第26話 歳月人を待たず

「浩介、もう帰るんかいな」


「母さん、いろいろありがとう」


「あた、精霊流ししょうろうながしだけでも……」

 

 母の言葉に幼い頃を思い出してしまう。


 かつて熊本の川では、「渡し」と呼ばれる小舟が行き交い、俺たちは水遊びに夢中となっていた。お盆になると川面には精霊流しの光が揺らめき、大人たちはそこに色々な思いや 祈りを込めていたらしい。


 一か月遅れの七夕が過ぎて母親が止めるのを押し切り、お盆を待たずして東京に帰ってゆく。これ以上実家に留まると、離れる時がかえって辛くなる。まして、祖先を偲ぶ精霊流しなんて見たくはなかった。


 けれど、誰もいない部屋の明かりを付ける際、何故か寂しさまで忍び寄ってくる。ひとり飯を食べていると、父親の言葉を思い出す。

 田舎に戻るかどうかの『執行猶予期間はあと3年』その約束に甘えず、そろそろ、卒業後の進路を決めなくてはならない。


 先輩たちは就職活動の氷河期逆戻りで内定取り消しが多発しているという。夏休みが終わり大学生活に戻れば、就職の広報を見ることになるだろう。


 これは、東京に残るか熊本に帰るかの分岐点だ。いや、長い人生の岐路きろになるかも知れない。どうしようか……これまでの優柔不断な態度はもう許されない。


 このまま、故郷に戻り実家の家業となる農業、糖度の高い不知火デコポン栽培にあくせくするのは辛いものがある。熊本は初夏でも台風がやってくる。下手すると全滅となる。

 田舎そのものは嫌いでないが、農業は自然の天候に影響される厳しい仕事だ。しかも、不知火と外国からの柑橘類との競争も厳しいものとなりつつある。


 さらに、俺にはひとつだけ夢があった。


 それは、母校で野球部の監督となり、後輩を育てること。おかげさまで教職の資格は3年次までに取得していた。出願期間は東京の方が早く、故郷ならば翌年の5月、試験はいずれも夏に行われるという。



 そんななんやかんやで毎日が慌ただしく過ぎてゆく。あっという間に蒸し暑い東京の夏が通り過ぎ、アパート近くの神宮外苑の銀杏並木も黄金色に色づいてくる。


 ここ神宮の森は「どこまでもつづく原野」の端っこだと云われるとおり、武蔵野の面影を色濃く感じている。都会の谷間にある自然豊かな雰囲気が大好きとなり、上京以来ずっとここに住んでいた。自然は傷ついた心を癒してくれるもの。暇を見つけては森をひとり歩きしている。

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