皇帝の従妹

朝吹

■一.


 女を殺すためだけに雇われた。ただの女ではない。

 女を殺すにあたってまずは女の懐に入れと云われた。

 忠義を尽くして信用を勝ち得、いつも傍らにいてその女を護り、いざとなればお前が女の身代わりに死ねと云われた。

「俺が死んだら誰が女を殺すのだ」と訊くと、「お前の知ったことではない」と返答された。

 代償は奴隷からの解放と支度金と前払いの一時金だった。

 暗い地下の営舎から一歩出ると、大地を底まで染めてくるような秋の青い空が広がっていた。

 その剣闘士は円形闘技場での殺し合いから、女ひとりを殺すために外の世界に出されてきた。



 後継者を明言しないまま皇帝が急逝した。

 二人の皇妃がそれぞれの男子を後継者として推し、男子を持たないもう一人の皇妃は幼い皇女の夫に皇家の血筋をもってくることで統治権を唱えた。

それぞれの背後に有力な家がついた。どの後継者も正当性があり少しずつ不足だった。

 第一皇妃の皇子が数年前に二十代で皇帝の座についたが、この皇帝が虚弱体質で

まだ若いのに歩く骸骨と呼ばれる有様ときては世継ぎもどうなるか分からない。

 外圧を抑えていた皇帝の母である第一皇妃が死ぬと、さらに事態は混迷化してきた。第二皇妃と第三皇妃には外国の血が混じっていたため、それぞれの国が帝国の後継者問題に干渉してきたのだ。

 骸骨のような皇帝は猜疑心に眼を光らせながら皇位にしがみつき、周辺諸国は皇帝の若さを侮って帝国に戦争を仕掛けてばかりいた。

 剣闘士にはなんの興味もなかった。奴隷から解放されたことが嬉しかった。

 やってみたかったことを全てやるつもりだったが意外となかった。彼がまずやったことはもらった金で馬を買い、街中から門を通って街道に出て、郊外の無人の野に向かうことだった。

 他のことは全てどうでもよかった。広々とした野で思い切り馬を駈けさせた。空と地の境を目指し流れる雲を追いかけた。森に沿って走り、小川を跳び越え、崖を降り丘を駈けのぼった。狭い闘技場では味わえなかった疾走感に奴隷となっていた年月の澱が零れ落ちて吹き飛んで行った。

 朝から晩まで蒼穹の下を駈けた。何度も天空を仰いでその広さを確かめた。朱い硝子を溶かしたような夕暮れになると樹の根元に横になり、夜露を帯びて紫色に染まっている草木の香りをすいこんだ。

 暗い地下牢の中に詰め込まれていた何百人もの剣闘士。白い砂の上に血肉を落として武器をふるうばかりの汗と泥の日々だった。そこでの命は見世物だった。いずれは噴き出す血を太陽に焦がされるようにして闘技場で斃れるのだとばかり想ってきた。

 月が輝く夜空に身を投げ出して剣闘士は泣いた。笑い泣きのようになった。寝ころんだ視界の端から端までが吸い込まれそうな星空だった。

 今さらながらに自由の歓喜が剣闘士の胸にせり上がってきた。吹きすぎる夜風にも胸がとどろいた。

 女ひとり殺すことくらいわけもない。解き放たれたのだ。



「遅れた」

 一言断り、その女は軍議の場にやって来た。

 剣闘士はここで見ていろと云われたとおりに隅の壁際から女を見ていた。遠征地の砦だった。綴れ織りが壁一面に掛け回された天井の高い広間に長机を囲んで椅子が並べられていた。

 集っている将たちが高貴な女人への礼儀として席を立ったことでその女がそうなのだとようやく気付いた。女は小姓のような恰好をしており、目立たず地味で、少年のようだった。

「刻限に遅れるなど、らしくない」手前にいた将が隣りの将に囁いていた。

 草か木切れみたいな女だった。痩せっぽちで身の丈は剣闘士としてはさほど大柄 でもない彼の胸くらい。連戦の疲れのためなのか貧血なのか顔色が悪く、かなり若いのだろうが、若さの恵みとは無縁の暗い顔をしていた。

 唇は薄く、鼻は小さく、賢そうな灰色の眸以外には女らしい魅力もない。

 女は薄い色をした髪を片方にまとめて紐で結わえていたが、なぜかそこに今は枯れ葉の破片がくっついていた。

 剣闘士は女の名を教えられて知っていた。その名をあらためて女の上に重ねてみた。深い落胆と失望を隠せなかった。あんな細っこい女ならば片手で持ち上げてあの細首をいつでも握りつぶせる。

「姫さまはお疲れであろうから、先陣はわれらがいたそう」

 老将が女を労わって云った。

 席を温める間もなく女は立ち上って卓上の地図を見ていた。山河を描いた絵の上に敵と味方を示す色分けした駒が散らばっている。

 女は一堂が気まずくなるほど長い間その地図を凝視していた。剣闘士も不審に想うほどの間だった。やがて女は云った。

「先陣はお任せあれ」

 誰かが何かを云う前に女は続けて云った。

「気遣いは無用だ。疲れてはいない」

 生意気な感じではなかった。いつもこんな調子なのだろうと想わせた。

「疲れてはいない。我とわが近衛隊の士気は高い」

 われ。男の中で気負っているのだろうか。女の一人称に剣闘士は苦笑したが、顔を歪めているのは彼だけで誰も笑ってはいなかった。

「姫さま。お髪に枯れ葉がついています」

 剣闘士は追いかけてそう云った。姫さまは立ち止まり、男を見上げた。剣闘士から見ればたいていの女が小さかったが女がひどく痩せているせいか特に小さい印象をもった。

 昔から貴族や金持ちの女に買われることが多かったので剣闘士は女の扱いに慣れていた。物腰を柔らかくして下手にまわり優しくするだけで女が気を許して彼を贔屓にしてくれるならそうすればいいだけだった。

「誰か」

「本日付けで姫さまの護衛になりました」

「皇帝陛下が寄こしてきた男とはそなたか」

「そのようです」

「名をきこう」

「俺に名はありません。子供の頃に奴隷になりその時々の主人が勝手に好きな名をつけておりました」

「勝手につけるがよい」

 困った。そこに神々の像があった。彼は大理石の像を見上げた。剣闘士はその像の名を云ってみた。火の神ファイストス。

「ではそう呼ぼう」

 姫さまはさっさと歩きだした。慌てて剣闘士はついていった。途中の回廊に血痕が落ちていた。もう少し進むと男が朱に染まって庭に倒れていた。倒れている男の周囲には闘いのうちにかき乱されたと思しき枯れ葉が散っていた。

「その名は大仰すぎる」

 翌日にはもう姫さまから云われた。

「そなたのことはタキトゥスと呼ぼう。我の数学教師の名だ。今はもう死んでいるから重なることもない」

「構いません」

「では、タキトゥス」

「は」

「出陣といこう」

 姫さまは片手で兜の面を下した。


 

》続く

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