第29話 セカンド・キス
電話が鳴る――。
止まない――。
うるさい――。
そういった複合的な理由で僕は電話を取る。
「なに……」
『ベランダへ出なさい』
面倒だ――。
どうせ出るまで終わらないのでベッドを抜けてカーテンを開けに行った。
『どう? 見える?』
向かいのベランダから大きく手を振っている。
「見えるけど。なに?」
『マリィ、大きくなったと思わない?』
その腕には黒猫が。それだけの話か。
「三週間も経てば子猫は大きくなるんだよ。それだけなら切るよ」
『ええ。マリィにご飯を上げたらコーヒーを淹れに向かうわ』
今朝も無条件で早起きだ――。
十分後、例によってドアが開くとマリィと紙袋を抱えた田村さんが現れる。
「今日は何を手土産に持ってきたの」
「目ざといわね。昨夜ちょっとパクってきたチョリソーをトーストに合わせようと思って」
「盗んでこないでよ!」
「ウソよ。私の話は半分がウソと言ったでしょう。賞味期限切れだからもらってきたの。あくまで賞味期限よ。消費期限ではないわ。とりあえず冷蔵庫に入れるから、着替えてコーヒーでも待っていなさい」
彼女の朝のテンションは、いちばんに彼女らしいと思う。サラリとウソをかましてとぼけた顔をして見せるのだ。そのウソに翻弄され続けて、もうすぐ一年。
一年――。
母の遺影の前でりんを鳴らして、僕はテーブルに着く。
「どうしたの、顔が真っ白。寝不足なのかしら」
「誰のせいだよ」
「眠りは時間じゃないわ。質よ。質の向上を図りなさい」
ソファーの上のマリィが片目でニャ、と鳴いた。
「ほら、マリィも言ってるわ」
「それよりマリィ、鳴くようになってきたね。そうそうは鳴かないんだけど、時々」
僕はコーヒーカップを手に取る。
「鳴くことに何か抵抗があったのね。でも今はそれから解き放たれている。リラックスしてくれているのよ。だから、最近は見えない左目をこちらに向けて丸くなっている時もある。信頼されている気がしてとても嬉しいわ」
そういう田村さんは愛しいものを見る目でカップを手にする。
一杯目のコーヒーが終わると、彼女はキッチンに立ってソーセージを焼き、トーストを焼く。すっかり見慣れた光景。それが不思議なのだ。いなくなった母と入れ替わるように僕の前へ現れた彼女。
その彼女が不意に、
「私、髪を切ろうと思うの」
皿を二枚テーブルに運んで言った。
「どうして?」
「もう一年近く切ってないんですもの。元々、肩までの髪だったわ。覚えてないの?」
「覚えてるよ」
その髪を風に任せて、フェンスの向こうに立っていたのだ。
「今年は私もお墓参りについて行っていいかしら」
彼女はチョリソーにフォークを刺した。
「――喜ぶと思うよ」
「初子さんなら『喜ぶ』というのとは違う気がするわ。どこか楽しんでいるかも知れない。今の竜崎君と私のことを」
そう言うと、彼女はトーストを前にして静かに泣いた。
「私はあの日、何もできなかった――」
「田村さんのせいじゃないよ。たまたま、田村さんのケータイに電話を入れただけだから」
「たまたまじゃないわ! だったら『真二をよろしく』なんて言わなかった……」
あれから何度かあった。田村さんがこうして自分を責めることが。高校を卒業してからはなかったのに、ここへ来てそれがまた始まった。近づく夏のせいかも知れない。
「僕は、田村さんがいてくれて助かったよ。こんなふうに、誰かと普通に話したり笑ったりできる日が来るって思えなかったから。だから、感謝してるから。食べよう。朝は食べなきゃ元気が出ないから」
「そうね……ゴメンなさい。せっかくパクってきたソーセージですもの」
やっぱり盗んでいたのか。
マリィを連れて部屋へ戻る田村さんが、玄関へ向かう廊下で振り返って、言った。
「私たちは、猫の歳でいえばいくつなのかしら。もしかしてまだ、マリィと同じくらいの歳なのかもしれないと思ったりもするわ。誰かにご飯をもらわなければ生きていけない。小さな子供みたいに――」
彼女のまつげは震えている。
「確かに子供だけど――大人になる覚悟を持てばいいと思うんだ。僕は少なくとも、そのために学校へ通うし、田村さんとたくさん話をする。それじゃ、ダメなの」
すると彼女は驚いた顔で、
「ううん。それでいいわ。それでいい。私たちは大人になるのよね。子供の渦を抜け出して、その半径を大きく伸ばしたフラクタルに。あらゆるものは拡大してゆく。その渦の大きさに負けないために、私たちはムダな経験を重ねて外へ外へと舟を漕ぐ。渦を巻くあらゆる曲線は直線へとつながるフラクタル。いつしか限りなく直線へと近づく未来のために。そのために今の私には竜崎君とマリィが必要。迷う心を導く標が。私はこれからも竜崎君とコーヒーを飲んで、初子さんから受け継いだフラクタルを世界に伸ばしていくのね」
久しぶりに、熱に浮かされたように話した。難しい話は分からなくとも、彼女が今、僕と一緒にいることを望んでいるという事実だけは揺るがない。その気持ちにだけは真っすぐに答えよう。
「田村さん――」
「ええ」
「久しぶりに、キスしてみない」
「いいわ。前よりもずっと長く」
僕は彼女の前へ歩み出て、細い肩を抱いた。一年前から伸びた髪が指に巻きつくように、彼女が僕を離さない。
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