白百合の重さ

夜狐

白百合の重さ

 噎せ返るような百合の匂いに、瞼を開けた。

 暗闇はじとりと湿って重たく、手足を押さえつけるような重さがあった。白百合の香りはあまりに濃密で、彼の鼻腔から入り込み、咽喉に詰まる錯覚を覚えさせるほどだ。

 瞼を押し開けてもなおそこが暗闇であることも彼は知っている。繰り返し見た、これは夢だ。同じ夢だ。夢だ。夢。薄闇。薄っすらと外からはネオンの毒々しい明かりが漏れてくるが室内は、暗い。白百合の香りだけが重たく揺蕩う。これだけ花の香りが濃密では、きっと明かりをつけたところでこの部屋は重苦しく暗いままに違いない。これは夢だ。口に出しているのか考えているのかも分からない。口の中まで白百合を詰め込まれたようなどろりと濃密な匂いで息が苦しい。夢だ。

 薄く引き伸ばされたような闇が、室内にはのっぺりと広がっている。

「せんせい、」

 熱の無い、この部屋に押し広げられた闇のような温さの声色が彼を呼んでいる。呼ばれている。応えなければと伸ばす腕は重たい白百合の香りに絡めとられて、指先ひとつを動かすこともままならない。息も出来ず、声も出せない。温い闇が肺まで沁み込んで来る。

 夢だ。

 玄関の開く音がした。外気が流れ込んで白百合の香りが散るかと思ったが、湿って重い空気は室内をそよとも流れることはなかった。扉が閉じ、白い人影が玄関に一歩踏み込んで来る。滑るようにその人影は横たわる彼へと迫ると、頬を撫ぜた。薄い闇の中に人影の輪郭は不自然なまでに融けて、目鼻立ちも判然としない。指先の温度すらも温く曖昧だ。ただ、奇妙にぬらりと光る唇が緩く弧を描いていることだけは知れた。

 白百合の香りがいよいよ重く、彼を圧し潰していく。

 彼女の身体から放たれている香りだとその時気が付いた。

「先生、」

 白百合の女の手にはいつの間にか、薄闇の中ですらギラギラと光るナイフがあった。頬を撫でていた手は首へ、咽喉へと移動し、やがて胸に触れ、ナイフの刃がそっとそこに突き立てられる。

 音もなく温度も無く、感慨さえなく、ナイフは皮膚を突き破った。骨に触れる刃の冷たさが堪えるかと身構えたのに、それすらもない。突き立ったナイフは易々と肋骨に触れる。心臓に突き刺さる前に一度ゆっくりと引き抜かれ、そのまま今度は腹の方へとナイフは下っていく。血で汚れたナイフを見下ろす女の目にも感情は無かったが、刃を映しこんだように瞳がぎらついて見えた。

「ねぇ、せんせい」

 声が僅かに熱を帯びる。ぬめるように光るナイフが、今度はゆっくりと腹に刺し入れられた。

 痛みは無い。ただ下腹の中を撫でられていく違和感に背筋が粟立つ。腹を裂くナイフを握る女の白い手が溢れた血で染まり、白百合の匂いが鉄錆の香りで腐り落ちていく。

 裂かれた腹から零れたやたらに長い臓物は、闇の中にぬめぬめと光っていた。

 それを冷静に眺める彼の目の前、女はナイフを置いて腹に手を突っ込んだ。直接腹の中をまさぐられ、臓物を掻きだされて、初めて圧迫感のようなものを感じて彼は呻いた。女が笑う。

「苦しい?」

 苦しさは無かった。ただ自分の中身を引きずり出される、その感触が、皮膚の裏側で蠢いているばかりだ。どちらかと言えばそれは嘔吐感を伴う、生理的な嫌悪感と言った方が良かった。

「ほら。苦しいでしょう?」

 繰り返される問い。僅かな熱を帯びた声色は柔らかく彼の耳朶から流れ込み、えずきかけていた喉咽を重たく詰まらせる。ぐちゃりと粘ついた音と共に、腹の中から臓腑が抜け落ちるのが、それと共に自分の身体からも力が失われていくことがはっきりと知覚出来た。

 これは。

 夢だ。

 目が、覚めた。






 教室に差し込む陽光は季節を問わずカラカラに乾ききっていた。同じだけ救い難く乾ききった声が、室内を満たしている。教室内の生徒達はめいめい勝手な方を見ている。


「『しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、──君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか』」


 机の合間をゆっくりと歩きながら彼が読み上げる教科書の文字列に、何らの温度もありはしない。室内には石を投げ入れた時の波紋のように、微かなざわめきが広がり、消えてはまた広がる。ざわめきは読み上げる文字列同様に意味を成さず、耳を澄ましたところでその言葉のひとつひとつを捉えることは出来なかった。だが、彼にはそのざわめきの波紋がどこから生じているのか、そのことだけは理解が出来ていた。

 窓際の列、後ろから二番目の座席の横をゆっくりと歩き進む。


「……先生と私とは博物館の裏から鶯渓の方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間から広い庭の一部に茂る熊笹が幽邃に見えた。……」


 机には生徒は居ない。

 代わりに花瓶に生けられた白百合が、机の上でその花弁の重さに項垂れているばかりだ。

 誰もがその座席を見ていないが、波紋は確かに、ここに端を発している。


「『君は私がなぜ毎月雑司ヶ谷の墓地に埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか』」


 足は止めない。白百合の横を通り過ぎると、項垂れる花弁からは強いだけではない、微かな腐臭が漂っていた。誰も花瓶の水は換えていないのに違いない。白百合はこのまま腐り落ちるのだろう。誰もが見ないふりをしながら、その実、その花の重さを囁き合っている。落ちて、潰れる、醜い花の話を。誰もが。





 重たい匂いの渦に叩き落とされ、瞼を開く。また、夢だ。

 白百合の匂いが、狭い和室にみっしりと充満していた。アパートの一室ではなく、畳張りの和室であった。四方は白い味気のない襖に囲まれている。電灯がないかと視線を彷徨わせた先、部屋の中央に、薄闇にほの白く浮かび上がる影があった。青黒い影を帯びて、その姿はほの白いのに酷く暗い。長い髪に縁どられた顔立ちはその影のせいで判然とはせず、ただ、妙に明るい唇がべたつくように微かに光って主張をしていた。

 せんせい、と、その唇が甘く形を取ることを彼は知っていた。

 耳を塞いだところでここは夢だ。声は耳を通らずとも、髪に、皮膚に、服の隙間から侵入し、脳髄へと届く。せんせい。白百合の匂いが脳髄にまで沁み込んで来る。目を逸らすことも許されず、瞬きさえ出来ないままに彼が見入る先、白い姿はすぅ、と人差し指を真っすぐに彼の方へ向けた。否。彼の背後へ向けた。背後は襖だ。だが欄間の向こう、闇が広がっていると確信できるその襖の向こう側に何かが居ると、その仕草で彼は理解が出来た。出来てしまった。

 べちゃり。

 粘着質な音が隣から響く。それは酷く重さを感じさせる音で、次いで、どすん、と襖が撓んだ。何か、が、隣からこちらへ、襖を叩き破って出てこようとしている。襖を開くという、そんな知能さえ持たない、何かが。

 だぁ。ああ。

 鳴き声か、泣き声かも判別のつかぬ声が塞いだ耳に入り込んで来る。

 あああああ。

 だあああああ。

 意味を成さないそれは、赤子の泣き声にも聞こえた。だが隣室に居る、それ、が、人間の赤子のような小さな存在ではないことだけは確かだ。どすん。また襖が撓む。女の唇が、ゆるく弧を描いた。

「先生」

 耳をつんざく泣き声、あるいは鳴き声の中、ぬるく湿ったその声ばかりが明瞭だ。

「あの子がかわいそうだわ」

 そう告げる声はしかし抑揚もなく平板で、いっそ何の感情も籠っていないようだった。淡々と、何かを読み上げているかのように聞こえる。

 は、と、浅い息を吐く。息苦しい肺へ無理に息を吸う。夢だ。これは夢だ。何度も繰り返したその言葉を、お守りのように繰り返す。夢だ。

 後ろの襖がぐっと撓む。噎せ返るほどの白百合の匂いに、鉄錆のような、口の中まで突き刺すような血の匂いが混ざり合う。知らず彼は襖を背中で、自分の重さで抑え込もうとしていた。向こう側に居るそれが、こちらに来ることを拒むように。

 そうしていると畳の上を足音もなく、女が滑るように歩み寄ってくる。伸ばされた両手が暗闇に白く浮かび上がる様は、どこか深海の生き物を思わせた。

 みしり、と、襖が軋む。歪む。撓んだ隙間から小さな、彼が背中で抑え込んでいる重さとはあまりに不釣り合いに小さな手が伸びて彼の指を掴んだ。べたりと湿った感触が掴まれた指を伝う。粘つくそれは赤黒く滴り、畳を汚していく。

 ほの白い女の、白百合のような腕が耳を塞ぐ彼の頬を両手で包んだ。眼前に迫る女の顔は、間近にあるのにその目も鼻も薄闇に溶け込み何一つ分からない。分かるのはぬめぬめと光る唇とその奥の、白い歯。ギザギザと尖る乱杭歯は人間のそれとは思われない。何かを食いちぎる為だけに存在しているように見える。

 襖の隙間から伸びてくる手が増えた。赤子の泣き声はもはや他の音が耳に入らない程だ。小さな、粘つく湿った手が次々に彼の服の裾を、指を、背中を、髪を、足を掴み、引き摺ろうとする。

 眼前で女が口を開いた。耳まで裂ける程に。びっしりと並んだ歯が彼の頬に触れ、耳に触れ、そして齧りつく。

 ぶちり。

 肉が食い千切られる音が、鼓膜に届いた。

 夢だ。




 教室に斜めに差し込む午後の日差しは午睡を誘う程に穏やかなものだ。いつであれ教室に満ちる陽光は乾ききっている。ただ場違いに香る白百合の匂いだけが湿った色をしていた。清々しい花の香りが不愉快に感じられるのは微かに混ざる腐臭のせいだろう。誰も水を取り替えていないのか。花瓶からは微かに古くなった水の、粘りつくような臭気が漂っている。

 生徒達は誰もそれが気にならないのだろうか。教室にはその日もさざめくような密やかな声と教科書の紙を繰る微かな音だけがあった。いつも通りに。何も変わらずに。指名された女子生徒がひとり、教科書を読み上げる声が淡々と響く。


「私は突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました。私はKの死顔が一目見たかったのです。」


 彼は教壇の上から、廊下側の列の最後方に居る女子生徒の方から窓際へと、引き寄せられるように視線を動かしていた。そうしようと思った訳ではない。ただそちらを見るのが自然なことのように思われたのだった。

 廊下の後ろから二番目の座席には、萎れ始めた白百合が手入れもされず、花瓶に押し込まれたままで置かれて、午後の日差しの中で項垂れている。


「しかし俯伏しになっている彼の顔を、こうして下から覗き込んだ時、私はすぐその手を放してしまいました。」


 その白百合の後ろに。

 抑揚のない声を背景にして、瞬間、影が差した。午後の乾いた日差しの中に、何かが真っすぐに落ちて行ったのだ。まずひらり、ひらりと、軽やかな影が過る。縫い止められたように彼は窓の外に向けた視線を引きはがすことが出来ない。

 

「慄としたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は」


 次いで、彼の視線の先、真っすぐに窓を過ったものは。

 それは見開いた彼の目を射るように、彼をじっと、見返していた。黒々と濡れた瞳が、長く艶やかな黒髪が午後の日差しの中を落下していく。ほんの一瞬のことであったのに、彼の網膜にはそのさかしまの姿が、焼き印でもされたかのように焼き付けられていた。

 ぬらりと、奇妙に光る赤い唇が。

 彼と目が合った瞬間に緩い弧を描いたことも、確かに。見えた。見えた、気がした。


「奥さんは蒼い顔をしました。」


 教科書を捲った音は聞こえなかったが、読み上げられる教科書の、その場面は進んでいく。足を止め、呆然と、瞼に焼き付いた姿を反芻する彼を他所に。


「『奥さん、Kは自殺しました』と私がまたいいました。」


 自殺しました。

 その単語は教室を一度さざめくように通り抜け、生徒達は申し合わせたかのようにざっと一斉に、机に置かれた白百合を、まるでこの時初めて気が付いたもののように見遣った。自殺しました。自殺。自殺だって。密やかだった声に突如として確かな輪郭が現れる。

「室園は……」「自殺だったって」「赤ちゃんが」「誰の」「室園と、誰の?」

 ざわりと一度大きく揺れた後、波が過ぎたように、また教室はしんと静まり返る。

 そして彼は。

 誘われるように窓へと近づいた。さっき、何かが真っ逆さまに落ちて行った窓の外、その眼下、地面に何かが叩きつけられている。

 黒髪を広げて、割れた頭蓋から血と脳漿をぶちまけた少女の姿──ではなかった。過去に彼が、もっと高い位置から見下ろしたその光景の、それは幻視に過ぎない。瞬きをしてそれを振り払い、見遣る先には、そう。

 割れた花瓶と、散らばった白百合の花束が落ちている。鼻先を、腐っていく重たく甘い白百合の匂いが掠めていく。

 せんせい。

 あの緩い弧を描く唇がそう象るのを、彼は知っている。


「──先生?」


 教科書を一節読み終えた女子生徒が怪訝そうに声をかけるのも、彼には聞こえていなかった。否。別の声が聞こえていた。せんせい。柔く甘く、白百合のように香る声が呼ぶ。呼んでいる。せんせい。

「先生、」

 鼓膜に残る甘やかな声の記憶を引き裂いたのは、不意に冷たさを増した女子生徒の声であった。幻聴と幻視から引き剥がされたように彼はゆっくり、顔をあげ振り返る。教科書を読み上げていた女子生徒へ視線を戻そうとして、


「……幽霊でも、見ましたか?」


 冷ややかな声が続ける言葉にぎくりと身を強張らせた。女子生徒を凝視するが、不思議とその容姿の輪郭は朧だ。乾いた陽光の満ちる明るい教室で、そんなことがあろうはずがないのに。だが。何度焦点を合わせようとしても、彼女の姿形が定まらない。

 その口元、ぬらりと、奇妙に光る唇が。

 嘲笑うように緩い弧を、描いた。


「室園さんの、幽霊でも見ましたか。」


 教室は、しん、と静まり返っている。

 それまで聞こえていたさざめきすら聞こえなくなった箱の中では、彼の浅い呼吸の音だけが、やたらに響く。

「せんせい」

 白百合の香る、甘い声音。最早聞こえるはずの無いその声が、彼を呼んでいる。

 これは。

 夢、なのか。

 見定めようと視線を彷徨わせる先、教科書を手に立つ女子生徒の足元でべちゃりと、粘つく液体の音がした。小さな赤黒い影がそこに蹲って、紅葉の葉を思わせる小さな手を彼に向けて伸ばしている。真っすぐに。彼に向けて。

 夢だ。これは夢だ。夢に違いない。

 ふらりと身体が揺れる。その拍子に一歩を下がると、堰を切ったように彼の身体は動き出していた。後退り、廊下に面した扉に触れる。そのまま後ろ手に戸を開き、飛び出した彼の背後からは、教室の中の囁き声と、それから赤子の泣き声とも聞こえる異形の声とが追いかけるように響いている。

 夢だ。きっとこれは夢だ。

 廊下の端まで転び出ると、彼は階段を夢中で駆け上がった。



**


 小テストを課した教室の扉をそっと閉めたところで、その教師は騒々しい足音に顔をあげた。今は授業の時間帯で、こうも騒々しく階段を駆け上がる人間は、生徒も教師も含めてもこの校内では珍しい。何事かと見遣る先、息も絶え絶えに、手すりに縋るようにして現れたのは、3年生のとあるクラスの担任をしている年嵩の教師であった。

 さしたる交流のある相手でもなかったが、青白いのを通り越して顔色は土気色になっているのを見れば看過は出来ない。加えて五月にしては春のような心地良い気候の日に、彼はシャツに染みが出来る程の汗をかいているようだった。

「田中先生、どうかされました?」

 慌てて彼女が駆け寄り尋ねると、その教師──田中はぼんやりと顔をあげた。焦点の定まらない瞳が彷徨う様は、矢張り尋常の様子ではない。口の端から泡を零しながら、彼は譫言のように呻いた。

「私は……これは、夢の、はず」

「しっかりなさってください。保健室に行きましょうか?」

 むしろ救急車を呼ぶべきであるかもしれない。

 そんな考えが脳裏を過る程度には、彼の様子は異常をきたしていた。発言も凡そ理性的とは言い難い。そういえば、と、彼女は眉を寄せた。彼のクラスで起きた痛ましい事件のことは、この校内に居る者にはまだ真新しい記憶として刻まれている。

「室園さんのことで、ご苦労が多いとは思うんですけど」

 ──彼が担任を勤めるクラスで、「自殺者」が出たのはほんの2か月ほど前のことだ。まだ忘れようはずもない。大変な騒ぎではあったが、遺族が騒がれることを望まなかったために騒ぎは学校の外部へ漏れることはなかった。とはいえ。

「あまり、気に病まないでくださいね」

 死んだ女生徒の自殺の要因は、今もって分かっていない。

 変死であったから警察の介入はあったものの、彼女が妊娠していたらしいことが知れてからは、口さがない噂に興じていた生徒達ですら腫れ物に触るような扱いになってしまった。元々素行の良い生徒ではなかったこともあり、校外の人間関係に起因するものではないのか、というのが教師の間での認識になりつつある。

 尤も校内に問題の根があって欲しくない、という都合の良い願望がその認識に影響していることは、誰もが気付いていながら、目を逸らしているのだが。

 それでも精一杯の気遣いから発した彼女の言葉に、彼はぎょろりと目を剥いた。充血した眼に睨まれ、ひ、と彼女が小さな悲鳴じみた声を飲み込んでしまう間に、今にも倒れそうによろめきながらも、彼は手すりに縋るようにして、階段を上っていく。

「田中先生? そっちは──」

 彼の向かう先、屋上は封鎖されているはずだった。室園小百合が飛び降りたその日から、正確にはその後警察が一通りの捜査をしてから、一度も鍵は開いていないはずだ。だが。

 扉は、開いた。

 吸い込まれるようによろめく背中が扉の向こうへ消えていくのを、どこか愕然と彼女は見ていることしかできなかった。何故か一瞬、鼻先を掠めて行った香りのせいであったかもしれない。水の腐るような粘ついた臭気と、それと同時に、今にも腐り落ちそうな重たく甘い百合の香り。

 そしてそれが、彼が目撃された最後の瞬間となった。





**




 酸素を求めて肺が悲鳴をあげていた。

 駆け上がった先、屋上にも午後の乾いた陽光が斜めに降り注いでいる。薄くのっぺりと広がる青空の下、フェンスに囲まれた屋上は彼の記憶にある通り無機質に広がっている。フェンスに囲まれた屋上には日差しを遮る場所もなく、剥き出しのコンクリートはただ白白と陽光を照り返していた。

 無理に階段を駆け上がった足が軋み、痛む。これは夢だろうか。夢ならば痛みは感じないものではないのか。腹を裂かれても、耳を食い千切られても、今まで夢の中で痛みを感じたことは無かったはずだ。だがその微かな疑念も、立ち上る白百合の重たい香りにかき消えた。

 腐臭にも似た微かに粘つく水の臭いが混ざった、重たく甘い白百合の香り。

 彼は引き寄せられるように顔をあげた。フェンスの前に、人影がある。先程までは確かに誰も居なかった屋上にぽつりと、黒い影が落ちている。長い黒髪。染み一つないブラウスに、折り目の乱れの無い膝丈のプリーツスカート。僅かに緩めたリボンタイがかえって彼女を無個性な女子生徒に見せていた。

 壊れたフェンスの前に立つその表情は、顔立ちすらも伺い知れない。

 当然だ。

 彼が最後に見た姿そのままの彼女は割れた頭蓋から脳漿を零して、眼球は片方が圧迫されて飛び出し、首は奇妙な方向へ捻じ曲がり、顔立ちなど判然とはしないほどに血に塗れて、それでも、その口角は微かに上がっていて、その奇妙にぬらりと光る唇は。

 笑っている。そして呼ぶのだ。

「せんせい」

 彼を呼んでいる。壊れたフェンスのすぐその前で。笑いながら。

「怖かったわ」

 ──硬直していた足が、我知らず動いた。ふらりと。彼女の手を取ろうとするように壊れたフェンスへと近寄っていく。

「痛かったわ」

 あの日、その場所のフェンスが壊れていたことを彼は知らなかった──否。知っていたはずだ。

「あら、知っていたのなら、酷いじゃない」

 柔らかな声が耳朶を打つ。

「──私を」

 気付けば彼はフェンスの前に居た。いつの間にか、そこに居たはずの壊れた人影と立ち位置が入れ替わっていることにただ呆然と立ち尽くす。やはりこれは、夢なのだろうか。

 背後に立ったその人影は、腐り行く白百合の匂いを漂わせるその壊れた影は、そっとその手を彼の背に沿えた。その手つきはあまりにも優しく、知らず彼は涙ぐんだ。重たい白百合の匂いで詰まる咽喉を振り絞り、彼は口を開き、言葉を紡ごうとする。

「……許、して……」

 擦れる声でようやく告げる言葉に、背後で女が、笑う。

 笑っている。あり得ぬ方向へ直角に曲がった首で、割れた頭蓋から血とそれ以外の何かを垂れ流して、笑っている。

「せんせい」

 彼女は告げて、

「お腹のこの子が、かわいそう」

 優しく細い手が、彼の背を、押した。


 ──あの日、彼が彼女に、そうしたように。


 夢だ。夢に違いない。落下する恐怖に身を竦めながらも彼は必死で自分に言い聞かせる。だってあまりにも、すぐにでも地面に叩きつけられると思ったのに、こんなにも落下が続く訳が、そんな訳が無い。これは夢だ。

 吐き気を覚えながらも真っ逆さまに落下する感覚の中では嘔吐することも叶わない。胃の縮むような感覚の中で彼の目線の先、さかしまになった光景の中で等間隔に並ぶ校舎の窓は白々と午後の日差しを反射して彼の目を焼く。それでも瞼を閉じることも出来ない彼の視界に、だからそれが映ったのもきっと夢なのだろう。

 彼が担任を勤めている教室の窓。

 生徒達が、みっしりと並んで、落ちていく彼を見ている。

 その全員が、ぬらりと奇妙に光る唇で、口角を上げて、微笑んで、彼を見ている。


「せんせい」


 一斉に、甘やかな声が落ちていく彼を呼ぶ声が響いた。






**



 ──ええ、そうです。体調が酷く悪そうだったので保健室にと提案したんですが、何故だか屋上の方へ……妙ですよね。あの日は間違いなく鍵が掛かっていたはずなのに。外の空気を吸いたかったのかもしれませんけど。それにしたって。

 はい。田中先生を見たのはそれっきりです。私はその後職員室へ戻ったので。

 田中先生、あれっきり行方不明、だなんて。

 早く無事に見つかって欲しいですよね。心配です。


 え?

 むろぞの……さゆりさん、ですか。そんな生徒、あのクラスに居ましたっけ?


 ああ、はい。勘違いですか。

 私も全校生徒を覚えている訳じゃありませんから、お探しの生徒がいるなら名簿を確認しますが……そうですか。分かりました。

 とにかく、早く先生が無事に見つかることを願っています。ご自身の意思で失踪されたのなら、少なくとも無事でしょうけれども……何かに悩んでいただとか、そんな話も聞いたことありませんし。

 はい。ええ、それでは。




**



 屋上に残った微かな白百合の重たい香りは不意に吹き付けた風に散らされて消え去る。

 ただ、壊れたフェンスが軋む音だけが、そこには残されていた。



**

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白百合の重さ 夜狐 @yacozen

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