まことしやかにささやかれる伝説っていいよね
「ほうか。それはもしやすると、『伝説』に出会ったのやもしれんのう」
無事に村へとたどり着き、食料を届けることに成功した老人と孫娘。村長による、非常にささやかなねぎらいの席。二人が蘭学武装集団とのいきさつを語ると、老人よりも年をとった、村の長老が口を開いた。
「長老。なにかご存知で」
「うむ。蘭学荒野にはとある伝説があるのじゃ」
長老はかたわらにおいていた杖をつき、立ち上がる。伝説じゃから、どこまでが正しいかは眉唾じゃがの、と苦笑いを見せた。しかし彼は、高齢とは思えぬほどの声のハリを見せた。
その者、荒野を彷徨い弱き者を救う
幽鬼のごとく現れ、嵐のごとく戦い、風のごとく去る
常に大鎧を崩さず、その身には陽炎を帯び、顔を見せることはなく
弓、槍、太刀の三種を用いて自在に戦いたり
村の誰もが、息を呑んだ。長老の目には、苦笑いに比して真剣味があった。そして老人と孫娘は、互いに目を見合わせた。彼らが出会った鎧武者は、正しく謡いとそっくりそのままの戦ぶりだった。
「爺ちゃん」
「うむ」
老人は涙していた。おそらく己は、正真正銘『伝説』と遭遇したのだ。あの鎧武者が何者かはわからない。十分な礼も言えていない。だが、己と孫娘を救ってくれた。彼にとっては、それで十分だった。
老人は席を立つ。長老のかたわらに立ち、もう一度伝説を謡った。やがて村の皆が唱和し、夜が更けていく。
こうしてまた一つ、『鎧武者』の伝説が生まれた。おそらくは崇められ、奉られ、やがては蘭学荒野に吹く風の一つとなるのだろう。だが今は、小さな村に共有される、小さな物語でしかなかった。
***
日ノ本のほとんどがそうなってしまった茫漠の蘭学荒野において、座標という言葉は意味を成すのであろうか。ともあれ、蘭学荒野のいずこかに、鎧武者の姿はあった。時代がかった大鎧、腰には大太刀。幽鬼じみた陽炎が、武者の周囲には立ち込めていた。
しかしその恐るべき立ち姿に、勇敢にも話し掛ける者がいた。行商人である。江戸や大坂、長崎で型落ちとなった蘭学物品をさばいたり、時には荒野の行き倒れから頂戴した品を売り回したりする。少なくとも、善性とは言い難い存在だった。
「旦那ぁ、立派な具足ですねぃ」
「そうか」
「しかしちぃと汚れておりまさぁ。どうです。今なら一両で」
「構わぬ」
「であれば、武器を見立てやしょうか。お見受けしたところ」
「くどい」
商人が一方的に取引を持ちかけ、鎧武者がけんもほろろに一蹴する。そんな展開がしばらく続いた。商人は揉み手に美辞麗句、些細なほころびを見出しては鎧武者に願い出る。だが、鎧武者はそのすべてを意に介さなかった。やがて行商人は両の手を広げ、呆れたように訴えた。
「旦那ぁ、これじゃ商売上がったりでさぁ。せっかくの武具が、泣いてしまいます」
「……」
そこで鎧武者の反応が変わった。武者は佩いていた大太刀を抜き、行商人に刀身を見せつけた。先に
「ちょっと、旦那。お気に障ったのなら謝りますから、斬り捨てるのだけは」
「……」
商人はべそをかき、頭を下げる。だが鎧武者は無言のままだった。少ししてから彼は、見せつけられている大太刀へと目を向けた。そこでようやく。彼は、刀がほとんど役割を果たせなくなっていることに気が付いた。
「と、研ぎましょうか。これでも私」
「構うな」
商機を見つけた行商人を、鎧武者はなおも制した。取り付く島のなさに、彼は首を傾げる。しかしここで、商人にとっては心底不可思議なことが起こった。
「ぬんっ」
鎧武者が、小さく声を発するのを聞いた。大太刀を握る手にわずかに力がこもった。気がした。するとボロボロだったはずの刀身が、瞬く間に輝ける宝刀へと戻ったのだ!
「ひっ!」
行商人は、尻餅をついた。不可思議を見た衝撃か、生命の危機への恐怖か。彼自身にもわからなかった。しかし鎧武者は動かなかった。商人は、改めて武者を眺める。その表情は、面頬と兜のせいで読み取れない。
「構うな」
くぐもった声が、彼を制した。それが彼の、記憶を叩いた。時代がかった大鎧、腰に大太刀。幽鬼じみた陽炎。見えぬ顔。くぐもった声。震える声で、彼は武者に問うた。
「あ、あんた。荒野の伝説、さまよえる……」
「……」
彼とて蘭学荒野に生きる者の一人。荒野に吹きすさぶ、幾つかの伝説は聞き及んでいた。しかし鎧武者は、無言のままに馬の手綱を操った。馬はいななき、行商人から走り去る。直後、突然の強風が訪れた。
「おっと……」
当然、行商人は突風から身を守る。この場合は、顔を伏せ、身をかがめた。そうして目が塞がれ、視界を失う。
「……まあ、そりゃそうよな」
風が止み、商人が一息ついた頃。鎧武者の姿はとうにかき消えていた。
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