽しむだけだ」


 俺はテーブルの上にある陽子の手を握った。



 最後の一週間となり、俺と陽子は旅行に出発した。

 新千歳空港には午前中のうちに着いた。

 俺達は道中の足にする為に空港でレンタカーを借りる。俺は外回りの仕事をしていて、現役時代は毎日車を運転していた。定年になった後でもドライブを趣味にしていて、この歳でも運転は苦にならない。

 新婚旅行と同じく、札幌から小樽を経由して道央を周る予定だ。

 初日は札幌観光、時計台やテレビ塔などの名所を周り、ホテルに泊まった。次の朝には小樽へ向かい、オルゴール堂や運河沿いを散策する。ディナーはホテルの近くにある海鮮料理の店で、毛ガニを食べた。新婚旅行の時は高過ぎて手が出せずに、悔しい思いをした料理だ。ギッシリ詰まった身と濃厚な蟹みそ、半世紀近くも思い続けた味は格別だった。

 翌日に層雲峡に向かい車を走らせる。層雲峡は、新婚旅行で一か所だけでもちゃんとした温泉に入りたいと選んだ場所だ。結構距離があり長距離運転となったが、休憩を挟みつつ、二人で思い出話をしながら楽しいドライブになった。旅館に着き、ゆったりと温泉に入り豪華な料理を堪能して、翌朝は富良野に移動した。

 ラベンダーが有名な富良野だが、生憎五月後半の今は咲いていない。仕方なく、有名なドラマのロケ地に行ったり、ワイン工場を観て周った。

 観光が終わり、ホテルにチェックインし、レストランでディナーを食べる事にした。注文したのは、新婚旅行の時よりランクが上のコースだ。


「またラベンダーは見れなかったね」


 ワインで少し頬が赤くなった陽子が残念そうに言う。新婚旅行も今回と同じ時期でラベンダーは咲いていなかったのだ。


「二回ともタイミングが悪かったな」


 新婚旅行から帰った後に、また二人でラベンダーが咲く時期に行こうと約束していたが、結局それは果たせなかった。


「私の時に、一人で来ようかな」


 陽子が冗談とも真剣とも分からない表情で言った。陽子の誕生日は七月二十日、ラベンダーが見頃の時期だ。私の時とは、三年後の死ぬ一週間前の事なのか。

 俺は一人残された陽子の三年間を想った。

 自分が先に死ぬ場合、配偶者にいつまでも想っていて欲しいと願う人と、逆に自分の事は忘れて新しい幸せを見つけて欲しいと願う人がいるだろう。俺は後者の方だ。


「もし、これから残された三年間に、本当に好きな人が出来たら再婚して欲しい。俺の事は忘れて、短い時間を幸せに暮らして欲しいんだ」


 俺は心の内を素直に話した。


「何言ってるのよ、こんなお婆ちゃん、相手にする人なんかいないよ」


 陽子はそう言って笑う。

 俺が真面目に話しているのは、長年の間柄から分かっている筈なのだが。


「今は残された者同士で交流を持つサークルもある。世間でも新しい幸せを見つける事が普通になっているんだよ」


 俺が真面目な顔で続けると、陽子は食事の手を止め、黙ってしまった。怒っているでもなく、悲しんでいるでもない、何か考え事をしているような表情だ。

 長い沈黙が続く。こうなった陽子は中々口を開かない。


「冗談で言っているんじゃないんだよ」


 陽子は十分に分かっている筈だが、返事を促す為に、俺は言葉を続ける。それでもしばらくは沈黙が続いたが、ようやく陽子が口を開いた。


「『はいわかりました』と返事をした方が、あなたは安心出来るんでしょうね。私の気持ちとは違っていても」


 俺は陽子の言葉を黙って聞いていた。


「あなたを心置きなく送り出してあげたい。でも、ごめんなさい。これだけは我儘を許して欲しい。残された三年間は、あなたの思い出と暮らしたいの」


 俺は言葉が出なかった。何か言うと泣いてしまいそうだったから。

 嬉しいような悲しいような、何とも言えない気持ち。こんなに想ってくれている妻となぜ別れなきゃならないんだ。

 押さえ付けていた、「なぜ健康で幸せな俺が死ななきゃいけないのか」と言う怒りと不満が湧いてくる。


「ありがとう……」


 俺はそう言うのがやっとだった。



 翌日、全ての日程を終えた俺達は帰宅した。

 残りの二日間は自宅でゆっくり過ごす予定だ。

 自宅で過ごす何も変わらない、いつもと同じ日常。後は心安らかに死を迎えるだけだ。

 最後の夜は、陽子と裸で抱き合って寝た。性的な事を求めた訳じゃなく、長年連れ添った肌に触れて眠りたかったのだ。



 とうとう最後の日が来た。


「それじゃあ、行ってくるよ」


 俺は一人で施設に行く事にしていた。火葬場が併設された公的な施設で安楽死を迎えた後に、遺骨までの処理をして貰う予定にしている。


「やっぱり、私も行きます」


 出て行こうとする俺を引き止め、陽子が急いで用意をして付いてきた。

 俺の気持ちとしては、仕事に行くような気楽な感じで見送って貰いたかったのだが、見送る側にも思うところはあるだろう。俺は何も言わずに、陽子が付いてくるのを拒まなかった。



 施設に着き、予め届いていた手続きの用紙を提出する。程なく病院の待合室のような場所に通された。一人で来ている者、夫婦二人で来ている者、大勢の家族が付き添っている者と十五人ほどの人が深刻そうな表情で座っている。騒ぐ人は一人もおらず、雰囲気は重苦しい。

 俺は陽子と一緒に空いている長椅子に座った。陽子が無言で俺の手を握る。


『佐藤登さん』


 待合室にアナウンスが流れる。俺は思わず周りを見回し、対象者を探した。


「おおっ、嫌だ! まだ死にたくない!」


 一人の男性が座ったまま頭を抱えて、叫んでいる。その横で妻と思われる女性が泣きながら男性の背中をさすっている。男性は声を上げて泣きながらその場を動かない。

 名前を呼ばれた瞬間に、死の恐怖が襲ってきたのだろう。恐らくその場に居た全ての人が、二人から目が離せなかったと思う。その姿は他人事ではなく、間もなく訪れる自分の姿なのだから。

 奥の扉から女性の看護師が出て来たが、二人の傍で見守っている。死を目前にした人に対して無理強いは出来ないようだ。

 やがて男性は妻に支えられるようにして立ち上がり、奥の部屋に続くドアの向こうに姿を消した。


「あなたー!」


 妻がドアにしがみ付いて叫ぶ。

 大きな声だったが、文句を言う人は誰もいない。だが、待合室の雰囲気はさらに重くなった気がした。

 二人の姿を見た後、俺の心に何とも形容しがたい、不安のような恐怖のような暗い感情が沸き上がる。今まで感じないように押し込めていた物の蓋が開いたようだ。

 次々と名前がアナウンスされ、人々がドアの奥に消えて行く。先程の男性に感化されたのか、同じように泣き叫ぶ人もいた。それらを聞く度に俺の鼓動は早くなる。

 安楽死は苦しくない。寝ている間に死を迎えられるのだ。考えられる中で一番楽な死に方なのだ。それに、俺の人生は幸せだった。もう思い残す事も無い。安らかに死ねるんだ。

 俺は呪文のように、心の中で繰り返す。そうしないと、暗い感情に押し潰されてしまいそうだった。


「大丈夫?」


 俺の様子の変化に気付いた陽子が心配そうに訊ねてくる。俺は隣に陽子がいるのを忘れてしまうくらいに我を忘れていた。

 隣を見ると、陽子の顔は青ざめ、恐怖に引きつっている。

 俺はもう吐き出してしまいたかった。この暗い感情を。言葉にならないかも知れない。ただ、泣き叫ぶだけかも知れない。情けない姿だろう。だが、どうしようもなく怖かった。


「大丈夫?」


 俺の肩に手を置き、陽子がもう一度訪ねる。その顔はさらに青ざめている。


「お……」


 何を言おうとしたのか俺にも分からない。だが、その言葉を俺は飲み込んだ。

 ゆっくり息を吸い、ゆっくりと吐く。


「大丈夫だ……」


 俺は絞り出すように、小さな声で呟いた。

 俺は踏み止まった。自分が無様な姿を晒す事を嫌ったのではない。青ざめた陽子の顔が俺を踏み止まらせたのだ。もし俺が恐怖に負けて取り乱せば、陽子は残りの三年間を死の恐怖に怯えて暮らさないといけないだろう。それだけは避けねばならなかった。


「大丈夫だ。俺はもう何も思い残す事は無い」


 今度ははっきりと、笑顔で陽子に言った。


「あなた……」


 陽子の瞳に涙が浮かぶ。


『吉村雄二さん』


 その時、俺の名前がアナウンスされた。

 俺と陽子は同時に立ち上がった。俺は陽子を抱きしめた。


「ありがとう。お前のお陰で幸せな人生だった」


 体を離すと、陽子の瞳から涙が溢れ出す。それでも陽子は懸命に泣き声を上げないように我慢している。俺がそう望んでいる事を知っているのだ。


「じゃあ、行ってくる」


 俺が笑顔で言う。


「はい」


 陽子が懸命に笑顔を作る。

 俺は陽子に背を向け歩き出す。背中に陽子の押し殺したすすり泣きが聞こえる。

 奥の部屋に入ると、ベッドと何かの小型の機器だけが置かれた小さな部屋に通され、白衣に着替え、ベッドに寝かされる。何やら体に機器を取り付けられ、麻酔を腕に打たれた。


「大丈夫です。心を落ち着けて、ゆっくり御休みください」


 若い女性の看護師が優しく語り掛けてくる。

 この意識が無くなると死ぬのか。

 その事実は分かっているのに、不思議と心は落ち着いていた。

 走馬燈と言うやつか、今までの人生が思い浮かんでくる。もっと頑張れた筈、もっと上手くやれた筈。全てが満足出来る人生ではなく、後悔も多い。それでも思い出される家族はみんな笑顔だ。

 意識が遠くなってくる。最後に浮かんだのは、笑顔の陽子だった。

 ああ、良かった。俺は幸せな人生を送れた。死の直前まで人を愛し、その相手から愛された。

 満足感に包まれたまま、俺の意識は消えて行った。


                             了

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姥捨て山で迎える最期の日 滝田タイシン @seiginomikata

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