第8話
◆
フェンリルⅢ型の整備は夜の間はあまりにも明かりが乏しいために休みとしたが、俺は俺で出来る作業はしておくことに決めた。
ルザは先に眠らせ、俺は自前の端末を人工筋肉パッケージに接続して、記録情報を整理していた。
「お願いがあるんだけど」
声がする前に気配には気づいていた。周囲は森の中で、都市部のような賑やかさはない。静かすぎるのだ。足音だけでも大きく聞こえる。
声の主、ディアナは俺のそばまで来るとしなやかな動作で横に腰掛け、器を差し出してくる。どうも、と受け取るが器は冷えている。冷蔵庫があるような場所じゃない。どうやって冷やしたのか、と思ったが、そう、例えばスタンドアッパーの冷却装置を流用すれば水を冷やすくらいのことはできるのだ。
「どんなお願いだ?」
器の中の水に口をつけてから、手元では作業を続ける。ディアナはこちらを見ていないと気配でわかっていた。俺が端末に目をやりながら彼女に集中しているように、彼女もそっぽを向いたまま俺だけを意識していると気付いた。
ひそやかな声が、俺を驚かすのはしかし、予想外だった。
「フェンリルの戦闘経験をゼロにしてほしい」
さすがに俺は彼女の方を見ていた。彼女がどこを見ているかと思えば頭上を見上げていた。何が見えるのかと俺も上を見たが、もちろん、夜空しか見えない。薄く雲が掛かって星の輝きすらも見えなかった。
しかし、戦闘経験をゼロに、だって?
「ゼロっていうのは、まっさらってことか?」
「そう。白紙にしてほしい」
「あの機体は新品じゃないぞ」
当たり前のことを俺は指摘していた。
「これまでの不具合や微調整の経験を忘れさせたら、どこでどう不具合が出るか、予測ができない。それにひどく乗りづらいはずだ。すでに本来的な仕様を逸脱しすぎている」
昼間の間、フェンリルの全体をおおよそ点検したが、補修されている部分がいくつもあった。電子部品が交換されているくらいならまだなんとかなるが、左上腕の骨格に歪みを矯正した痕跡があり、これは容易ではない。やはり大型の機材がないので、俺には骨格の歪みがどの程度か、蓄積している疲労がどの程度か。正確に知る術がない。
人工筋肉も全身で消耗が調整されているようではなく、比較的新しい部分もあれば、かなり古いものが残っている部分もある。人工筋肉はバランサーの信号に従って、全身で細かな動きを同期させるため、本来なら、全身の人工筋肉を同時期に交換する。軍だったらそれをやる。交換時期が同一なら、学習記憶も部分的に継承できるし、調整の手間も省け、補正の時間も短くて済むのだ。
そういうあれやこれやで、俺たちが鹵獲して整備しているフェンリルⅢ型は、新品からは程遠く、武装勢力の貧弱なパーツで、粗雑な整備士の手が入れられていることで、カタログ上とは全くかけ離れた状態にある。
そこで戦闘経験をゼロにするのは、現実的ではない。俺の隣にいる操縦士は、改めて学習させるつもりなのだろうが、無茶だ。赤子が歩き方を覚えるのが本来的な学習だとすれば、消耗が激しいフェンリルⅢ型を戦闘経験ゼロから再学習させることは、老人から体の動かし方を忘れさせ、その上でまた歩けるように教えようというようなものだ。
俺の言葉もどこ吹く風で、金髪の女操縦士は「すぐに済むから」と答えた。
すぐに済む、だって?
「下手に動かせば、機体が破損する」
「そんな下手は打たない」
「信用する理由がない」
そう言ってから、まだこの女の事情を何も知らないのに気づいた。
「あんたの経歴が是非知りたいね。スタンドアッパーの扱いには慣れているようだが、どういう素性だ?」
年齢は俺とほぼ同じだろう、というのはやめておいた。別に女性に年齢を聞くのが失礼なのではなく、俺自身もだが、流れで仕事をしているものは自分の力量を年齢を理由に低く見られることが多い。経験不足だろう、と年齢だけで判断されるのは腹は立っても嬉しいことはない。
器を口に運んでから、何が知りたいの? と彼女がこちらを見た。
「何年、スタンドアッパーに乗っている?」
「さあ。小学生の時には乗っていたから、二十年くらいじゃないの」
「小学生? 農作業用のスタンドアッパーか何かか?」
「いいえ、競技用スタンドアッパー。種目は近接格闘」
なるほど、と少し腑に落ちた。
武装組織のフェンリルⅢ型を、絶対的に旧型の、しかも不完全なロックドッグで手玉に取れるわけだ。武装勢力の操縦士は実物のスタンドアッパーを乗りこなし、実際的な戦闘操縦に習熟していただろうが、それでも経歴は長くて数年だろう。この金髪の女はその何倍もスタンドアッパーに乗っているのだから、機体の性能差を強引に捩じ伏せるテクニックを知悉していてもおかしくない。
「それで、なんで戦場にいる? プロの操縦士でも通用しそうだが?」
「話せば長いけど、一度踏み込んだら、二度と抜け出せなくなった」
そっけない、そして抽象的な表現だった。
しかし俺には、言葉の奥にあるものがわからなくはなかった。
俺も戦場にいると、彼女と似た表現で自分の境遇を口にするものと出会うことがある。国家の命令で戦場に来たが、戦友の死を見た時、あるいは自分が敵を射殺した時、もう引き返せないと確信した、という趣旨のことだ。
俺自身、自分が整備したスタンドアッパーが敵の歩兵を蹴散らした時、足が地面に飲み込まれていく錯覚を感じることがある。
戦場に存在する、死の責任を無視できるものもいる。だが、無視できないものもいる。
ディアナも俺も、その点では同じなのだろう。
「どこかの軍隊に入った?」
「最初はね。傭兵が私に目をつけて、除隊の理由をでっち上げた。あとはずっと、傭兵をやっている。もう仲間もいないけど」
「ここへ一人で来るとは、酔狂な奴だな」
「それはあなたもでしょう、イカロス。あなたこそ、なんでここにいるわけ? 整備士としての能力を発揮できる機会が、こんな森の中にあるとどうして思えたの?」
報酬に釣られてね、とふざけて答えると、その時、かすかにディアナの顔が曇ったように見えた。
「どうした?」
「別に。ここに来る前はどこで仕事をしていた?」
「スエア共和国で、民間人として試作品のスタンドアッパーの微調整をしていた」
それから二人でしばらく、スエア共和国で五つの企業が参加して製造している試作機の話をした。もちろん、全てを話すことはできない。守秘義務は絶対に守らなければいけない。
新型のバランサーがある、と俺が言えば、ディアナはバランサーを育てる方法について話し始めた。その話を聞くうちに、フェンリルⅢ型の戦闘経験をゼロにしてもいいと俺は考えを変え始めていた。
たった今、彼女が話しているのは、中枢コンピュータの人工知能にバランサーの限界をいかにして効率的に理解させるか、という手法だった。
それも理論でも、理屈ですらなく、実際にスタンドアッパーを動かしながら覚えさせるのだ。
彼女の話が一段落したところで、俺は「まあ、やってやってもいい」と言っていた。
ディアナはすぐに理解できなかったようだが、頷くと「最低限を残して、消しておいて」と言葉にしてから少し微笑んだ。
実に魅力的な微笑みだこと。
彼女は器の中身を飲み干して立ち上がった。俺も器の中身を腹に収め、空の器を彼女に渡した。
「ところであんたは、これまでどこで戦ってきた?」
去ろうとする背中に声をかけると、彼女は影の中で答えた。
「リンベルグ渓谷とか、ジュリーンとイッツァの国境地帯とか、かな」
俺はまじまじと影の中を見たが、彼女の姿は完全に影に飲まれ、もう見えなかった。
おやすみなさい、と答えだけが耳に届き、彼女は本当に闇に溶けるように気配を消した。
信じられなかった。
リンベルグ渓谷は三年前、少数民族を政府軍が虐殺した場所だ。そしてジュリーンとイッツァというのは砂漠の国家で、先進国も参加した激戦が一年前に展開された。
どちらも伝説的な戦闘が行われた地で、俺が仕事の中で聞いた話では、どちらにも登場する傭兵組織がある。
リンベルグ渓谷では、少数民族を国連軍に保護させるために働いた。
砂漠の国では、別働隊としてはるかに戦場を迂回し、ジュリーン軍の本陣に背後から少数での奇襲攻撃を仕掛け、それがその後の戦況を決定した。
つまり、ディアナはその傭兵組織の一員か?
それならあれだけの操縦技術も頷ける。
わからないのは、なぜひとりきりで、こんなところにいるかだが、俺に教える気はないだろう。彼女も俺のように報酬につられたのだろうか。それなら、大金で雇われたという点もまた不思議な共通点となる。
何者かが意図的に、俺とディアナをアムン解放軍に参加させているのか。
その理由とはなんだ。
考えても答えは出ない。それに答えが出ても、生き延びられるかは不明だ。
フェンリルⅢ型をまともに動けるようにすること。
それが生存への近道に見えた。
もちろん、この夜の闇の中を逃げてしまうのも一つの手だ。
逃げない理由の一つとして、ディアナが何をするか、見届けたいという思いがあった。
彼女のスタンドアッパーが躍動するのを、また見たい。
馬鹿げているな、と自分でも思った。
しかしそもそも、ここに来たこと自体が、馬鹿げているのだ。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます