縫取蝶

くそわろたわし

人形

 昔、ある街角の片隅に、それはそれは美しい一つの人形がありました。美麗な刺繍を誂えられたその人形は、しかしなぜか誰の目にも止まることなく――

 今もずっと、そこにあり続けているといいます。


 今日は、そんなお話をしようと思うのです――


 これは遠い遠い昔の物語。どこかの町のとある片隅に、それはそれは美しい人形がありました。しかしどういうわけでしょう、たいそう美しい人形であるにも関わらず、いつからそこにあったのか知る人の一人もいないのです。

 薄く端正な唇は僅かな微笑みを湛え、面持ちは眠るように穏やかでありました。幾分古びているのでしょう、少しばかりの土埃を被ってこそありますが、その体に何より美しく誂えられた赤い蝶の縫取が、そうした穢れの凡てを拭い補ってその人形を静かに彩っておりました。

 美しさに惑う人目もなく、誰が何の意を以てそこに添えたのか、それすらも語るものはおりません。しかしある日、ある夕刻のこと。その美しい人形の傍らに、揃い盛りに咲き乱れる――

 ひと房の、花束が添えられておりました。

 この地から人が絶えて、随分と長い時間を経たのです。花など咲く場があるはずもなく、それを集める人の手などいつぞやに失せたかすらわかりません。ただ花の束は確かにそこに、美しい人形の傍らに添えられていたのです。

 染み行く雫はとうに絶え、やがては乾くのみとなった花でありました。それを携える人形の頬に一筋の雫が下りてゆく様を、

 見たものは、誰もおりませんでした。


 これは、ずっとずっと遠い昔の物語。ある町のある片隅に、一人の少女がおりました。少女は町の男と愛し合い、やがてその身に一つの命を授かったのでありました。

 その新たな命は、大いなる愛と共にこの世へ迎えられるはずでした。しかしなんとも悲しきことに、父親となるべき町男の愛がそこへ向けられることはなかったのでございます。そしてさらにはあろうことか、少女を愛したはずの町男は彼女を捨て去らんとさえ目論むようになったのです。

 少女は深く悲しみました。男を恨み、挙句は己に宿った新たな命にすらも悔恨と憎悪の矛は向いたのです。そして少女の手に携えられた剣の刃は、この世に嘆いた少女とそして新たな命のいずれをも――

 貫くには、あまりに鋭すぎたのでありました。


 蝶のように赤い、赤い花弁が舞いました。それは踊るように宙を這い、横たわる少女の体へと大蛇の如き絵姿を描いたのでありました。ところが世の因果とはなんと残酷でございましょう。少女は奇を以て一命を得たというのです。

 しかし体の子は既に亡く。

 替わりに残ったのは、酷く醜い創の痕。

 失った愛と命、そして残された創痕。一度少女を貫いた刃は、その身を再び貫くには随分と重いのです。

 そして、少女は。


 己に、一条の針を通しました。

 紡がれた純白の縫糸は彼女自身で朱に染まり、

 やがて一つの線描を、彩り形作るのです。


 それは、美しい蝶でした。


 それから幾分あとのことでございます。少女が己を貫いたと、件の町男は聞いたのです。男は失われたものの大きさに恐れ、ただ少女に許しを乞うばかりでありました。するとなんということでしょう、少女は男を許したのです。少女が持つ計り知れぬ慈愛の心に、男は嘆き喜ぶことすら忘れただ自失の内にありました。少女はそんな男の手を取ると、彼にただ一つの、そして永劫守られるべき願いを、静かに、静かに告げました。


 私を――


 愛して。



 わたくしが知るのはここまででございます。この少女がその後いったいどうしたものか、まったく見当も付きません。人波もとうに絶えたであろうあの町のどこかで、静かに眠ることを願うとしましょう。――おや、そこに手を触れてはなりません。



 ――私が随分と前から、大切に育てた花なのです。

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縫取蝶 くそわろたわし @kusowarotawashi

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