第一章 縁切り神社の怪異⑨

 風見管理官はいかにもキャリア組らしく頭の切れる人という印象が強かったが、目の前の阿久津はそれとは正反対。

 いや、頭は切れるのかもしれない。ただ、それ以上に普段の気だるそうな様子やだらしない感じが駄目社員……いや駄目刑事の風情を醸していた。

 その阿久津がまさか……。

 ぜんとする亜寿沙に、阿久津は弱ったなぁというように頭をくと面倒くさそうに言うのだ。

「そうだよ。俺も風見と同じ、キャリア組ってやつだ」

「キャリア組!? だ、だとしたらなぜいまも係長を……? あ、いえ、すみません、ちょっと頭が混乱してしまって」

 驚きで声が上手うまく出ない。

 たしかキャリア組は入庁してすぐに警部補になり、そこから時間をおかず警部、警視へととんとん拍子に出世していくはず。

 係長級である警部補のまま、長年とどまっているなんて話は聞いたことがなかった。

 わけがわからずについじっと阿久津の顔を見てしまう亜寿沙の視線に耐えきれなくなったのか、阿久津はまるで怒られた子どものように肩をすぼめると、こそこそとノートパソコンの陰に隠れようとする。

 といっても、さすがに身体全部が隠れられるわけではない。普段、猫背気味だからあまり意識しないが、阿久津も割と長身な部類だ。

「え、ちょっと、なに隠れてるんですかっ」

 思わず席から立ち上がって、亜寿沙は彼のノートパソコンのディスプレイを後ろに引き倒した。

「いやぁ、なんか怒ってるみたいだったから」

 あははと力なく笑う阿久津。

「私は目力が強いんですっ。怒ってなんかいませんっ」

 たしかに気持ちがいてくると目つきがきつくなってしまうのは自覚しているが、それは今後の課題にしておこう。それよりも今知りたいのは阿久津のことだ。

 彼は、パタンとノートパソコンを閉じるとはぁと小さく嘆息した。話したくない、というよりも話すのがおつくうといった様子。

 天井を見上げて少ししゆんじゆんしたあと、ようやくあきらめたように口を開いた。

「元は理事官やってたんだ。警視庁でさ」

「……え」

「でも、とある事件が起きて。俺はその手がかりを探すために降格願いを出して警部補まで降格させてもらって、京都府警に異動してきたんだ。理事官の身分じゃ現場に出る機会なんてほとんどないからな」

「……降格願いなんて出せるんですね。じゃあ、元は風見管理官と同じ警視級だったってことですよね。そこから警部補って……随分派手に降格してますね」

 一階級どころではない降格だ。

「上には前代未聞だって言われたよ。でも、あの事件以来、日中は眠くてだるくてしかたなくてな。体力的にもキャリアの仕事はちょっと無理だったんで、体調面を理由にしたらそれ以上周りも何も言わなくなった。まぁ、俺には今みたいな働き方が気楽でいいよ。人の上に立つ柄じゃない」

 警察社会は厳然たる階級社会。

 ひとつでも階級が上のものには従うのが基本。

 だから、出世を望むものは多い。都道府県警に採用された普通の警察官であってもだ。もちろん、亜寿沙もその一人だった。

 現場を好んで管理職になることを拒む刑事もいるし、そういうのもかっこいいとは思う。

 でも、亜寿沙は少しでも上に上がってみたいと思っていた。

 そのことを疑問に思ったこともなかった。

 そんな亜寿沙たち一介の警察官にとって、キャリア組は雲の上の人にも等しい存在だ。

 それなのにその雲の上から自ら降りることを望む人がいるなんて、考えたこともなかった。

 予想外のことに頭が軽く痛む。その痛みを振り払うようにゆるゆると首を横に振ると、

「信じられません」

 ぽつりとそう吐き出すのが精一杯だった。

「よく言われる」

 阿久津も片方の口端をあげて、どこか他人ひとごとのように言うのだった。

 どちらもそれ以上話す言葉を失ったように黙りこくり、沈黙がのしかかる。

 だまり続けているのは気まずかったが、その沈黙が心を落ち着かせてくれた。

 ようやく亜寿沙は口を開くと、確認するように尋ねた。

「それで、阿久津さんが降格した原因になった事件って、どんな事件だったんですか? その事件の手がかりがこの京都にあるような口ぶりでしたけど」

「……リアリストの君は、言っても絶対信じてくれない自信があるんだけど」

 じっと上目遣いで見られると、亜寿沙の方が阿久津に何か意地悪でもしているような気持ちになってくるからやめてほしい。

 なんでこの人は、こうも上司としての威厳がないのだろう。

「言ってくれないと、今度風見管理官とご飯を食べにいったときに上司が情報を下に伝えてくれないと訴えますよ」

「わかった。わかったよ、言うよ。これを見れば君にも信じてもらえるかな」

 降参というように両手をあげたあと、彼は右腕を亜寿沙に見えるように斜め前に掲げると、ワイシャツのそでをまくり上げた。

 意外にもほどよく筋肉のついたその二の腕に、えん形のあざのようなものがついているのがくっきりと見える。れいな楕円形ではなく、途切れ途切れで歯形のようだ。

「これって、何かにまれたあとですか?」

「そう。三年前に追ってた事件で、どころという容疑者に嚙まれたんだ。当時俺は、警視庁の捜査二課で働いていた。田所は、東京かいわいで五人を食い殺した連続殺人犯だったんだ」

「五人……え、でも、そんな事件ありましたっけ!?」

 三年前なら亜寿沙も既に警官になっている。しかも、連続殺人犯なんていうセンセーショナルな話題ならマスコミでも相当報道されるはずだが、亜寿沙にはそんな事件にも田所という容疑者にも覚えがなかった。

「その現場があまりにせいさんだったこともあって、マスコミ各社には報道規制がかけられたんだ。警察内部でも上層部と捜査に参加した一部の職員にしか知らされていない」

「そこまで厳重な規制がかかるほど凄惨だったんですか……」

 マスコミだけならまだしも、警察内部にまで秘匿にされるなんて相当なものだ。

「ああ。被害者たちは会社帰りのサラリーマンや、警備員、ホームレス……。犯行時刻がどれも深夜で、ガイシャが一人でいるところを襲われていた。俺も事件直後の現場に行ったことがあるが、人間のものと思われる歯形がついた人体があたり一面に散乱していたよ」

 亜寿沙はそこに漂う血や汚物のまじった死臭まで想像してしまい、わずかにけんしわを寄せた。

「しかも被害者の死因は全員同じ。強い力で首を折られて即死していた。そのうえ殺したあとに、食い散らかされていたんだ。あまりの現場の異常さに薬物乱用者による犯行じゃないかって疑われた。だから、殺人を扱う捜査一課と、薬物犯を扱う捜査二課が協力して捜査にあたっていたんだ。俺はその調整役をしていた。やがて捜査の末に、田所という容疑者をしん宿じゆくちようのとあるバーで見つけたわけなんだが」

 小さく嘆息するように息をついて、阿久津は話を続ける。

「ヤツは尋常じゃない身体能力で囲んだ刑事たちを振り切り、数人を殴り倒し、逃亡を図った。誰も田所の足の速さについていけず、発砲した者もいたが止めることはできなかった」

「弾は、当たっていたんですか?」

 こくりと、阿久津はうなずく。

「そのときはわからなかったが、事件が終わったあとに確認したら、田所の背中にはしっかりと鉛玉が貫通した痕があった。それでもヤツは速度を変えず走り続け、一時、俺たちはヤツの消息をつかめなくなった」

「そんな……」

 凶悪な連続殺人犯を発砲までしても取り逃したなんて、もし公になれば大変なことになる。

「警視庁の、いや警察全体の威信をかけてでも田所を捜し出さなければならなかった。だから、さらに多くの警察官が投入されたんだ。俺も、そのときすでに調整役として近くにいたから、すぐに現場に急行した。そして、少し離れた雑居ビルで、裏口のドアがノブごとへし折られているのを見つけたんだ。すぐに人員が集められて、突入することになった」

 ごくりと、亜寿沙はなまつばを飲み込んだ。

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