諦観
子供に生活費さえ渡して放っておけば、<良い子>になる。
それが事実なら、子供は親から離れて暮らし、政府が親から金を徴収し、それを子供に生活費として支給して勝手に大きくなってもらえばいい。
しかし、それを『正しい』と思う人間はそうはいないのではないだろうか。
それなのに、玲那の両親はそれを実行していたのである。子供を一人で住まわせて、金だけ渡して何もかも自分でやらせるということを。
これでまともな人間に育つと考えるなら、それは人間という生き物をまるで理解してないと言わざるを得ないかもしれない。
子供は親を見て生き方を学ぶのだ。親の姿を見ることで<人としての在り方>を学ぶのだ。
子供がおかしなことをしてるなら、それは親のやり方におかしな部分があるからだ。他人を蔑ろにする親の子は他人を蔑ろにすることを学び、他人を力で支配する親の子は他人を力で支配することを学ぶ。
玲那が今、大人しくしているのは、それは彼女が非力だからでしかない。逆らっても勝てないということを理解してるから、今のところは従っているだけだ。
だが彼女が成長し、力をつけ、そして自分の力が親を上回ったと自覚したらどうなるだろうか?
素直に親に従うだろうか?
力で他人を従えるということを学んだ彼女が、本当に今と同じく大人しくしているのだろうか?
今度は自分が親を力で従えようとするとは考えられないだろうか?
子供を支配してきた親は、力関係が逆転した時に子供に支配されるようになったりはしないだろうか?
力とは、単純に体力のことを言うのではない。知恵もそうだし、それよりももっと手っ取り早く武器を手にすればそれは大きな力になるだろう。
ナイフを買い集め、その使い方を習熟すれば、小学生でも十分に大人に勝てるようになる。力に頼る者は、より大きな力の前には屈するしかない。たとえそれが、武器などという道具の力であっても……
もっとも、今はまだ、玲那にはそこまでの発想はなかった。体も小さく、力も弱い自分が逆らっても無駄だということを思い知っているだけにすぎない。だから彼女は一方的な被害者の立場に甘んじているのだ。
そして今も、男の欲望に弄ばれ、玩具にされ、力尽くで組み敷かれていた。その種のフィクションのように甘い感覚など彼女には全くもたらさない。ましてや嫌悪感しかない相手にそんなことをされても気持ち良くなどなれる筈がない。フィクションと現実は違うのだから。彼女が痛みに耐えられているのは、ただ諦めているからでしかない。
『自分は何をされても大人しくしていなきゃいけないんだ……』
その諦めの気持ちが、この時の玲那のすべてであった。そんなことを、十歳になったばかりの少女が思っていたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます