ジェーン・ドウは誰か
真賀田デニム
第一章 九人の黒づくめ達
九人の黒づくめ達(一)
※
「なので、あなたには参加者を最低、三人殺して頂きます」
陽気な幼子の声が聞こえるファミリーレストランには、あまりにも相応しくない表現だと思った。
肥大化した背徳感を押さえ込むように水を一気に飲むと、ガラスのコップをテーブルに置く。ガンッと音がした。ゆっくり置いたはずなのに。手が震えているからかもしれない。
こちらの動揺を見透かしたように、
「大丈夫ですよ。殺すことに難儀することはありませんから。先ほどの説明でそれはご理解いただいていると思いますが。それと何度も言っていますが、これはゲームですから」
向かい合うスーツの男が、能面のような顔に笑みを貼り付ける。
引き返せるラインならいくつもあった。今さら悩むことじゃない。後悔するなら参加して全てをやり遂げたあとでいい。一億円の等価交換として、それはあり得る可能性として考慮していたはずだ。
もう迷わない。妹のためならなんだってやってみせる。
一 九人の黒づくめ達
――あれは。
私はゆっくりと立ち上がり、周囲に目を向ける。
橙色の空の下、その洋館と思われる建物は周囲に広がる木々の中で突出して気になるオブジェクトだった。モーゼの奇跡かのように洋館へのまっすぐな経路のみ樹木がないのは、そこへ行けという意味だろう。よって私は、洋館を横目にして自分の周りに展開する森の中を進むことにした。
なぜ、私は全く見知らぬ屋外に放り出されているのか。
その〝なぜ〟を解明する端緒としては遠回りのような気がするが、自分で選んだ選択肢だ。そんな習性がなんとも恨めしく、それでいて唐突な事象の変容に対応できている誇らしさもある。
それはそうともう一つ〝なぜ〟がある。服だ。
上下共に黒のポリエステル繊維の服。黒白の横線が交互に入っていれば海外の囚人服としても通用しそうな、シンプルなものだった。こんな服を着た覚えはないし、そもそも持っていない。いつどのタイミングで着替えたのか全くもって不明だった。
いや、着替えさせられたのだろう。私をこの場所に放置した何者かによって。
私は一旦思考を放棄すると、一歩一歩と踏み出す。これまた記憶の片隅にすらない黒いスリッポンスニーカーに首をかしげながら。
雑草の少ない大地の上に点在する木々。杉なのか、檜なのか、もみの木なのか判然としない針葉樹だが、とにかくアマゾンの奥地のようなジャングルでなくて良かった。仮にジャングルであれば猛獣の類に襲われる危険性があるが、この森であればせいぜいタヌキかキツネくらいだろう。タヌキやキツネがこういった整然とした森を住処にしているのかは知らないが。
整然といえば、この森は静かだ。不気味なほどに。
鳥の囀りや虫の鳴き声はおろか、風による葉擦れの音も聞こえない。頭上から差し込む木漏れ日だけが森に生命の伊吹を与えているようで、その儚さがある種の幻想さを生み出していた。
ふと。
眼前に現れるフェンス。
上部が内側に傾く有刺鉄線付きのそれは、高さ四メートルほど。横の長さは左右にずっと伸びている。憶測だが、例の洋館をぐるっと囲っているのかもしれない。ファンタジー感ぶち壊しである。
これ以上は進むことを許さない何者かの意思によって、私は足止めを食らった?
こちらの予定通りに洋館へ向かえと?
――よし。
私は抵抗してやろうと決めた。
それは翻れば、洋館への多大な好奇心の裏返し。
本当に素直じゃない。だけど昔からこうだった気がする。
テーマパークに行っても本当に乗りたいアトラクションは帰る前に体験。
ゲームのラスボスを倒すのは、あらゆるやり込み要素をコンプリートした後。
大好きな漫画の最終巻を読むのは、メディアミックス作品の全てを楽しんでから。
自分を満たしてくれるモノやコトはいつだって最後だった。だからあの洋館は私を満たしてくれるに違いない。置かれた現状の把握すらできていないのに、私はなぜかそう確信できた。
さて。この鉄条網をどう攻略してやろうか。
金網を切断する工具などないのでよじ登るしかないわけだが、有刺鉄線エリアを素手で越えていくのは無謀である。ならば素手ではない状態にすればいい。私は黒い上着を脱ぐと両側の袖から手を入れて、三回ほどクルクルと巻き付けた。即席の防具のできあがりである。
指先の自由がほとんど効かないが、金網の穴が大きめなので登っていくことは可能だろう。肌着のみになった上半身を怪我する恐れもあるが、多少の痛みは許容できる。なにせ、越えてはいけないであろうラインを突破しようとしているのだから。
私は金網を登り始める。順調に上昇し続けて有刺鉄線エリアへ。その有刺鉄線を恐る恐る右手で掴んでみる。――痛くない。
しかし内側への傾きの角度が急で、重力が邪魔をする。これはきつい。ひ弱な女性である私でなくともこれは無理な気がする。潔く諦めたところで、それは背後から聞こえた。
「どこに行こうとしてるの!」
驚いているような、あるいは咎めるような大きな声。
私はびっくりして両手の力を一瞬失う。その一瞬で両手は有刺鉄線から離れ、落下。不幸にも腰から地面に叩きつけられたのだった。
「げふ」
衝撃で変な声が出る。遅れて痛みが襲ってきて、私は土下座のような状態で腰を擦り続けた。
「大丈夫?」
落下の元凶である声の主が私の元に近寄ってくる。
なんとか顔を上げてその人物を見る。
黒髪をポニーテールにした小柄な少女だった。体躯に比例して顔も小粒であるのだが、円らな瞳を筆頭に整ったパーツが可憐な容姿を作りあげていた。私と同じ上下黒の服を着用せずに〝らしい〟恰好をすれば、もっとキュートな美少女であったに違いない。
ところでその少女は若干呼吸が荒い。髪も服もやけに乱れている。その様は、この場所まで走ってくる間に転倒でもしたかのようだ。
「背中が痛いけど、うん、大丈夫」
「そう、ならいいんだけど……あ」
少女がふらりと揺れる。と思ったら、倒れまいと踏ん張るように地面に座った。
「そっちこそ大丈夫? なんか調子が悪そうだけど」
「うん、大丈夫。ちょっと、ううん――なんでもない」
「そう」
私は腰痛で苦しむ患者のごとく、腰をなでながらゆっくりと立ち上がる。そして彼女に手を差し伸べた。意図を理解した少女が差し出した手を握る。私は彼女を立たせてあげた。
じっと私を見つめる少女。
彼女の角膜に写る私。
じっと私を見つめる少女の瞳が潤い、輝く。
彼女の角膜に写る私が歪む。
少女の口が何かを言おうとして開き、閉じる。
彼女の角膜に写る歪んだ私が首を傾げる。
目を背ける少女はふたたび私の両目に視点を合わせる。怒っているかのように眉がやや釣り上がっていた。彼女が左手のこぶしを腰に当てたのち、右手の人差し指を私の顔に向ける。
「だめじゃん、向こうに行こうとしたら。金網あるし分かるじゃん。行っちゃいけないって」
やっぱり怒っていた。
明らかに年下の女の子に悪さが見つかりため口で怒られる。という構図の恥ずかしさといったらない。
「そうなんだけど、なんとなく」
「なんとなくって。あのさ、起きたところで洋館見えなかった?」
「え? 見えたけど」
「だったら普通、そっちに行かない?」
それはごもっとも。でも、そこに行くのはまだもったいないし癪なので、敢えて寄り道してやろうという反発心ゆえの行動なんだ――。
との説明を喉元に通そうになったが、理解の及ばない変な人と思われたくないので、適当な嘘を吐くことにした。
「えっと……。あ、あの洋館、なんか不気味だったから」
「不気味かなぁ。メイはそうは思わなかったけど」
「多分、光の加減か何かでそう見えたのだと思う。ところでメイって?」
「え? 自分の名前。
「そっか。私は
メイは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたのち、「そっちは多分バッドエンド直行だもんね」と白い歯を出して相好を崩した。
うん、可愛い。ため口は減点だけど。
代り映えのしない森。
人工的に作られた樹木の密集地を林と呼ぶらしいが、もしかしたらここは林なのかもしれない。その違いを知ったところで状況が変化するわけではないが。
とりあえずの目標は、メイと共に例の洋館に到着することである。
「ねえ、琉花。ここってどこだと思う?」
あまりにも自然な名前の呼び捨てだった。
「さあ。目が覚めたらここにいたから。でも日本だとは思う」
「それはなぜ?」
「メイに出会った」
「短絡的すぎー。見知らぬ場所でたった一人の日本人にあっただけじゃん。メイは外国だと思うな。それも西洋」
「それはどうして?」
「洋館があるから」
「それも短絡的じゃない?」
結局、国からしてどこなのか分からないという結論となった。
「やっぱり外国はなし。ゲームをするためにわざわざ外国に連れていくとは思えないもん」
ん……?
「ちょっと待って。今ゲームって言った? それは一体どういうこと――」
刹那。うっすらと色がついていく記憶のスケッチブック。それは徐々に鮮明なものへとなっていき、やがて数枚の連続する絵ができあがった。
「どうかしたの?」
「ゲーム……。私はそのゲームに自分で応募した。そうだ、ダークウェブで見つけたんだ。えっと、あのサイトの名前は確か……」
「〈ジェーン・ドウの館〉でしょ」
「それ、〈ジェーン・ドウの館〉! そうだ、私はあまりにも高額な報酬に惹かれてサイトを開いてゲームの参加ってところをクリックして、住所や誓約書やらなんやらを入力して――」
「そのあと、ゲームの主催者の人が来て、注射を打たれて気を失ったんじゃない。……何、忘れてたの? 忘れる? 普通」
その通りだ。なぜ私はそんな大事なことを忘れていたのだろうか。
「全部思い出した。ゲームの名前は〈ジェーン・ドウ・ゲーム〉。でもどんな内容なのかは全く分からなくて家にきたスーツの男性に聞いたの。だけどゲーム会場で教えますの一点張りで、そのあとメイの言った通り注射を打たれて気を失って、今ここにいる」
ダークウェブ。
それは通常の方法ではアクセスできない、匿名性の高い特別なネットワーク上に構築されたWEBサイト。専用ツールさえあれば誰でもアクセスできるが、犯罪の温床にもなっていて、明確な目的でもなければ普通は関わることはない。
私はそのダークウェブで、〝ゲーム〟で検索して〈ジェーン・ドウの館〉なるサイトを見つけた。
クリックすると、ブロンドの眩しい瞳を閉じた女性の顔がアップで表示され、まず驚く。人間と人形、あるいは人間とロボットの間に存在しているかのような、境界の不確実な美女。同性だというのに瞬く間に魅了された私は暫しの間、モニターに釘付けになっていたのだが、しばらくすると中央に文字が浮かび上がってきたのだ。
〈ジェーン・ドウの館〉にようこそ。
〈ジェーン・ドウ・ゲーム〉をクリアすれば二千万円。
〈ジェーン・ドウ・ゲーム〉に参加しますか? イエス? ノー?
うさん臭さ百パーセントである。
普通、これだけの情報で参加を決める人間なんていないと思う。当然のようにノーだとしてもクリックせずにブラウザバック必至だろう。しかし、背景の女性がイエスをクリックしてと蠱惑的なリップを動かしているように見えてきて――。
だからそのときの私は普通ではなかったのだと思う。女性の唇が動きそんなことを言うはずもないのに、〝イエス〟をクリックしていた。
「〈ジェーン・ドウ・ゲーム〉ってなんだろうね。琉花は分かる?」
「分からないよ。サイトにだって書いてなかったし。そもそもジェーン・ドウが何かさえ知らないから」
「なんにも知らないんだね。使えなーい」
「それはお互い様じゃない。同じサイトを見てここにいるんだから」
――そうだ。メイも同じサイトを見ているのだ。
おそらく十代前半の彼女がダークウェブで高額報酬を求める理由とはなんなのだろうか。その原動力の源は何がきっかけとなり、小さな体から湧き出たのだろうか。
「何? どうかした」
「メイはなんで参加したの?」
「え? なんでって……なんか面白そうじゃん。それとやっぱりお金」
指でお金を表してニカリと笑うメイ。
言葉に詰まったときの僅かな表情の変容。それはその後の満面の笑みへ続く流れとしてはあまりにも不自然だった。しかしそれだけだ。変容の理由に言及するほど、私はメイと親しくはない。ガキンチョが二千万なんて大金どうするつもりなんだという疑問も、今は口に出さないでおこう。
「ねえ、琉花。ゲームの参加者ってほかにもいると思う? もしかして二人だったりして」
「それはないんじゃないかな」
「どうして?」
「二人で成り立つゲームをクリアして二千万ってなんか違うと思うし、そもそもあの洋館」
私は枝葉の隙間から見えた洋館の、頭上に高く突き出た赤茶色の尖塔を指さす。ここから見えるということはかなり近くに来たのだろう。
「洋館がどうかしたの? あ、もう少しで着きそうだね」
「十中八九、〈ジェーン・ドウ・ゲーム〉はあの洋館で行われると思う。だったらあの洋館の大きさに見合う人数でゲームをするのが自然なんじゃないかな。それほど大きな洋館でもなさそうだし、十人前後くらいかもね」
「なるほど。確かにそうかもね。でもそんな大勢でどんなゲームするんだろ。おにごっこかな? かくれんぼかな?」
ため口だが、発想は子供のようだ。
「もしそうならサイトの募集要項に、おにごっこかかくれんぼって書くんじゃないのかな」
「分かった! ジェーン・ドウって、どっかの国の言葉でおにごっこやかくれんぼって意味なんじゃない」
「あり得ない希望的観測だと思う」
「えー、どうして? なんで?」
「日本語で募集しているのにそこだけ私達の知らない国の言葉――って、ちょっとメイっ」
徐々に私から離れていっていたメイの目の前に、一本の木。彼女は避ける間もなく頭から激突した。
「いったーい」
「大丈夫っ?」
私は駆け寄ると、しゃがんだまま右側頭部を押さえるメイを介抱する。
「だ、大丈夫」と立ち上がるメイだが、どうにも足元がおぼつかない。彼女の肩を支えたままでいると、しばらくして「本当にもう大丈夫。ありがと」と私から離れた。
「なんでそっちに歩いて行ったの?」
「なんか傾斜になってたかも。あっ」
と声を上げるメイの視線を追えば、森の出口が見える。その先には洋館の外壁。あそこにたどり着けばチャプター1のクリアだ。
モンスターの代わりに遭遇したのがちっちゃな少女で良かった。そんなメイが「おさきにー」と森の出口に向かっていく。ふらついているが大丈夫かと思ったら、
倒れた。すぐに起き上がる。で、また走る。
木漏れ日を浴びながらタッタッタと走っていくその光景は実に微笑ましい。本当にゲームが、一般的なおにごっこやかくれんぼなのではと思えるくらいのほのぼの感だ。
でもそれはないだろう。
ダークウェブで募集している報酬二千万円のゲームが、そんな平凡であるはずがない。
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