鏡の青年
紫藤 楚妖
第1話 不可解な女
明治の文明開化が起こって数十年、この国は大きく変貌を遂げた。西洋文化を取り入れ、巷では新しい建築様式による建物が増え、大っぴらに四つ足の動物が食され、服装も大いに変わった。このホールこそ、それらの変化の集大成といえるものだろう。西洋館でピアノやバイオリンが奏でられ、テーブルにはクラッカーやチーズ、ワインが載せられた皿が並んでいる。人々は男女ともに洋風に正装して談笑している。
「今日は灰崎子爵もお見えになるとおききしましたが」
「ええ、わたくしもその噂を聞きました。なんでも先代の喪に服しておられたそうで」
「灰崎忠弘子爵閣下のお着きでございます」
ホールの入り口から係りの者の声が上がる。
その声と共にホールから入ってきたのはまさに美青年と呼ばれるものに他ならなかった。黒髪で背は高く、やせぎすでダークブルーの三つ揃えを纏っていた。
青年がこのパーティーの主催者である初老の男性に笑顔で近づいていく。
「ご無沙汰しております。和藤伯爵閣下。この度はお招きいただきありがとうございます」
和藤と呼ばれた男性は鷹揚に答える。
「やぁやぁ灰崎君。久しぶりじゃないか。何でもお父上の喪に服していたとか。本当に惜しい人を亡くしたものだ」
「そういっていただけると父も草葉の陰で喜んでいるでしょう」
「私も君のお父上には大変世話になった。君もあまり力を落とすな。何か困ったことがあったら言ってくれ。力を貸そう」
「何から何まで、お気遣いいただきありがとうございます」
「なに、気にすることはないさ。今日は精進落としだと思って楽しんでいきたまえ」
そう言い残し和藤は別のテーブルにて談笑しているグループに向かっていく。
青年は和藤が人で見えなくなるまで笑顔で頭を下げて見送った。
和藤への挨拶を済ませたあと、青年はパーティーの参加者に取り囲まれた。
なにせ、彼は純日本人であるにもかかわらず背は周りよりも頭一つ高く、外国人ほどではないがほりは深く、美貌は際立っていた。彼の先祖には外国の血が流れているのではないか、という根も葉もない噂まである始末である。おまけに聞き上手で話し上手、さらに独り身であった。
「ほぅ、イタリアから曲馬団が来たのですか」
「ええ、そうなんですの。馬のほかにも珍しい動物がいたんですよ。灰崎さんもお誘いしたかったのですが…」
「あぁ、しまった。私が見てないと知ったら、新し物好きの松平伯爵から得意げにうんちくを聞かされてしまうな」
松平伯爵、という名が出ると、皆が押し黙ってしまった。
「そうか、灰崎子爵はご存じなかったんですね」
「実は…」
そこで一呼吸置く。
「松平伯爵は亡くなられたのです」
いざ言ってしまうと勢いがついたのか、
「噂になっていたあの女に殺されたらしいんです」
「ちょうど犯行現場を女中が見たらしい」
「階段から突き落とされた」
「でもあの女は否定してる」
「ちょっ、ちょっと待ってください。話を整理させてください」
みんなの話をまとめるとこうだった。
被害者は松平公隆伯爵。
加害者とされているのは後妻の松平佳代。
目撃者は屋敷に仕えている女中の林美緒。
被害者は屋敷の階段から加害者に突き落とされた。
その瞬間を女中が目撃している。佳代は犯行を否定している。動機は不明。
といったところか。
「松平佳代さんが何を思い、そんなことをしたのか、とても気になりますね」
数日後、青年は警察署の前に立っていた。先日聞いた事件を調べるためである。
青年は貴族の一人である。ただし、いくら貴族といえども無関係の人間が容疑者に会えるはずもない。なので青年は伯爵であり、多方面に顔の効く和藤に頼み込み、警察からある程度独自に調査をする権利をもらった。
青年はまず容疑者である林美緒に話を聞くことにした。
「始めまして私は灰崎忠弘子爵と申します。事情有ってこの事件を調べております」
彼女は色白で細身なまだ若い女性であった。とても還暦まじかの松平の妻とは思えない。まさに薄幸の美女といったふうである。しかしその美貌も厳しい取り調べのせいでかくすんで見えた
「はぁ、わたくしは松平公隆伯爵の妻の佳代といいます。あの、どのような御事情があって私の話をお聞きになりたいのですか?」
「わたくし松平閣下には生前大変お世話になっておりまして。昨今の警察ではこの事件の真相を見抜けないのでは、と危惧いたしまして」
青年の言葉に見張りの警官が声の主を睨んだ。
そんな視線を青年はどこ吹く風と受け流して話しを続けた。
「早速本題に入りましょう。あなたは松平伯爵を階段から突き落とした、とのことですが、殺意はあったのですか」
「えぇ。もちろんですとも」
「おや、これは驚きました。巷ではあなたは犯行を否定しているともっぱらの噂なんですよ。ちなみに動機はなんだったのですか」
「噂なんてあてにならないものですよ。それに動機なんて、お金に決まっていますよ。それがなかった誰があんな人に嫁ぐものですか」
「なるほど、そういうことですか。わたくしもそのあたりの事情は朧気ながらお聞きしています。先妻を亡くされた松平閣下は多額の支度金をエサに、当時会社の経営が傾いていたあなたのお父様に娘をよこせとおっしゃった」
「左様でございます。何もかもお間違いございません」
「最後に一つ質問が。突き落とした瞬間をどなたかに見られましたか」
「女中の美緒さんが見ていました」
「ありがとうございました。本日はこれにて失礼させていただきます」
警察署を辞したあと、青年は松平伯爵の屋敷へと向かった。
洋館の前の、これまた洋風の門の前で声をかけるとすぐに女中らしき人が出てきた。目鼻立ちのくっきりした、なかなかの美人だ。いささか化粧が濃いのがひっかかるが。
「申し訳ございません、旦那様は先日…」
「いえ、わたくしは松平伯爵にお会いしたいのではありません。こちらにいらっしゃる林美緒さんからお話を伺いたいのですが。警察署のほうから何か聞いておりませんか」
「林美緒は私でございます。その件でしたら警官の方からお話は伺っていますので、どうぞお入りください」
館内に入って驚く。玄関の正面には本場の洋館にあっても見劣りしない立派な階段があった。
「これは見事なものですね。松平伯爵のような方の館にふさわしい」
「旦那様は普請道楽の方でしたので。どうぞ応接室はこちらでございます」
「単刀直入にお聞きしますが、松平伯爵が佳代さんに階段から突き落とされた瞬間を目撃したとか」
「はい、確かに私が目撃しました」
「なるほど、佳代さんも同じことをおっしゃっていました。動機については何かご存じですか」
「いえ、特には」
「ふむ、佳代さんはお金目当てだった、と言っているのですが」
「それはないと思います」
「おや、それはなぜですか。こんな立派な館に住んでいるというのに」
「この館に住んでいるから、ですよ。先ほども言ったように旦那様は普請道楽で、おまけにお金のかかる洋風建築を好んでいたものですから」
「たしかに、これだけのものを建てようとしたらかなりの額が必要でしょうな」
林は感情を表に出して続ける。
「それだけじゃありませんのよ。根が見栄っ張りなものですから何か新しいものが流行れば必ず金に糸目をつけず買い集めて」
「それは大変ですね。しかし、主人の金遣いが荒くても女中のあなたは特に困らないのでは」
「困らないものですか。お手当だって減らされますし、あれだって」
「あれ?あれとはなんです」
「それは、ええと…」
林は言い過ぎた、とばかりに顔をしかめている。
「あー、もしかしてお手当、というものには、あの、ああいう意味も含まれていますか」
「まぁ、そういうことです」
「これは失礼いたしました。込み入ったことを聞いてしまって。失礼ついでにもう一つ。松平伯爵にはそういった関係の方がほかにもいらしたんでしょうか」
林は開き直ったようにいう。
「ええ、ええ。他にもたくさんいましたよ。料亭の女将に、遊郭に、庶民の奥さんや娘さん。片方の手じゃ足りませんよ」
「おやおや、それはまた」
青年は苦笑いで答える。
その後、他愛もない話で林の起源を直してから青年は館を辞した。
次の日、再び警察署にて灰崎は松平佳代と面会していた。
「こんにちは。本日は顔色もいいようですね」
「あなたが面会にいらっしゃるとのことで今日は取り調べがなかったんです。あれはなかなか女には辛くて。一度体験してみますか?」
「はは、ぜびご遠慮願いたいですな」
取調室に似つかわしくない笑い声があがる
「さてさて、場も温まったところで。昨日あなたは松平伯爵を殺した動機は金目当てだった、とおっしゃいましたね。しかしですね、きのう松平伯爵の館に仕えている林さんに話を聞いたら、松平伯爵の浪費癖のせいで資産はほとんどないそうじゃないですか。それを妻のあなたが知らないはずがない」
青年の言葉に松平佳代は不思議そうに答える。
「あの、子爵さん。わたし、そんなこと言いましたか」
「おや、昨日この場でおっしゃいましたよ」
「子爵さんたら、記憶違いをしてらっしゃるわ。わたしが夫を殺したのは嫉妬からですよ」
「ほう、嫉妬ですか」
「はい。子爵さんは林さんから色々聞いたんですよね。では夫の女性関係のだらしなさもご存じでは」
「人数を数えるのに片手では足らないとか」
「そうなんですよ、うふふ」
「しかしなぜ女性のほうを殺さず松平伯爵のほうを殺したんですか。わたしくしなら、夫を惑わせる女狐が、と考えるのですが」
「あら子爵さんたら。そんなの簡単でしょう。何人いるかわからない女より一人しかいない夫を殺した方が早いじゃない」
松平佳代は笑顔でそう言った。
あれからすぐに青年は自宅に帰った。なんとも説明のつかない、奇妙な気分であった。なぜ松平佳代は最初にウソを言ったのか、最後のあの笑顔は何だったのか、
そもそもなんで人目のあるところで犯行に及んだのか。
なんとも不可解である。
青年がああでもない、こうでもないと思索を巡らしているときである。
屋敷の玄関があわただしく開いた。
「灰崎くん。いるかね、灰崎君」
「和藤伯爵、どうしたのですか、そんなに慌てて」
「ついさっきなのだが、松平佳代が自殺したんだ」
「なんですって」
「なんでも舌を嚙みちぎったせいで舌がのどに詰まって呼吸困難で死んだそうだ。おまけにだ、奴が夫を殺した動機を大声で叫んでから死んだ」
「彼女はいったい何と」
「解放、といったんだ」
「解放?」
「夫は罪にまみれている。女、金、物欲、地位を鼻にかけて驕り高ぶっている。それらの罪から解放するために殺したそうだ」
「これは、なんといえばいいのか」
「ああ、なんとも煮え切らん、気持ちの悪い終わり方だ」
「世の女性というのは、皆このような、松平佳代のような考え方をするものなのでしょうか」
「なにをいうか。少なくとも儂の妻は大丈夫だ。うん、大丈夫だよな…」
和藤伯爵は自分に言い聞かせるようにつぶやいている。
「和藤伯爵、頂き物の洋酒があります。それで気分を変えたいのですが付き合っていただけますか」
「おお、ご相伴にあずかろう」
「ではあちらでお待ちください。つまみにハハムなどを持ってきます」
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