??? ー希望 その1ー

 そこは神秘に満ちた空間だった。


 本、本、本、本――――――本。

 膨大すぎる本が空間の至る所に保管されている。上下左右の概念すらも曖昧で、いかなる重力が働いているのか天井に本棚が立っているところもあれば、埋め込まれているものもある。塔のように円柱状の本棚がいくつも空間に突き刺さり、始まりと終わりは解らない。

 納められたものは製本されたものもあれば、木の板が纏まった古風な木簡や巻物も多種多様。

 少なくとも視界の果てまでは書物の混沌が広がった閉じた空間なのに何故か暗さはない。

 むしろ、春の木漏れ日の様な優しい光があちこちからスポットライトのように差し込み空間全体を優しく照らしていた。

 

 そして光の交差点の一つ、無限の書架らには似合わない泉があった。

 光に照らされているだけでなく、水自体も光を放っているかのような。光を受けながら薄水色に水は輝き、書架との不釣り合いなれど奇妙な不思議さと美しさを生み出していた。


 ばしゃりと、水音が鳴る。

 泉から1人の少女が浮き上がり、歩みを進めていた。

 水深は左程深くはないのだろう。少女の太ももあたりまで。


 人形の様な、一見幼い少女だった。

 光の雫が滴る髪は純白で、肩のあたりで無造作に切りそろえられている。凹凸は控えめでシルエットや身長は子供のそれではあったが、子供特有の丸みは少なく、指や足はほっそりと伸びていた。

 人としての造形の整い方は並々ならず、賞賛する言葉をいくら連ねても足りず、どう見ても子供でありながら、どこかに老成した雰囲気があり、妙な色気を生んでいる。

 足や胴、頭が黄金比であるためか、小さくはあるが幼くは見えないのだ。

 最高の職人がそれまでの全ての経験と技術を注ぎ込み生んだ人形、と言っても誰も驚かないだろう。

 無論、その平坦な胸は呼吸により上下しており、確かに彼女が生きていることを示していた。

 首から下には産毛一つなく、玉の様な肌のきめ細かさが身体から流れる水滴を弾かせていた。

 精巧に整えられた人形の様な、あるいは濡れた裸体を見れば妖精のようにも見え、世界と光に愛されたような彼女の目は、しかしそこだけ対照的だった。

 ハイライトの消えた暗い紅玉のような瞳。

 形の良いはずの目はちゃんと開かれることなく常時半目のまま。

 あらゆる光に愛され、彼女自身から光を放つような美しさの容姿にもかかわらず、その全ての輝きを飲み込むような深く赤黒い双眸。

 あらゆる何もかも、世界にすら絶望したような目だった。


「…………」


 乱雑に水音を立てながら泉を進む姿は、他人の視線を構うような様子はない。

 当然だろう、この書架は文字通り彼女の城であり、他人の侵入を決して許さない難攻不落の砦なのだから。

 そもそも、

 泉から上がった彼女は全身が濡れたまま、それに構う様子がない。 

 ただ右手を掲げ、軽く振り――――次の瞬間には濡れていたはずの体や髪は渇いて、衣類を纏っていた。

 深い藍色に随所に複雑な刺繍が織り込まれた胸で布を重ねる胴着のような服だ。袖はバッサリと落とされほっそりとした肩から腕、脇は露出し、布の丈は太もも半ばまでのミニスカート丈。腰あたりで太い幾何学的刺繍の入った帯でまとめられている。

 見る者が見れば、地球におけるチベット地方の民族衣装、チュバによく似たものだと思っただろう。

 裸足のままの彼女は本棚の塔の隙間に歩みをを進めていると、どこからともなくフード付きの真紅のマントが飛んできて一人でに肩にかかる。

 袖が勝手に動き、彼女の細腕を通そうとするが、


「要らない」


 鈴のような、しかし妙に低く深い声だった。

 声質は少女のそれにもかかわらず、やはり子供らしくない重みがある。

 少女の一言で力なくマントの動きが止まった。

 袖が萎れたように垂れたと思えば腕を、裾が太ももを撫でる。


「そっちも要らないって」


 彼女は肩をすくめつつ、袖を撫で、


「もうベッドだしね」


 言った瞬間、本棚の海から寝室へと風景が変わっていた。

 打って変わって、小さな部屋だった。

 ベッドと机、椅子だけの石造りの部屋。天井からはランタンが吊るされて部屋を暖かく照らしている。窓の外は夜であり、僅かに月明かりが差し込んでいた。

 ベッドに腰かけ、数冊の本が置かれた何もないはずの机に手を伸ばし、


「ん」


 手にはマグカップ。その中にはどす黒い漆黒の液体が。

 数倍濃縮されたエスプレッソ。本来専用のカップで少しずつ飲むそれを、水か何かのようにマグカップで傾けていく。

 ベッドには来たが、眠るつもりはない。

 

 マグカップを机に置き、


「あーーーー」


 息を吐きながら、ベッドに寝転がる。

 マントは勝手に外れて、掛け布団に早変わり。

 厚手の胴着であり、刺繍に見えるそれは37層の魔術防護が仕込まれているが着心地は寝間着としても十分に耐えうるもの。

 軽く伸び、そして思うのは、


「なんなんだろなぁ、


 数か月前に掲示板と呼ばれる次元間交信魔術――と、彼女は定義している――で知り合った少年のこと。

 万能の力を持ち、しかし万能が故に手詰まりだった少年。

 その転生特権チートの興味深さ故に、術式を教え、アドバイスをしていたが、


「う”ぅぁぁぁぁ」


 思わず額を手の甲で抑えてしまう。

 入れ込んでいるな、という自覚があった。

 自由にしている意識リソースを「彼」に裂いてしまっている。

 しばらく唸り、


「はぁ」


 嘆息し、改めて「彼」について考える。

 「彼」は純粋な少年だ。素直、純朴、実直、そういう言葉が服を着て歩いていると言ってもいい。

 それは掲示板の名無しや名前付きの応援振りからしてもそうだし、自分がまさにその証明。

 転生特権チートの中でも最上位であろう万能性・応用性を持つがそれに驕らず、他者を尊重し、感謝と礼を尽くせるような少年だ。

 自分が戯れに名付けた術式の数々。ラテン語の格言を元につけたせいで、普通に発音すると慣れない者には必ず舌を噛みそうなそれを、彼はしっかりと口にする。


「ぐぅ」


 それは、正直ちょっと嬉しい。

 ちょっとだけ。

 ほんとにちょっとだけだ。

 いや、そうではなくて。

 「彼」は他人に助けを求めることができて、尚且つ自分でできる範囲のことは自分でなんとかしようとするタイプの人間だ。

 知ったきっかけは彼の救援だったし、少なくとも鬼の姫との戦いからは自己の範囲は自分で努力している。

 最近のテストもそう。

 掲示板にあまり顔を出さずに真面目に勉強していた。

 あのあたりは暇だったなぁと思う。

 何にしても、だ。

 それなりに「彼」のことは知っているつもりだ。

 「彼」が生家から魔法学園に行くまでの三か月のうちの一月半。毎日直通交信で術式を教えていたし、その後の動向も見守っていた。

 「先輩」に伝えた言葉も聞いていた。

 聞いてしまっていた。


「っ~~~」


 思わず両手で顔を覆い、足をばたつかせた。

 マントが主の突然の悶絶にワタワタと揺れ動くが、それがしばらく続き、


「ふぅぅぅぅ――――落ち着けよ、僕。みっともない」


 誰も見ていないはずなのに、無駄に凛々しい顔つきで呟いた。

 造形が整い過ぎているので様になっているのが逆に冗談のよう。

 問題は、つい先ほどのことだ。

 遠征先で遭遇した氏族間の問題に彼は自ら首を突っ込んだ。


 助けたいとか助けたいから力を貸してほしいとかではなく―――「助ける」と「彼」は言った。 

  

 それが妙に引っかかる。

 掲示板では流されていたし、自分も気にはなかったがその瞬間は突っ込まなかった。けれど、時間が経ってどうしても違和感を覚えたのだ。

 氏族間の駆け引き、氏族の10年の行く末を決める戦いは「彼」の対処できる範囲を確実に超えている。

 なのに、助けを求めることはなく助けることを選んだ。

 これまでだったら、きっと掲示板を使って解決策を求めただろう。それまでの流れでどうしようもない空気があったから、そう言ったといえばそこまでなのが、どうしても引っかかるのだ。

 助けたという鳥人族の少女の、一体何が引っかかってあそこまで強い意志を見せたのか。

 

 解決策自体は既に示された。

 気にくわないが、「暗殺されまくり王族」とかいうふざけた名前の転生者は有能だった。

 思いついた策を言うのではなく、「彼」や鳥の少女、「先輩」や鬼の娘から情報を引き出し、「彼」を誘導して鳥人族にまで話を聞いてから策を編み出した。

 それも「彼」の背負うリスクとリターンや確実性を段階分けで伝えることで、最後は「彼」の意思を尊重していた。

 政治や国家の駆け引きを忌み嫌い、間この世界の文明に関わっていない彼女にははじき出せないものだっただろう。

 正直、全く以て気にくわない。

 気にくわないが、仕方ない。

 「彼」は既に選択したのだから。

 

 だから、思うのは「どうして」だ。

 あの「先輩」ではないが「知りたい」ということを随分と久しぶりに覚えた。

 それも、対個人に対してなど。


「…………」


 上体を起こし、右手の人差し指と中指の二指を軽く振る。

 指の動きに沿って、中空に白い火花が散り、それは光の線になる。

 少女の眼の前で伸び、細かい文様を描きながら長方形に結ばれた。


 掲示板――――――ではなく、それを利用した個人通信術式だ。

 

 自分や掲示板ではDM、ダイレクトメールと呼ばれるもの。多重次元に干渉できる彼女だからこそできる神業なのだが、それを指二本で当たり前のように発動し、少女も頓着せずに通信枠を眺めている。

 接続は、既に「彼」の下に。

 言葉を伝えようと念じれば、掲示板と同じ要領で直通される。

 だが、何というべきだろうか。

 聞けば教えてくれるだろうが、多分それは「彼」の生前、深い所に踏み込むものだ。

 そうやすやすとラインを超えていいのか、と思ってしまう。 

 だから迷う。

 そして気になってしまう。


「……どうして」


 思わず呟いた瞬間だった。

 通信枠が反映されて、光の糸が言葉通りに文字を記した。


「あ」


 そして思い出す。

 最後にDMを使ったのはそれこそ「彼」との修業時期。

 色々自分でも系統の掛け合わせを実際に試しながらだったから音声入力をしていたのだ。

 つまり、先ほど漏れた言葉は既に彼に送信されてしまった。

 慌てて手を掲げ、送信を取り消そうとして、


『どうしました?』

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