邪には聖なる力をぶつけよう
姫君は深く、深く沈んでいっていた。水はどこまでも深く、どこまでも潜れそうだった。彼女はゴボゴボと、沈んでいっていた。水面はもう遠い。
いつからこうだったのかと思考を巡らせるも、上手くまとめられなかった。雌狐御前に連れ去られたところで、記憶はぷつりと途切れていた。後はもう、水の中である。
もがいてももがいても出られない水の中。これは現実ではないことは、うっすらとはわかる。しかしどうしようにもできなかった。身体が、言うことを聞いてくれないのだ。
ざぼん。
不意に、水面の方で音がした。誰が入ってきたのかと、目を向ける。あの雌狐か、あるいは雌狐の主に連なる者か。私を連れ出して、どうしようというのか。抵抗できないまま、水底に沈めればいいのに。
だが入ってきた者は、一直線に自分へと進んで来ていた。明確に、己を助けようとしていた。目を凝らす。僧侶の姿だった。ボロボロの袈裟に、ボサボサの髪。見間違えようのない、姿だった。
「ゴボッ」
姫君は手を伸ばした。水に落ちてから、初めて明確に助けを求めた。僧侶が力強く己へと迫る。手を伸ばす。姫君はそれをつかむ。僧侶に委ねる形で、水面を目指し……
「はっ!?」
闇の中に、飛び起きた。思わず周囲を見回す。未だ視界がぼやけているのは、彼女にとっては救いだった。真っ先に目に入ったのは僧侶。ほとんど隣の位置で、いよいよ虫の息になっていた。
「……」
視界がようやく定まってくる。彼女は、自分のやるべきことを考えた。虫の息の僧侶。先ほどの夢。自分の手にある力。明確だった。
「今、お助けいたします」
姫君は僧侶に手を伸ばす。暗中にあってその手は、やはりほのかに光っていた。
***
『いい加減くたばれやぁ!』
悪魔は痺れを切らしつつあった。ただでさえ荒っぽい口調が、いよいよ俗悪なものに成り果てていた。一方鎧武者はといえば、いともたやすく悪魔の錫杖をさばいていた。悪魔が大きな隙を晒すたび、斬り付けてもいた。
しかしいくら身体を斬っても、悪魔は去らなかった。先刻までよりは幾分か弱ったようにも見えるものの、悪魔としてはさらに意気軒昂というありさまだった。やはり悪魔そのものを断たねば、打ち消すことはかなわぬのだろう。もはや状況は根比べへと変わりつつあった。
『くそっ! おうらっ! でえいっ!』
苛立つ悪魔が大振りで錫杖を振るう。しかし苛立てば苛立つほど、鎧武者に隙を与えるばかりだった。心臓へ、臓腑へ、大太刀の突きが襲い掛かる。とうに死している大主教の身体は、いよいよボロ雑巾のようなありさまへと変じていた。
「……っ!」
だが同時に鎧武者も苛立っていた。さもありなん。幾度突き殺そうと、斬り殺そうと、悪魔が操るがゆえに敵は立ち上がってくる。それでいて、脳天からの唐竹割りだけは的確に回避されるのだ。
サバトの中に、明滅がよぎる。それはあまりにも奇妙な現象だった。嬌声が響く中を、怒号と剣戟が切り裂いていく。それでいて嬌声は止まらず、見向きさえもしない。大主教の、薬剤によるものであった。
「っ!」
ギィンッ!
幾度目かの唐竹割りが、錫杖によってまたもさばかれる。悪魔が巧みに錫杖を操り、逆に打ち下ろしてくる。鎧武者はやむをえず、飛び下がって難を逃れた。
『死ね!』
「っ!」
錫杖の尖端が、鎧武者の心臓めがけて突っ込んで来る。体さばきでかわした。すでにもろくなっている大主教の身体は、それだけでつんのめった。そして、そこに突き刺さる声があった。
「悪魔よ消え去れっ! 破邪顕正ッッッ!」
僧侶の大喝。両の手を合わせ、仏に祈るさまはまさに暗中の光。鎧武者ですらわずかに法力に灼かれ、己の一部がまろび出る。しゃれこうべに肉と鎧を貼り付けた、半分死したる醜い素性――
「武者どの、今ぞっ!」
僧侶の声で気を取り直す。幸いにして太刀は、灼かれていない左手にあった。ならば、朽ちる前にやらねばならぬ。
『くそっ、やめろ!』
今や、悪魔は悪魔たるを晒していた。大主教の肉体越しに、その核、脳天を晒していた。逃げようにも法力に縛られ、動けずにいる。鎧武者は、今こそ咆哮した。
「ッッッ!!!」
己に強いる、大音声がこだました。嬌声が、ぷつんと途切れた気がした。しかし些事たるものは関係ない。鎧武者の片腕による剛剣が、今度こそ悪魔の脳天を断ち割った。
『あああああ……。俺っちが、俺っちが
悪魔は死なず、ただ現世より消え去るのみ。しかしそれでも、驚異は去った。時を同じくして、日食も終わりを告げ出した。闇に閉ざされていた洞穴の空間に、わずかながら光が差し込み始めたのだ。
「姫君には少々荷の重い光景が始まりますな。行きましょう」
法力を解いた僧侶が、鎧武者を促す。姫君は、先に空間から出発していた。鎧武者は、己の体を見ていた。先に灼かれたかに見えた半身は、今は元の姿を取り戻している。
「……」
しばし右手を見ていた鎧武者。それでもコクリとうなずき、来た道を戻って来た。
「終わり、ましたな」
僧侶のつぶやきが一つ、饗宴の場に残されていった。
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