みはなきものと ひとむかし4
林凪
第1話
マンションの
「神林様ですか?」
そこへ直通エレベータから降りてきたのは見惚れるばかりの美形。後部座席のドア前に立った運転手の確認に頷き、ビニールを剥いだばかりのシートに腰を下ろす。運転手が丁寧に頭を下げてから車は走り出す。暗い地下から地上に出た瞬間、眩しそうに細める目元の艶はただ事ではない。そのままCMになりそう。
ただし本人は内心で、ドイツ出身なのに故障の多いイタ車買ってらしくないなあとか、購買意欲をそそるための宣伝とは逆方向のことを考えていた。むかしのマスターが経営する飲食チェーン店の本社前歩道に乗り上げたマセラティの上位モデル、しかも一目でわかるピカピカの新車。
平日夕方の道路はやや混み始めており、数度の迂回を経て目的地までは二十分ほど。宵闇にネオンが華やぎつつある繁華街のビル前には背の高い、細身の人影がたいへん姿勢よく立っている。車のドアを開けるために。
後れ毛の一筋もなくきっちりと撫で付けられた頭髪も、真っ白のワイシャツにカマーベストを重ね襟元を蝶ネクタイで締めた服装も、格式は高いが少し
丁寧な表情を作ろうとして失敗した笑顔で、今夜は一介の
「あ……、なた……、」
変貌にかまわず賓客は後部座席から降りる。そのままスタスタ、案内を待たずに地下へ。マスターは崩れそうな膝を見るからに必死で保って後を追う。賓客が逆にドアを右手で支えて待ってやる。
「なにを……、どこ……」
ドアのすぐ内側でマスターは耐え切れずしゃがみ込んだ。賓客を見上げて問うが返事はない。ただ、見下ろしてくる美貌はかすかに笑って、左手はスラックスのポケットから出ない。
「ゆび、ですか……?」
外部と通じるドアを閉めたとたん、地下のクラブの入り口から駆け上がってくる足音。階を踏む乱雑な歩調はふだん少しも足音をたてずに歩くあの男には珍しい。初めて聞いたかもしれない。
「うごかないでくださイ。いしゃをヨびまス、カラ、イマスグ……」
100年かけてずいぶん達者になっていたマスターの日本語の発音がどんどん怪しくなる。カマーベストの内側からスマホを取り出して馴染みの医者を呼ぼうとするが指が震えて画面をうまく操作できない。
地下から聞こえてくる足音はどんどん鈍くなり、最後の踊り場で止まった。マスターを置いて賓客が階段を降りる。直線を降り切った先で大きな男が手すりに縋りつき床に膝をついている。背中を波打たせて激しい運動をした直後のように息が荒い。
「……、ッ」
なにか、を。
男は言おうとした。
言えなかった。
前髪を無造作に掴まれ顔を仰向けられる。一別以来、ほぼ半年ぶりの再会。見上げる男の位置からは少し削げた頬に髪がかかって、美貌の迫力は風圧を感じるほどだった。けれど見惚れている場合ではない。
「なんで……?」
聞くまでもない。けれど聞かずにはおれない。非難を含んだ問いに答える気配もなく、天下無敵の美形は膝を折って屈み、髪を掴んで上向けた男の顔を覗き込む。
そのまま唇が重ねられる。
頬の内側に隠されていた指先が舌で押し込まれる。
唾液に薄められても尚、生々しい傷口から血が滲みだす。じゅわり、乾いた口の中に広がる甘い猛毒。あまい。
「やメ……、まダつなガる、かモ……。レイイチサン、ハいてクださいッ」
マスターの必死の叫びを意識の遠くで聞きながら、男に吐き出す選択肢はなかった。奥歯でそっと噛みしめて味わって飲み込む。ごくりとのどが動いた瞬間、笑われたのが気配で分かった。
嚥下したのは灼熱の溶岩のような蜜。腹腔に耐えがたい熱が満ち、目の裏が深紅に染まったところで意識は途切れた。
気が付いた時にはクラブのソファの上。
「マスターのアスピック70年ぶりくらいだっけ。相変わらず黒胡椒と青胡椒きいてて無茶苦茶うまい」
薄暗いカウンターから食器の触れ合う微かな音と、同じくらい抑えた声が聞こえてくる。そうだ70年くらい前、むかしのマスターが爆弾で十年ちかく生き埋めになっていたのを一緒に掘り出した。それからマスターはこの美形をえらく崇拝するようになって男の逆鱗に触れた。このまま近くに居るならもう一度あの穴倉に埋めるぞと本気で脅して、それが居所を瀬戸内から東京に変えた理由。
「これを、水で食べなきゃならないのは拷問だ」
透明感のある声はかなり露骨に酒を
アスピックといえば本来はフランス料理のゼリー寄せ。だが、このマスターが作るものはドイツ風に豚のもも肉を軽く塩漬けしてからすね肉や軟骨と煮込んでゼラチン質を煮出して固めたもので、ゼラチンを使うより柔らかく仕上がる。異物のゼリーに包まれたのではなくて筋や骨の内側からじんわり滲み出した成分で煮凝り状になった煮汁は肉と絡み合って舌の上で溶け、そこに肉の繊維が歯ざわりよくぷつりと噛み切れて、ただでさえ美味い味が食感でなおさら美味になる。
「だめです。医者が言っていたでしょう。抜糸までは禁酒です。水にも濡らさないでください」
マスターは落ち着いたらしい。達者な日本語が復活している。
「指先チョンってちょっと切っただけじゃないか。そんな大騒ぎされると恥ずかしいんだが」
「人間のころの傷は魅鬼になっても治らないんですよ」
「知ってる」
このマスターは第一次世界大戦で傷痍軍人になって、不自由になってしまった足をもとに戻せると嘘をつかれて魅鬼になった。結局足はもとに戻らず、誘った魅鬼を殺してしまい、それが同じ収容所に収監されていた軍人に化けていたせいで母国にも帰れなくなった。そんな話をいつだったか、男も酔って聞いたことがある。
「よりにもよって貴方を脅迫しようとした、我々が愚かでした」
静かな口調で降参の宣言。カウンターの内側で、持ち込んだネルのろ過器とサーバーを使ってコーヒーを淹れている。いい匂いが流れてくる。
「でも何かを要求しようとしたのではありません。ただ無事を確認したくて、直接会って話したかっただけです」
マスターはそうでも男はそうではななかった。要求はあった。抱くとか寝るとかではなくて、いやそれもない訳ではなかったが。
もとに戻りたかった。仲良しの恋人だったときに。
「お若い方は倉庫に寝かせています。命は無事です。まあ命だけですが。玲一さんの怒りをだいぶ買われたようです。コーヒーを飲み終わったらご案内します」
「朝になってからでいい」
「用心深いのは相変わらずですね。いまさらあなたに罠を仕掛けてはいません」
「疲れて面倒なんだ。ガキには一晩、油断を反省してもらうさ」
コーヒーがカップに注がれてことり、カウンターに置かれた音。
「おい。起きたら自分でうえに上がれ。ここまで引きずり下ろすのも大変だったんだ。俺はまだ本調子じゃない」
男が目が覚めているのに気付いたらしい。美形はスツールごと振り向き、ツケツケした口調で文句を言う。
「ただでさえ重いのにぐったりしやがって、運びにくいことこの上ない。マスター居なきゃ途中で転げ落としてたぞ」
「背骨が折れても我々は死にませんがね。コーヒー飲みますか?」
マスターに尋ねられ男は頭をかすかに横に振る。口の中にも喉にも甘い後味がまだ残っている。その味を流してしまう気にはならなかった。
男は起き上がろうとした。指先まで痺れてだるい。肘をつき上体を起こしかけたが途中で崩れ落ちる。気分は悪くないが体は甘い酒に酔い痴れたようになっている。
「ヘタレ」
遠慮会釈のない悪罵に、
「わたしが知っている限り半年、玲一さんは飲まず食わずです」
マスターはコーヒー粉をドリップしたネルの袋を洗いながら庇う。
「そこにいきなり肉を喰わされたら動けなくなりますよ。一回限りだったわたしでも、血のにおいだけでも喉を絞られたようになりましたから」
一回だけ、このマスターは賓客と寝ている。まだ男の支配下にあった頃、延命のために所有権を譲ろうとして失敗したときに。気に入らなくて遠くへ追い払った相手だが、間違いなく大切に扱ってくれそうだったから。
「
「どちらにしろここは出ましょうか。マンションの監視カメラは
「欧州のテロ基準ならあるかもしれないが、
コーヒーカップをソーサーに戻し美形は立ち上がる。嫌そうに男の肩に手をかけ仰向けに姿勢を変えた。
「立てなくってもせめてしがみつけ。今からでもちょっとは
無茶な苦情を言われ男は悲しくなった。自分を担ごうとする相手にだるい腕を廻して、その全体的な薄さに泣いてしまいそう。
「……、の、に」
喉から声を絞りだす。
「いきもできない、くらいつらかった、のに、ちっとも」
体重は減らなかった。心痛や悲しみは外見からは少しも分からなかった。魅鬼にとって容姿は餌を狩るための重要な武器。次の相手をさがすつもりなど少しもないのに、肉体がその為に保たれているのを鏡で見るのは、愛情ではなく執着なのだと告げられているようで苦しかった。
「いい台詞だ。最初の
更衣室横にある、ビルのカメラに移らない搬入用エレベータに運ばれながら、我慢できなくて泣きだす。800年ぶりに。
「アンタを喰う、つもりなんかは、すこしも……ッ」
「嚥下しといてイマサラだ」
必死の訴えをバッサリ斬って落とされる。実際そのとおりで呑み込んだのは自分の意思。外科手術をすればまだ繋がるかもしれないから吐き出せとマスターが必死で懇願していたのに。
「不意打ちで喰わせたといて責める気はないがな。どこかのどいつと違って俺は約束破るのが苦痛だから、生きてるうちに果たしただけだ」
なぜどうして、という問いかけの答え。確かに指を一本くれるという約束はしていた。けれども、それは。
「……痛くなくなってからだった、だろ」
「死んだら届けられない」
「しぬなよ」
何回も、何十回も何百回も、仲良しだったころ繰り返した懇願。
「そばにいてくれ。いなくならないで」
「二度とオマエとは寝ない」
「ちがう」
生きていて欲しい理由は、カラダを使いたいからではなくて。
愛しているからなのだと伝えても信用されないこと、少しもやつれていない自分に信じてもらう価値がないことを男は分かっていた。
みはなきものと ひとむかし4 林凪 @hayashinagi
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