第VI話 社交辞令とは善意という名の常識

 家の近くのバス停を通り過ぎ、普段は歩いている歩道を見つめる。少しだけ長く感じていた道もバスに乗れば一瞬で終わり、自分の住んでいるアパートに辿り着くのだ……そのアパートも一瞬で通り過ぎてしまったが。

 まぁそもそも事故る前は車で通勤していたので、実を言うと別に速度に対する感動なんてものは微塵も感じていない。寧ろ乗ってるだけで金を取られるので不満すら感じている。


「もしかしてさっき通り過ぎたアパート、たすくんが住んでるとこ?」


 窓際に座っている咲希先輩は、窓の外を眺める俺に対してそんな事を聞いてくる。こうやって咲希先輩は、意味も中身も無い会話を無意味に挟んでくるのだ。


「はい」

「そっかぁ。でもあそこって確か事故物件なんでしょ?」

「えっ、そうなんですか」

「その反応……もしかして知らなかったの?」

「はい。何も聞かされてないので」

「だったら引っ越した方が良いよ! 呪われるかもしれないし、新しいトコ見つかるまで私の家に居候しても良いからさ!」

「いや……結構です」

 

 俺は咲希先輩の言葉を断る。

 あのアパートが事故物件だという事は初耳だったが、確かに少し狭い(とは言っても一人暮らしであれば丁度いいくらい)間取りというだけで設備は問題なく充実していて家賃2万+光熱費は安いなとは思っていたが、まさかそういう訳だったとは。それにどうやら事故物件というのは、住居者が二人目以降は言われないらしいから、俺が知らなかったのは恐らくそういう事なのだろう。

 しかし別に住んでて怪奇現象なんて起きた事は無かったし、仮に呪われたとしても寧ろさっさと呪い殺してくれとしか思わない。


「えー嫌だよ、たすくんが呪い殺されたりとかしちゃうの! そしたら私も——」


 咲希先輩はその続きを言うのを踏みとどまったかのように止め、そのまま少しの間なんとも言えない沈黙が流れ出した。何を言おうとしたのかは大方予想がつくが……その時の咲希先輩の表情が、曇っているように見えるのが少し疑問に思った。


「……?」

「——いや、なんでもないっ。こういうのは口に出すものじゃないよね!」


 曇っていたのが嘘のように表情を明るくすると、咲希先輩は何気ない動作で停車ボタンを押して降りる準備を始め出した。


「……そうですね」


 いつも通りの咲希先輩に戻ったのを見て、俺は無意識に安堵の混ざったため息を吐きながらそう返した。



 バスから降りてある程度歩いた後、咲希先輩が言っていた例の“安くて美味しいラーメン店”に辿り着いた。店の外観は老舗のように古臭く……良く言えば昔懐かしい雰囲気で、周囲には豚骨の鼻をツンと刺すような少しキツい匂いが漂っていた。

 まぁ一つ言える事があるとすれば、俺と同世代の若者はまず入ろうとも思わないだろう。そんな店に、咲希先輩は躊躇なく暖簾のれんくぐって入店して行った。俺も追うように店に入っていった。


「いらっしゃいませ! おっ、咲希ちゃんじゃないか!」

「店主さんお久しぶりです!」

「いや本当久々だなぁ! ん、そっちのは……まさか彼氏かい?!」


 人当たりの良さそうな店主が俺を見てガハガハと笑いながらそう言う。


「いや、ただの後輩です」

「そうかそうか! まぁ好きな席に座って待っててな、いつものでいいか?」

「はい! あ、彼のも同じやつ!」

「はいよ!」

「じゃ、行こっか」


 咲希先輩は常連なのか、店主との会話の中で注文を済ませると俺の手を握って空いてる席を探して、見つけて座った。店内はお世辞にも繁盛しているとは言えない人数の客で、更に殆どの客が自分達よりも世代が上の人ばかりであった。


「あの……」

「大丈夫、私でも食べ切れる量だからたすくんも食べれるよきっと!」

「いやそうじゃなくて、俺達が食べるやつっていくらですか」

「いいよ、私が奢ってあげる!」

「そんな、申し訳ないですよ。それに幾ら上司とはいえ流石に女性に奢られるってのは」

「流石に高級な店だったら割り勘してくれないと困っちゃうけど、ここは二人分でもなお安いから奢ってあげられるんだよ。それにこれは私が奢りたいからそうしてるだけ……“女に奢られるのは恥ずかしい”とか“男が奢るべき”とかそんな考え、私の前では捨てちゃって」

「でも……」

「——人の好意を受け取るのも、社交辞令の一つだよ」

「そう、なんですか」

「うん」

 

 咲希先輩の瞳には“上司だから奢らなければならない”という使命感ではなく“奢ってあげたい”という純度100%の善意が窺え、どんな合理的な言葉をぶつけても絶対に折れないであろうと感じた俺は取り出しかけていた財布を再度ポケットに戻した。

 普段お金を使う事に渋る俺が、割り勘や奢り……他人の為に財布を取り出そうとして、相手の善意を払い除けてでもお金を使おうとするなんて。

 自分でも不思議だった。咲希先輩の事はぶっちゃけ好きどころか寧ろ嫌い寄りだというのに、自分の中に“お金を出すべき”という善意という名の常識があり……というのを建前に、本当は咲希先輩に単なる卑しい人間だと思われたくないという思いが胸の内にあった……のかもしれない。


「でも、そんなにお金を出したいなら無理強いはしないよ?」

「じゃあ値段は」

「——冗談。今日は絶対たすくんにお金を使わせないからね」


 咲希先輩は肘を立てて自分の顎を手で支えながら俺を見つめ、優しく微笑みながらそう告げた。

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