紅月朱音・トゥルーエンド
「――――起きて、朝だよ」
聞き慣れた声が耳元で聞こえ、俺の意識はゆっくりと浮上していく。
寝ぼけ眼で声が聞こえてきた方を見てみると、そこにはスーツ姿……ではなく、ラフな格好にエプロンを着けた奥様感が凄まじい紅月さんがいた。
「紅月さん、おはようございます……」
「……寝惚けてるの?」
「え……?」
「私、紅月ではなく地道になったと思うのですが?」
「え……あ、そ、そうだったね」
「……いいです別に。紅月の方が宜しければそう致します」
「ご、ごめんって……ちょっと寝惚けてて」
「ぷんっ」
「朱音さん、機嫌直してよ」
「……じゃあおはようのキスして」
「はいはい……」
誰だこのデレ女!? なんて思った奴もいるだろう。
それほどまでに少し前と別人のように変わった朱音さんは、俺と結婚して地道朱音となっていた。
結婚して、そろそろ一年になるか。
「んっ……おはよ、行人さん」
「おはよう、朱音さん」
「私は着替えてくるから、顔を洗ってきて」
「分かったよ」
朱音さんが出ていった扉をボケーっと眺める。あの美人が俺の奥様だと思うと、頬が緩むのを抑えられない。
家でも職場でもほんど一緒。辛い時も悲しい時も、もちろん楽しい時だっていつも傍には朱音さんがいた。
でも傍にいるのが当たり前で、俺は長いこと気付けないでいた。
朱音さんは、ずっと待ってくれていたんだ。
「――――おはようございます」
「おはよう。もう仕事モードなんだね」
「公私は弁えないといけませんので」
「そっかぁ……」
スーツ姿となった朱音さんは、先程までのデレデレ雰囲気がなくなりピシッとしていた。
まだまだこっちの朱音さんの方が馴染みがあるのだが、まだ家を出るまで時間があるじゃないか。
「……朱音、愛してるよ」
「うっ……そ、それはズルいです」
「朱音は? 何も言ってくれないの?」
「も、もちろん……愛してます」
「固いなぁ」
「……愛してるよ、行人」
真っ赤になっちゃって、可愛いんだから。
今でこそこんな姿を見せてくれる朱音さんだが、俺が学生時代の時は全くこういう顔は見せなかった。
それこそ、保護者みたいな感じだったよな。
いつから変わったのか……やっぱり、あの時なんだろうな――――
――――
――
―
―
――
――――
高校生活は、特別なにがある訳ではなかった。
なにがとは何の事を差して言っているのかは分からないが、俺の人生において劇的な変化をもたらす何かが起こった事はない。
劇的な変化とは何か。高校生にとっての劇的な変化、それはやはり彼氏彼女が出来る事だろうか?
友達はいるが彼女はいない。残り一年となった高校生活だが、彼女が出来る事はないだろう。
別に欲しいとも思わなかったし、他にやる事もあった、友達と遊んでいれば満足だった。
「じゃ~みんな、帰ろうぜ」
クラスメイトのあの男はようモテるようで。何がいいのか俺には分からないが、きっと色々とあったのだろう。
そんなクラスメイトは数人の可愛い女の子と教室を出ていった。でも何でだろうな、別に羨ましくない。
「行人~、帰り遊んでいかねぇ?」
友人の陸達が俺の机に寄ってきて、遊びに誘ってくれた。こいつ達との付き合いも長い、全員彼女がいない可哀想な奴らだが。
いつもなら誘いに乗る所だけど、今日は予定があった。
「悪い、今日はちょっと予定があるんだ」
「そっか、ならまた明日な~」
「待てって、校門までは一緒だ」
「お~、じゃ行こうぜ」
約束の時間が近づいてきた俺も、陸達と一緒に教室を出た。
校門までの間、俺達は下らない話をする。あのゲームが面白いだの隣のクラスの子が可愛いだの、どこにでもある話だ。
「てか行人、用事ってどこか行くのか?」
「まぁ、そんな感じ。校門近くに迎えが来てると思うんだ」
「そういや行人の親って会った事ないな! 挨拶しとこうぜ皆!」
「別にいいって。というか、親じゃないし」
些細な事でも楽しいイベントに変える、流石は陽キャさん達だ。
何が面白いのか分からないが、楽しそうに騒ぎだしたので水を差すのも白けるか。
「……あの車だな」
「なんか高そうな車だ……ん? あの立っている人がお母さん? 若すぎね?」
「だから親じゃないって。姉さん……みたいな人」
「お姉ちゃんがいたのか! んんっ!? え、ヤバい美人じゃね?」
紅月さんの姿を確認した友人達がザワツキだす。そういえば何だかんだ、紅月さんを紹介した事はなかったか。
俺は少しだけ小走りで、車の傍で待ってくれている紅月さんに近付いた。
「お待たせしました、紅月さん」
「行人さん、お疲れ様です。後ろの方達はご友人ですか?」
紹介しろと力強い目をしている友人達。俺は簡単に紅月さんに彼らを紹介した。
何を緊張しているのか、先程の馬鹿騒ぎをしていた時の馬鹿みたいな表情が一変、みんな真面目な顔をしていた。
「初めまして。行人さんがいつもお世話になっております」
「は、はひっ! 初めましちぇっ!」
「みなさん、行人さんと仲良くしてくれてありがとうございます」
「い、いえ! こちらこそ行人には世話になってますと思います!」
何をテンパっているのか、顔を赤くしながら紅月さんと話す友人達。
それに対して嫌な顔一つせず、僅かに微笑みながら対応する紅月さん。
……なんだろうな? なんか少しだけ、嫌だった。
「お前の姉ちゃん、美人すぎだろ!?」
彼らから少し離れていた俺の元に、陸がやって来てそう言った。
高校生の俺達にとったら紅月さんは大人の女性。なかなか周りにはいないであろうレベルの美人。
そんな人に微笑まれてみろ。彼女がいた事もない高校生なんて、即落ちだよ。
「お前ら、もういいだろ?」
「なんだよ~、もう少しくらい……」
「すみません、これから用事があるので」
「そうですかぁ……」
本気で残念そうな顔をする友人達に別れを告げ、俺は車に乗り込んだ。
もうこいつらに紅月さんを会わせるのは控えよう。そんな事を考えていたからか、別れ際に友人に言われた言葉が凄く心に残った。
『あの人の横にお前がいるのって、似合わねぇなぁ』
悪気なんてなかったのだろう。見たまま、思った事がポロっと口から出たのだろう。
似合う似合わないなんて言われても、そんなのどうしようもない。
だけど恐らく、客観的にみたら大多数が同じ事を思うのだろうな。
――――
――
―
その後、本来の用事ではないが、時間があるという事なので寄り道を行っていた。
用事と言っても大した事はない。ちょっと新しい服が欲しくなったので、ショッピングに来ただけだ。
「……どうですかね?」
「よくお似合いです」
紅月さんと買い物をする、それは何度も行ってきた事だった。
しかしよくよく考えればこれって、デートなのではないだろうか?
まぁ、紅月さんにそんな気は全くないだろうけど。
「ですが、そうですね。髪を切ったりすれば、もっとお似合いかと」
「髪ですか……」
確かに髪は少し長い。面倒なので髪は自分で切っていた。
整えない髪にメガネ、肌をケアしている訳でもない。最低限の身嗜みを調えているだけで、容姿にかなり無頓着だ。
「……考えておきます。じゃあこれ、買ってきますね」
「はい、お店の入り口でお待ちしてます」
その話題から逃げるように、俺は話を切り上げレジに向かった。
別に髪を切るのが嫌だとかそういう事はない。でも今のやり方で十分だし、わざわざそんな事をする必要があるか? なんて考えてしまう。
でもまぁ、紅月さんがそう言うのなら、考えてみようかな。
買い物を済まし、入り口付近で待っているはずの紅月さんの姿を探す。
入り口から少しだけ離れた場所に彼女はいた。いたのだが、見知らぬ男と話をしていた。
紅月さんの表情、男の雰囲気から察する。ナンパだろう。
「少しくらいダメ?」
「人を待ってますので」
「それって彼氏?」
「……あなたには関係ありません」
ナンパされるのは不思議ではない。あれほどの美人なのだ、男は放っておかないだろう。
現に何度かナンパの現場に遭遇した事がある。そのたび彼女はあしらって来たのだが、今回の男は少ししつこいようだ。
「じゃ~番号だけでも交換しない?」
「お断り致します」
「なんでよ~、減るもんじゃないしさ」
「……はぁ」
周りには分からないだろうが、今の紅月さんは不機嫌だ。
それに気付かない男はナンパを止めない。俺を待っているため紅月さんは動けない。
俺は足早に彼女の元へと近付いた。
「ごめん、お待たせ」
「あ……いえ、大丈夫ですよ」
珍しくホッとしたような表情した紅月さん。男を無視して、俺の傍に寄ってくる。
そのまま歩こうとすると、予想はしていたがナンパ男から声が掛かった。
「待ってたってその子供の事? どう見ても彼氏じゃないだろ?」
「……関係ありません。行きましょう、行人さん」
「なんだよそのだせぇガキ、どう見ても釣り合ってねぇじゃん」
「…………」
「無視すんなよ、お高く止まりやがって。そんなガキしか相手にしてくんねぇんだろ?」
「……うざい」
今度は誰から見ても分かるほどに不機嫌となった紅月さん。
俺のせいで彼女はこんな顔をしてしまっている。俺が隣にいるせいで、彼女はあんな事を言われる。
「……すみません、紅月さん」
「いいえ、私こそすみません。さぁ、もう行きましょう」
彼氏の振りでもしてあげられれば良かった。でも俺が彼氏の振りなんかしても迷惑なだけだ。
あの男が言うように俺はガキで、紅月さんは素敵な大人。釣り合っていないのは百も承知。
少しだけ雰囲気が悪なったのを感じながら、俺達は本来の目的地へと移動した。
――――
――
―
用事というのは、母さんと会う事だった。
俺は高校を卒業したら会社に所属する事になっている。
薬の研究者にはなりたいので、会社に名を置きながら大学に通う事になるのだと思うが。
「――――うん、大体これでオッケーね」
「ふぅ……」
簡単な書類を書き終え一息つく。今やっている事がなんなのかよく分からないが、必要な事なのだろう。
高校卒業が近付いてくると、母さんは進路の事を急に聞いてきた。
他にやりたい事があるのなら、その道に進みなさい。あなたの行く道はあなたが決めなさい。
そう聞いてきた母に答えた。俺が進みたい道は、もうかなり前から決まっている。
「お疲れ様です」
「あぁ、ありがとうございます」
バッチリなタイミングで、紅月さんが飲み物を運んで来てくれた。
俺好みに味が調整された飲み物。ほんとこの人は、母以上に俺の事を知っているだろう。
「……ねぇ、あなた達って付き合ってるの?」
「はぁ? なんだその高校生みたいな問いは」
「付き合ってないの? 最近朱音、頻繁に行人の所に行くし」
「……付き合ってないよ」
俺の所に頻繁に来るのは、俺に生活力がなくて心配してくれているのだろう。
昔から紅月さんには色々と教えられてきたが、どうしても家事力だけは身に付けられなかった。
「……そう、なら大丈夫ね」
「なにがさ?」
「朱音、あなたにお話があるの」
「はい? なんでしょうか?」
母に話があると言われた紅月さんが、母の隣に移動した。
座るように母が促し、紅月さんが座ったのを確認すると、何かの書類を紅月さんに手渡した。
「朱音に、お見合いの話があるの」
「お見合い……ですか」
お見合いって、今で言うマッチングアプリみたいなものか?
どちらにしろ、男と女が会って、お互いに気に入れば彼氏彼女、そして結婚へと繋がっていくかもしれない話。
紅月さんが結婚……? いやいや、そんなの紅月さんが受ける訳が――――
「――――受けてみようかと思います」
「そう? よかったわぁ」
瞬間、何かに心が鷲掴まれた。なんなのかは分からないが、胸が痛い。
紅月さんが持っている書類には、相手の顔写真とかが載っているのだろうか?
好みだったのだろうか? イケメンだったのだろうか? どっかの社長とか? 紅月さんのように素敵な大人なのか?
「う、受けるんですか?」
「……えぇ、せっかく社長が用意してくれたものですし」
「あら行人、どうかしたの? 凄い顔してるわよ?」
「いや、別に……」
――――嫌だ。
なんで嫌なんだ。嫌だから嫌だ、そんなガキみたいな事しか言えないが、嫌だ。
紅月さんが誰かと付き合う、恋人、結婚。
それは素敵な事で、幸せな事だ。でも彼女を幸せにするのが、知らない誰かなんて嫌だ。
あぁ、そうか――――俺は。
「一応、来週末を予定しているんだけど」
「……分かりました」
「ある企業の御曹司だから、財力もバッチリよ!」
「確かに、そのようですね」
ならどうする? 決まってる。
指を咥えて見てるだけなんてしない。たとえダメだっとしても、行動しないでダメだったより、行動してダメだったになろう。
「じゃあ来週、ここで待ち合わせね」
「分かりました」
タイムリミットまで十日ほどか。十日で何を変えられるのか分からないが、出来る事はやろう。
彼女の隣にいるのは似合わない、彼女とは釣り合わない。分かってる、だからこそ変わるんだ。
だって俺は、彼女の傍にいたいのだから。
――――
――
―
そしてあっという間の十日。
あの日以来、俺は理由を付けて紅月さんには会っていない。
思えばこれほど会わなかったのは初めてかもしれない。それほど、紅月さんは傍にいてくれた。
そんな彼女が傍からいなくなる。そんな事は嫌で、考えたくもなかった。
待ち合わせ場所は社長室だったか。先日作った仮の社員証が役に立ち、問題なく入る事が出来た。
かなり容姿が変わったようで、守衛さんには止められたが、昔の写真を見せ個人情報を暴露したら通してくれた。
そして俺は、覚悟を決めて社長室の扉をノックした。
「失礼します」
「はいは~い。どうしたの行人……ちゃん? え、誰?」
社長室内には母さんしかいなかった。
これからお見合いのだというのに、いつも通りのスーツ姿なのだが、母さんは参加しないのだろうか?
「誰って、行人だけど」
「……髪切ったの?」
「うん」
「あら~、随分とまぁ……切りすぎじゃね?」
まぁ自分でもそう思う。髪を切った後の学園でも、散々言われた。
友人には驚かれ、女子には囲まれ。でもそのお陰で自信がついた。
「どうして急に? なんかスーツ着てるし」
「……紅月さんは? 今日、お見合いなんでしょ?」
「……あぁそういう事。朱音なら、応接室にいるわよ」
「そっか。ちょっと行ってくるよ」
「うん。頑張れ~!」
どうやらお見通しのようだ。これから俺が何をするつもりなのか分かったのだろう。
母親からの声援を受けた俺は、社長室を出て応接室へと向かう。
社長室を出る途中、母さんが何か言ったようだったが、俺には聞こえなかった。
「上手くいったわね~……えっとお祝い用に……あ、すみません! 特上寿司3人前お願いしま~す!」
――――
――
―
社長室から応接室にやってきた。再び覚悟を決めた俺は、ゆっくりと扉をノックした。
過去、これほど緊張した事はない。言いたい事を頭に思い浮かべながら、俺は扉を開けた。
「……行人さん? どうしたのですか急に」
「俺って分かるんですね、結構変わったと思うんですけど」
「確かに、ばっさり髪を切ったのですね。ですが雰囲気や声などで分かりますよ」
室内に紅月さんはいた。来客でもあったのか、何かの後片付けをしていたようだ。
いつも通りのスーツ姿なのだが、これから着替える予定だったのだろうか?
というかお見合い当日でも普通に働くんだな。
「今日、お見合いなんですよね?」
「お見合い……あぁ、そういえば今日でしたか」
「ま、まさか忘れてたんですか!?」
「忘れていたと言うか……」
なんだか歯切れが悪い。少し罰の悪そうな、困った表情すら見せる紅月さん。
まぁなんにせよ、俺のやる事は変わらない。
「紅月さん、ちょっと話があります」
「私にですか? なんでしょうか?」
「今日のお見合い、行かないで下さい」
「…………」
その言葉に紅月さんは表情を変えず、真剣な目で俺を見つめるだけだった。
俺の次の言葉を待っているよう様子。色々と言いたい事はあったが、一先ず俺は最も伝えたかった事を口にした。
「紅月朱音さん。俺はあなたの事が――――好きです」
「――――っ」
少しだが紅月さんの目が大きく開かれ、息を飲んだ様子も伝わってきた。
「ガキがなに言ってるんだって思うと思いますけど、俺は本気であなたの事が好きです」
「……それは、家族としてですか?」
「いいえ。一人の男として、あなたの事が好きです」
「そう……ですか」
「まだまだ俺はガキですけど、あなたの隣にいられるような男になります」
「…………」
「まだまだ時間は掛かりますけど、あなたに釣り合う男になってみせます」
「…………」
「だから……だからお見合いには行かないで下さい。俺と、付き合って下さい」
もっと言いたい事、伝えたい事はあったはずだった。それほと長い時間、彼女と一緒にいたのだから。
でも、俺が一番に伝えたい事は言う事が出来た。
これでダメでも俺は諦めない。いつか男を磨いて、再び彼女にアタックする。
だから、お見合いだけはどうしても止めて下さい。
「……遅いよ」
「え……あ……そう、ですか……」
その言葉に血の気が引いた。遅いとはなんだ、もうお見合いをして、決めてしまったのか?
早めに来たつもりだったけど、もうお見合い済み……?
悪い事しか頭に浮かばす、彼女が口調を崩していた事になんて全く気が付かなかった。
「もう遅いよっ! いつまで待たせるんですか!?」
「……え?」
「やっと言ってくれた……もう、ほんとにもうっ!」
「こ、紅月さん……?」
目の前の女性が大人から子供になった。目に涙を浮かべて、手をバタつかせながら感情をぶつけてくる。
あまりの変わりように俺は開いた口が塞がらない。どうすればいいのかも分からなくなってしまった。
「久しぶりに会えたと思ったらカッコよくなってるしっ! 彼女でも出来たのかと思ったじゃんっ!」
「じゃ、じゃん? あの、紅月さん?」
「それで学園に行ったらモテるじゃん……私おばさんなんだから、勝てないです……」
「い、いや……勝てますよ」
勝てますよ。少なくとも今のあなたの可愛さは、俺が知っている中でもダントツです。
今すぐに抱き締めたい。えっと、オッケーって事でいいんだよな?
「結構アピールしたつもりだったのに、全然だし……」
「アピール? えと、どこら辺が……」
「私からは言えないし、選ばれるわけないし、歳も離れてるしぃ……」
「あの、紅月さん」
「だから我慢してたのに……好きなんて言っちゃダメですよぉ……」
「紅月さん」
「ぐすんぐすん……」
「朱音さんっ」
我慢できずに彼女を抱き締めた。オッケーの返事はもらっていないが、涙を流す彼女を放って置けなかった。
こんなに崩れている朱音さんは初めて見た。どれほど我慢させていたのかは分からない、全く気が付かなかった。
「朱音さん、好きです。俺とずっと一緒にいて下さい」
「……私で、いいのですか……?」
「あなたを笑顔にするのは俺です。あなたの隣にいるのは俺です。あなたを幸せにするのは、俺です」
「……私も、あなたの傍にいたい」
少しだけ強ばっていた朱音さんの体から力が抜け、俺に寄り掛かってきた。
俺は強く彼女を抱き締める。あれほど大きく見えた存在が、すっぽり俺の腕の中に収まっていた。
「俺と結婚して下さい、朱音さん」
「はい、喜んで」
流れた涙を拭ってあげてから、俺は彼女の口にキスをした。
なんともぎこちないキスだったが、なんとも満たされる。彼女もそう思ってくれているといいな。
「ん……少しだけ、恥ずかしいです」
「そうですね。でも俺、幸せです」
「それは、私もだよ」
「……朱音さん、もう一回――――」
「――――ちわー! 特上寿司お持ち致しましたー!」
「……頼んでないです」
「え、あ……失礼しました~……」
カッツリ抱き合っている所を見られたぞ。あと数秒遅ければキスする所だった。
あの配達人の表情……マズイ現場でも見てしまったような、なんとも言えない顔をしていたな。
会社のオフィスで抱き合うスーツ姿の男女。不倫現場目撃といった所だろうか?
「……あのお寿司、社長ですね」
「なるほど。じゃあ抗議と……俺達の事を報告しに行きますか――――」
――――その後、俺達は正式に婚約をした。婚約してから朱音さんは俺の家に引っ越してきて、同棲生活を開始。
俺が高校を卒業と同時に結婚。何も変わらないと思っていたけど、これが案外気持ちに変化があるもんだ。
周りに祝福され、認められるといいのはいいものだよ。
「――――あのね、出来たかも」
「おお、まじ!?」
「うん。最新式の検査薬を使ったから間違いないと思うよ」
「そっか~! 朱音に似て可愛い女の子だといいな」
「私は、あなたに似たカッコいい男の子がいいです」
数ある道から俺は、彼女と歩む道を選んだ。
この道がどこに続くのか、もちろんハッピーエンドだろう。
俺が歩むこの道は、まだまだ続く――――
――――
「――――え? お見合いの話って嘘だったの!?」
「嘘と言うか……お見合い相手の写真、行人さんでした」
「なにそれ、どゆこと?」
「社長がお節介を焼いてくれたのだと思います」
「……でも朱音さんもその話に乗ったよね?」
「まぁ、チャンスかと」
「チャンス? 俺とお見合いしてどうすんのさ」
「……嫉妬してくれるかなぁと思って」
「嫉妬どころか、心臓が握り潰されそうだったね」
「あれが私の、精一杯の行動でした」
「そっか、そのお陰で今があるんだね」
「昔の私を褒めてあげて下さい」
「ありがとう。お陰で幸せだよ」
「ありがとう。私も幸せですよ」
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