ヘキサゴントラベラーの変態

井田 カオル

プロローグ

第1話 変化の始まり

 満月が暗い空に鎮座する真夜中、空で輝く星々の光を遠く感じさせるほどの光を持った街があった。背の高いビルが乱立するその街には至る所に電灯や大型のテレビジョンが設置され、まるで影を覆い隠すような暴力的な輝きが全体を覆っている。通りを歩く人々は皆その輝きの中で曇りのない笑顔を浮かべて闊歩していた。ある人は友人と共に冗談を言い合い互いの肩を小突きながら、ある人は恋人であろう異性に良い所を見せようとその異性の手を引きながら、それぞれの夜を過ごしている。それらを見てこの街を一言で表すならば、絵に描いたような幸福な街だと言えるだろう。

 そんな街にある一棟のビルの屋上に一人の女が立っていた。光の届かないビルの屋上に溶け込むような黒い外套を身に纏った彼女は、街を見下ろしながら左手に板のような形をした機械を持ち、それが繋ぐ相手と会話している。


「本当にいいのかしら?」


 問いかけに対し、連絡機の奥にいる相手は何がだと逆に質問を返す。女は屋上を少し歩き、ビルの縁に足をかけ、再び口を開いた。


「この国は少数の不幸を燃料にして多くの人の幸福を作り出す、そういう場所。言うなれば、一人の人間が支える床に何十人で乗っているようなもの。上にいる人間は、下に苦しむ人間がいることを知りもしない。自分の幸せを支えて不幸になっている人間がいることを知らない」


 女が眼下に見下ろす街は目に刺さるような眩さを持っているが、それでもその光で覆いきれない路地裏の奥には影が残っている。そして、その暗い路地裏には表の通りにあるような輝きとは無縁のように見える不幸な表情をした人間が座り込んでいた。

 女はそんな人間が所々に見える路地裏に目をやりながら続ける。


「んで、アンタは今からこの国で一番力持ちな奴らを逃がそうとしてる。何千人もの幸福を背負えるほど力持ちで、その分すごく不幸な奴らを解放しようとしてる。どう考えてもただじゃ済まないわ。危険なことはもちろん、この行為が国に与える影響は大きい」


 女の言葉に連絡機の奥にいる人間は少しだけ黙る。だが、すぐに答えを返した。


「そんなことは重々承知だ。その上で私はこの道を選んだ。……人間の発展と進歩は一定数の不幸を前提にしてはならない。私はその考え方を遂行するだけだ」

「ああそう、随分と殊勝なことね」


 連絡機の話し相手の返答に女は無関心そうに適当な言葉を返した。それ以降、女も連絡機の奥の人物もしばらく黙り込む。

 ビルの屋上に沈黙が広がった。街の喧騒が耳に入らないわけではないが、とても遠くの世界のことのようにくぐもって聞こえる、そんな静けさだ。

 女は口を閉ざしたまま、彼女の立っている位置から見て正面にあるビルを見た。それは周囲にある煌びやかなビルとは全く異なる無機質な白に覆われたビルだ。まるでそのビルだけが周りの輝かしい世界とは全く別次元にあるかのような、そんな雰囲気を持っている。それを感じてか、その周囲の通りには人の行き来が少ない。

 屋上の女がそのビルを見つめていると、連絡機から張り詰めた声で短い言葉が発せられる。


「時間だ。頼む」

「分かったわ」


 女は連絡機の声に応え、懐から小さい直方体の箱型の物体を取り出す。それは目立つ赤の色をしたボタンのついているスイッチだった。女はそれを取り出すと一度だけ深呼吸をする。そして連絡機を顔の横から体の脇まで下ろし、改めて自分が右手に持つスイッチを見た。

 女はそれに目をやった後で再び眼前のビルを見る。その目は実験の経過を観察する科学者のように鋭く、何も見逃すまいという気勢があった。

 そうして、女は赤いボタンに指を添える。


「始めましょう」


 女の親指がボタンを深く沈めた。

 その瞬間、彼女の眼前のビルに大きな爆発が起こる。爆発は一か所ではなくビルの至る場所から発生し、白い壁を破壊して瓦礫に変えていく。鼓膜を思い切り殴るかのような爆裂音が煌めく街並みに響き渡り、ただならぬ状況であることを人々に知らせた。自分達の身に危険が迫っていることを即座に理解した彼らは悲鳴を上げてビルから遠ざかろうと駆け出し始める。人々を追うように、爆破によって重力に逆らえなくなったコンクリート壁の瓦礫が通りに降り注ぐ。それらが更に彼らの恐怖をあおった。

 ただ、屋上の女はその阿鼻叫喚の様子に目もくれず、渦中のビルに静かに目をやっていた。

 爆発の起きた個所はビルの地上十数階の辺りに集中しており、そこのコンクリート壁には大きな穴が開いていた。その穴からは大量の黒煙と赤い火の手が立ち上がり、ビルの中の様子を探ることはできない。女の視線は特に、ビルに空いたその風穴に向けられているようだった。

 爆発が起こってから一分ほどが経過した。件のビルの前を歩いていた人々は既に大方が逃げ去り、ビルの付近には人気がなくなっていた。遠巻きには騒ぎの様子を見に来た野次馬もいるようだったが、危険であるため近付かないようにと呼びかける人々に阻まれ彼らはビルに近付けないでいる。

 騒ぐ人々が離れ、瓦礫の落下も止まり、事が起こった周囲は沈黙に包まれ始めていた。火と煙は依然として夜空に広がり続けているが、続けて何かの事態が起きるわけでもなく、人々は張り詰めた警戒感を持ちながらも遠くから様子を見守るのみであった。

 そんな時だ。爆破でビルに空いた大穴から、一筋の煙が凄まじい速度で飛び出す。何かがビル内から外に放り出されたようだ。黒煙のせいでその何かを見定めることはできないが、人が一人ほどの大きさのものが飛び出たらしい。


「あれが……“クラス”」


 大穴から飛び出てきた物体を女は目を細めて凝視する。遠巻きに見ている人々が次は一体何が起こったのかと動揺した声を上げるが、屋上の彼女に驚いた様子は一切ない。それどころか彼女はビル内から飛び出てきた物体が何なのかを知っているかのように呟いた。

 女がクラスと呼んだ物体は上空から接地すると、ビルから遠ざかるように地面を素早く移動し始めた。人々はそれを見ると再び自分達の身に危険が近付いているのかと悲鳴を上げるが、その何かは通りに溜まる人々には目もくれず、彼らの横を通り抜けていった。人々は得体の知れない奇妙な物体が自分達の脇を通り過ぎるのを確認すると、ホッと胸をなでおろす。女がクラスと呼んだその物体は、一般人に危害を加えることは一切せず、そのままどこかへと消え去っていった。

 異様な物体が消えるのを見届け、危機は去ったと人々は皆安心した表情を浮かべる。だがそんな時、再び誰かが異常を目にして叫び声をあげた。


「まただ、また何かが飛び出してきたぞ!」


 一人の人間の声が、再び全体の視線をビルの大穴に集中させる。すると、先ほどのクラスと同じように、大穴から煙を纏った物体が飛び出してきていた。ただ、今回は先ほどとは違った。


「こ、今度は一つじゃない……二つ、三つ……五つだ!」


 大穴から放たれた物体、クラスは先ほどとは違い、五つあった。最初のものも含めればこれで六つだ。クラスは例の無機質な白いビルの大穴から合計六つ飛び出してきた。

 再び異常を目にした人々はざわつき始める。だが、今回も先ほどと同じく、五つのクラスはどれも人には危害を加えずにただビルから遠ざかっていくのみであった。どれも人には目もくれず、それぞれ別の方角へ向かっていく。一つは群衆を突き抜け、一つは路地裏を通り抜けてどこかへ向かっていった。五つのクラス全てが人々の視界から消えると、再び同じような物体がビルから現れることはなく、緊張した沈黙が通り一帯に広がる。


「六人、これで全部ね」


 静寂の中、屋上の女は眼下に起きた一連の出来事を黙って見届けた後、息を一つ吐き出す。そして、再び目の前にそびえたつ無機質な白いビルに顔を向ける。


「さて、行こうかしら」


 女は一人呟くと、屋上の縁から何もない空間に向かって一歩を踏み出した。

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