丸磯昭子

 家族の縁を切る代わりに譲り受けた<家>で生活を始め、一子をもうけた伊藤いとう判生ばんせい京子けいこではあったものの、こういう人間がまともに子供の面倒を見られるはずもなく、取り敢えず形だけは世話をしているふりをするもののそのやり方はいい加減で、生まれたばかりの玲那はいつも大きな声で泣き続けた。

 すると自分の思い通りにならない玲那に対して判生も京子も苛立ち、

「うるせぇ!」

 と怒鳴って叩いたりを繰り返すようになっていった。

 もちろん、そんなことで赤ん坊が泣きやむ訳がない。確かに最初はショックで泣きやむようなことも何度かあったが、それを自分に都合よく解釈したのだろう。

『叩けば泣き止むじゃん』

 と思ってしまったようで叩くようになってしまったのだが、そんなものはすぐに効果を失う。そして泣き止ませようとしてさらに強く叩くという悪循環が始まったという訳だ。

 それでも、そんな様子に胸を痛めている人間もいなくはなかった。

『ああ…そんなにしたら……』

 近所に住む丸磯まるいそ昭子しょうこもその一人だった。

 丸磯家は、第二次大戦後の混乱期に事業を起こして成功した伊藤家から仕事を回してもらうなど助けてもらったことがあり、自分の子供も巣立ち手が空いていた昭子は、

『判生くんのお祖父様にはお世話になったから……』

 と考え、伊藤家への恩を返す意味も込めて、

「もしよかったら、私が面倒見てあげる」

 と申し出て、玲那の世話をするようになったのだった。

「お、マジか? そりゃありがてぇ!」

 などと、昭子の善意をいいことに判生と京子は玲那を放って遊び歩き、二~三日帰ってこないということすらあったりもした。

 だが、もしかするとこの時期が、玲那にとっても、二十七年弱の生涯の中で最も安らいだ時であったのかもしれない。

「玲那ちゃんはいい子ね~」

 おとなしくミルクを飲む玲那を見詰めながら昭子が微笑んだように、彼女が世話をしている間は、判生や京子のところにいる時の癇癪を起したかのような激しい泣き方をすることが殆どなかったのである。

 こうして、ほぼ昭子の子供のようにして玲那は育ち、少し人見知りが激しいが、控えめでおとなしい子供として成長していった。

 が、この世に神や仏がいるのだとしたら随分と残酷なことをするものである。

「そんな……どうしてこんなことに……」

 バブル崩壊のあおりを受け丸磯家の事業も大きく傾き資金繰りが悪化。

「丸磯さ~ん! 借りたものは返しましょうよ! それが人の道ってもんでしょ~!? 丸磯さ~ん!」

「さっさと払うもん払えや! このクソ外道が!!」

 毎日、昼も夜もなくそうがなりたてる柄の悪い連中が家に押しかけては騒ぎ立てたように、繋ぎの為と金策に走った際に金を借りた業者が非常に悪質なものだったこともあり、丸磯家は夜逃げ同然で引っ越していってしまったのだ。

「ごめんね…! 玲那ちゃんごめんね……!」

 最低限の私財だけを積んだトラックの荷台に身を潜めるように乗っていた昭子が涙を流しながら何度も謝ったが、玲那は連れて行ってもらえなかった。

 玲那が三歳の誕生日を迎える寸前のことであった。


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