ハッピーバースデー

北見 柊吾

ハッピーバースデー

 親という言葉を身をもって理解できているわけではないが、たぶん両親は親になれなかったのだと思う。

 威厳のある父だった。たぶん、そうだったのだと思う。そのイメージが瓦解する前の僕は威厳という言葉を知らなかったが、それでも言い表すのならば威厳のある父、という言葉が似合う。


 物心がついた頃には、僕は言葉を介さずに彼の威厳について重々理解していた気がする。彼は拳が出るまでが早かったし、それ以上に怒りっぽかった。僕は何度も殴られて蹴られて、痛めつけられた。

 父は大抵、キャバクラやホステスに行ったり、愛人と外で遊んでいた。元々帰りは遅い人だったから仕事が大変なのだろう、と子供ながらに思っていたが、それも世間を知らない僕の描いた絵空事に過ぎない。

 そうして、早く帰ってきた時には女をホテルに連れ込めなかった時だとかあまり満足できない女に当たったとかそういう時ばかりなので、当然のごとく父は苛ついており、僕は殴られる羽目になった。ムスッとした顔で料理を食べ、食後に煙草を吸っては私を煙草で焼く。煙でケホケホと咳き込むと、また殴られた。


 ある時、父は言った。

「お前が女ならまだ穴があったのに、それすらもないお前はどうしようもないな」

 僕が何も言えずに黙っていると、父は苛立ちを増したのか、僕を蹴り飛ばした。


 子供の時分、僕は食事や風呂を早く済まさねば怒られた。父も母も自分が入りたい時に入れなければ癇癪を起こす人であったから、僕はそのたびに裸のまま外へ放り出されたり、食事や皿を投げつけられた。

 おかげであまり噛まずに飲み込む癖がつき、烏の行水で済ませられるようになったので、もしかすれば今の僕は感謝の念を抱いているかもしれない。


 僕が殴られたり煙草の火を押し付けられたりしても、母は意にも介さずにさっさと自分の寝室に引っ込んでいった。


 母はよく自宅に男を連れ込んでいた。

 僕はいつも図書室で借りた本を自分の部屋で読んでいたが、時折癇癪を起こした母が、僕を使えない、お前は生まれてこなければよかった、と怒鳴り散らした。まぁまぁ、と母をなだめるように男が僕の部屋にやってきて、「マイさん、怒っちゃあだめだよ」と優しい言葉を掛けた。僕に向ける顔は口元こそ笑っていたが、その目は僕に鬱陶しさを感じていることを知っていた。

 今にして思えば、やはり「マイさん」は愛人止まりで――僕がいるせいで子持ちという障害があったのだろう――そこから先には進めなかったのだと思う。母の癇癪も八つ当たりには過ぎないが、彼女からすれば僕はただの障害でしかなく、邪魔な存在でしかなかったのだと思う。

 それでもこの年まで生かしておいてくれた上に食事代などを与えてくれたことに関しては、本当に感謝でしかない。


 子供の社会とは実にちっぽけで、テレビを見ていなければ話題についていけなかった。うるさくしていればすぐに母の癇癪にも繋がるし、なにせリビングは大抵は母と男がいたから、僕がいられる場所ではなかった。母の料理を待ちながら男が見ているテレビを、待ちきれなくなった男が台所で母と行為を致している際に後ろに流れているテレビを、僕はリビングの扉からこっそりと見ることしかできなかった。

 僕がひとつのテレビ番組を最初から最後まで見たのは、たぶん学校の映画鑑賞会の時だと思う。みんなが面白くないから遊びにいこうだの変えてだの言っているなか、僕は食い入るように見た。

 腹を抱えて笑った。

 最後のオチには涙を流した。


 そういえば、なぜ父も母も、それだけ別の女や男に手を出していて離婚をしないのか、と問われれば、お互いに世間体があったのだと思う。そうして、僕には知る由もないが、たぶん今も離婚はせず、お互いにお互いの愛を求めているのだろう。それも夫婦の形なのかもしれない。少なからず、僕がなにか言えることはない。


 初めて自傷に手を出したのは、小学校二年生の時だったと思う。死のうと思った。なぜか、死ぬ方法を知っていた。人間、そういった生理現象は得てして身体に備えているものなのだと思う。しかし初めは具体的にどこを切ればいいのか分からなかったから、腕の真ん中を切ろうとした。それでも怖くなって、何度も包丁を落とした。

 そうしたことを繰り返しているうちに、母に見つかり、殴られて怒られた。

「あんたの血がついたら、この包丁が汚れちゃうじゃない」

 母の言葉を聞いた時、僕のなかで何かが壊れる音がした。

 当時、まだ幼かった僕は、ある程度死ぬという目的の中でも、父や母に振り向いてほしかったのかもしれない。今でこそ嫌っている承認欲求だが、当時の僕には確かにあったのだと思う。

 他の家庭のように、笑顔で頭を撫でてもらいたい。

 初めは、もしかすれば、その程度のことだったのかもしれない。それからいつのまにか死への追求が深くなり、幸福がその先にあるように思い始めた。

 小学校も高学年になった頃、親の財布から千円札を盗んで学校帰りに百均に寄り、ナイフを買った。このナイフは今でも僕の血を吸い、時折僕を慰めてくれている。


 高校の時分にバイトを始め、金を得た。バイトは楽だった。嫌な先輩に客の絡みも面倒に思っていたが、なにより家にいなくていい口実ができた。家で怯えながらいるよりも気を楽に保つことができた。

 しかし、バイトは二年で辞めた。酒が入りしつこく絡んできた客を殴り、問題になって正確には辞めさせられた。自分のなかに、父を見てしまった気がした。


 高校を卒業すると同時に家を飛び出し、一人暮らしを始めた。父も母も、それから一切の連絡がない。それから、のびのびと安いアパートで日々をやりくりしている。


 そうして今、僕はホテルにて酒を呑んでいる。

 新しいバイトを見つけてはしばらくして問題を起こして辞める羽目になり、それからまた次のバイトを探し、とやっているうちに二十を超えた。

 月日は早い。

 缶ビールはすぐになくなってしまう。缶を逆さまに掲げて残った一滴を飲もうとしたが、それすら出てこなかった。

 憤慨が右手に乗り、僕は缶ビールを投げる。壁に当たり缶がわずかにひしゃげた音がした。

 ベッドには、誘われた合コンにて連れ込んだ女が寝ている。


 こんな僕にでも、彼女はできた。美紀という同じバイト先の二歳年下の女の子。

 先日、先輩のバイトを代わってもらっていた僕が間違えて出勤しただけで帰った時、美紀はアパートに男を連れ込んでいた。

 知らない男だった。

 特に問い詰める気もなかったが、誰、と訊くと彼女は逆ギレを起こした。

 なによ、むしろ、聡介のことを私が好きでいるとでも。気持ち悪い、ばっかみたい。

 後ろで、裸の男がニヤニヤと笑いながら、そういうことだから、と僕を手で追い払った。癇癪を起こした美紀をなだめる男がいて、僕はその光景をぼーっと見ていた。

 懐かしささえ覚えた。

 男は、あの嫌な目をしている。


 カバンに必要なものだけを持って家を出て、転々と漫画喫茶に泊まりながらバイトに顔を出して一週間ほどが経っている。それならヒマだろうと誘われた合コンで隣に座ってきた女が抜け出そうと囁いてきたから、特に抵抗することなくホテルに行った。

 何かを期待したわけでもないが、忘れたい、と思ったのは事実だと思う。いつも以上に熱めの湯でシャワーを浴び、その間に女が僕のカバンから財布を漁っていたから、僕は彼女の手を捕まえた。烏の行水が役に立ったらしい。

 ぎょっとして逃げようとした彼女を殴り、首を絞めた。

 暴れていた彼女も、しばらくすれば大人しくなった。

 カクンと彼女の頸が落ちたのを確認してから、僕は彼女とセックスをした。それから、ビールを飲んだ。


 神や仏の類いを信じていることはないし、運命などを信じることは今後も一切ないのだろうが、それでも類は友を呼ぶのかもしれない、とは思う。事切れた彼女の腹や背中には、無数の焼き傷があった。傷をなぞると、彼女を愛おしくさえ思えるような気がする。


 彼女のカバンをまさぐると、ちょうどライターと玉虫色の煙草の箱があった。開けると、半分ほどの空間がぽっかりと開いていた。

 一本を取って口に咥える。そうして先刻投げたビール缶を拾うともう一本を取って、飲み口に挿した。

 ちょうどひしゃげていたせいで、置くといい感じに煙草が活けられている。

 普段煙草を吸わない僕は火の付け方に少し手間取ったが、僕は二本ともに火を点ける。

 吐いた鈍色の煙が僕の視界を覆い、フワフワと立ち消えていく。

 煙草を吸うのは初めてなはずなのに、咳き込むこともなかった。


 ちらりと部屋に掛けられたモダン調の時計に目を向けると、日付が変わっていた。スマホの画面には僕の生まれた日が表示されている。


「ハッピーバースデー」


 誰からも言われることのなかった言葉を、僕はハッキリと受け取った。嬉しさからか、涙が出た。

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