SとM
鬼瓦権蔵
第1話 美月
「…ダメだ。あっつい。」
自然と独り言が漏れる。
この時間に外を歩くのはいつぶりだろうか。
黒いTシャツにダメージデニム、一番に目についたミュールを突っ掛けてアパートを出た。
左腕にギズモとBettyの生首が、右腕には一面彼岸花のタトゥー、服の下にも様々な模様が描かれていて、どれをいつ入れたのかももう覚えちゃいない。
(なーんで今死ぬかな。春にしろよ。)
父の死を知ったのは数年ぶりに入った母方の叔母からの電話だった。
8歳の時母を癌で亡くした。その後のアイツとのクソみたいな二人暮らしは思い出したくもない。アイツは母が生きている頃からいわゆる酒浸りの、メス豚の相手にもされない見た目のくせに女好きで、実の娘さえ性の対象にする猿男。一度勘繰りが始まると自分を制御できず何かにつけて手をあげるスポンジみたいな脳味噌したあのバカ野郎は薬にも手を出していた。
「アンタさー。通夜も葬式も来てないんだからお線香くらいあげたら?ほんと普通とかけ離れてるよね。アタシ、アンタのこと親戚中から言われんのよ。今だに。そもそもなんであの人の遺影ウチに置かなきゃなんないのよ?洋子死んじゃってるのに。」
(お前もついでに死ねよ傍観クソババァ。)
なまじ母さんに顔が似ているからなんとか許してるけど、そうでなければとっくに殺しているかもしれない。子供の頃アザのある顔を見てもそれに触れてくることさえしなかった。
あのババァが母さんと同じ腹から産まれたのが信じられないし、母さんがなぜアイツと恋愛して結婚したのか全く意味がわからない。母さんが騙されて借金でも背負わされたんだろうか?
今回、アイツの遺影に会おうと思ったのも、家族だからなんて思いではなく、遺影に唾吐きかけて爆笑してやろうと思っていた。なんならついでに叔母をひっぱたいてもいい。それに行くのは涼しくなってからでもよかったが、アイツの死を一日でも早く実感したかった。
15を迎えた頃には当然のように家を出た。
歳を誤魔化してキャバクラ、ガールズバー、ピンサロ、援デリ、なんでもやった。処女を捨てたのは13。顔さえよく覚えていない。確か駅前でナンパしてきた男だったか。オッサンだったっけ。どうでもいいけど。
アイツを見てあんなに嫌だった薬にも抵抗なく手を出した。全部投げ出したかった。曲がったり、慌てたり、真っ直ぐ歩けなくなったり、10代の頃はとにかくシラフでいるのが嫌だった。ただ、どれだけ薬を使っても、アイツの気持ちがわかることなんて一度もなかった。
大久保にあるSMクラブで働き始めたきっかけは、給料の良さと興味本位。元からSっ気は強かったから、すぐに女王様に目覚めた。客を蹂躙するのは単純に楽しいし興奮する。木馬の上のオッサンにムチぶっ込んで喘いでる顔見るのが、今では何よりの安定剤。自分でも普通じゃないのはわかっているのだけれど、それで誰にも頼らず生活してるから文句いわれる筋合いもない。
新宿から叔母の家のある立石に向かうため駅に向かった。
(お…。いい匂い。)
モザイクロードを少し入った辺りで、焼けたパンの暖かい香りが周りを包む。
(なんか昼の香りだな。)
少し歩くと右手にカントリーロード、というパン屋の看板が目に入る。
(モザイクロードよりは名前のセンスあるかもな。)
余計なことを考えながら店の扉を開けた。
白を基調とした店内は清潔感に溢れていて、少し居心地が悪い。
(…ん?これに乗っけんだっけ?)
ちゃんとしたパン屋なんて久しぶりだったので、もう買い方も忘れている。
トングとトレイを手にすると、カレーパンとシナモンロールに手を伸ばす。それにアップルパイにも。
シンプルに全部美味しそうだ。この素直な空腹感も久しぶりかもしれない。
(こりゃ食べきれないかな…。)
トレイを持ってレジに並ぶと、パンを並べている店員の男の子とふと目が合った。
軽く会釈をした彼は、なかなかキレイな顔をしている。笑顔が変に爽やかすぎてあまり好きじゃない。
(色白いなぁ〜。最近はああいうのがモテるんだろうな…。見た目韓国っぽいし。)
最近は日本でも韓流でも似たようなグループが多い。TVをつける習慣どころか、家に置いてさえいないので、同じ店の女の子から無理やり見せられる韓国人グループのライブ映像くらいしか情報がない。全て同じ顔に見える。この間なんて、BTSだかなんだかをBBCと間違えて店の子に爆笑された。どこか海外のニュースか何からしい。
支払いを済ませて出口に向かう途中、またあの店員とすれ違った。近くで見ると肌の白さときめ細かさがより一層目立つ。
(…あ、そういや洗顔が無くなってたな。)
そんなことを思いながら外に出た。
暑い。忘れていた。陽射しが鬱陶しくて仕方ない。
母さんは日曜日になるとよくパンを焼いてくれた。毎週それが楽しみで、日曜日にはいつもより早起きした。横についてずっと見ていた。
鼻の上に人差し指で粉をつけてくれた。
母さんの鼻にもつけてあげた。
幸せな時間。ただそれも午前だけ、昼からアイツが動き出すと全てがぶち壊しになる。酒を飲んで大声を出す。シャブ食ってる時は引き出し全部ひっくり返したり、何かに怯えて押し入れにこもってたり。レンジを分解するのも見たことがある。
一度母さんに、
「父さんまた変な匂いがする。汗ビッチョリだったよ。なんで母さんは父さんと結婚したの?すぐ蹴ったり叩いたりするし、すごい臭いのに。うんこみたいな臭いがする。母さんと二人がいい。」
と言っているのが、たまたま近くを通ったアイツの耳に入り、タバコの火を唇に押しつけられた。泣きながら母さんが庇ってくれた。
「本当は優しい人なんだからね。」と、
母さんはいつも言っていたが、そうは見えなかった。それが薬の影響だとしても関係ない。
そんなことを思い出しながら駅に向かっていると、後ろから声をかけられた。
「すいませーん!お客さん!」
さっきの韓国風美少年だ。物凄い勢いで走ってくる。さっきより少し不細工に見えた。
手には見覚えのあるキーケースを握りしめていた。バックから財布を出した時にレジ横に置いたのかもしれない。
「あー…。なるほど。ヤバ。」
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァァ〜。……すいません。
これ…、お客さんの…、ですよね…。」
シュンと出会った。
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