第25話 ウチを使えばいいじゃない


 翌日のカーテンチラチラは早かった。朝の五時だ。いくら何でもやめて欲しい。

 なので放っていると、十分後にドアがニャァと開いた。そのまま寝室へ入ってくる。


「ほらマリィ。これが竜崎真二ですよー。早起きの苦手な大学生。好物はカレーと麻婆豆腐」


 眠気を振り切って布団の中から顔を出すと、田村さんがマリィを抱えて立っていた。


「困るよ……それにまだ早起きの時間じゃない。早起きっていうのは七時に起きることだから。それに――」


「牛乳配達は辞めたわ」


「何か……あったの……」


 眠気で頭が回らない。


「奨学金が下りて少し楽になったから。その代わり、赤たぬきを一時までに延ばしたわ」


 一時までといえば夕方から入って八時間半だ。


「大丈夫なの? その間、また東横さんに頼むの?」


 仕方なく起き上がって頭をかくと、


「昨夜、彼女と会ったらしいわね。予想通り、竜崎君は私の部屋が気になっているはずだから。カーテン越しに着替えのシルエットが見られるかもと――」


「そういうのじゃないよ。心配したんだから」


「あら、ありがとう。それより東横さんとお話ははずんだかしら」


「はずんだも何も、僕の情報教え過ぎだよ。なんだよ、寝る時は右側を下にするって。誤解されたじゃないか」


 東横さんは顔を赤らめていた。


「いいのよ。すべての理解は誤解から始まるものよ。それよりコーヒーが飲みたいわ。自分で勝手にやるからマリィをお願い」


「お願いって――」


「大丈夫。フカフカしたところではじっとしているから」


 言うと彼女はマリィをベッドに乗せた。というか僕の脚の間だ。確かにじっとしているが今度は僕が動けない。どうする。


「さあ、香ばしいキリマンジャロが入ったわ。飲みたい人はこの指と~まれ」


「それより先にマリィをどうにかしてよ」


 彼女がふたたび寝室に入ってくる。


「さあ、マリィ。あなたも本物のコーヒーの香りを覚えるのよ。こちらへ来なさい」


 言うと、寝入っていたようなマリィが伸びをして床に下りた。もう、しつけが行き届いているようだ。


「昨夜はかごの中で小さくなってたけど」


 コーヒーを飲みながら話すと彼女は得意げに、ソファーで丸くなるマリィに目を細める。マリィはマリィで、見えない左目を閉じ、黒くつぶらな右目だけを彼女へ向けている。


「私がいると安心してくれるの。最近は鳴きながら呼んでくれるわ。ニャツコさあん、って」


 後半は思い込みだ。


「それで彼女――東横さんにはそんな深夜までマリィを頼むの?」


「いいえ、十時くらいで帰ってもらってるわ」


「鍵はどうしてるの? まさか合鍵?」


「他にないじゃないの。ウチはオートロックではないし、触っただけで鍵が閉まる変な能力でもない限り」


 お前が言うか、と心が叫んだ。


「こういう言い方はなんだけど、そんなに信用していいの? まだ知り合って間もないんだし」


「彼女は信用できるの。私と同じ匂いがする」


 それは彼女も言っていた。


「匂いって、そんな曖昧なもので?」


「ええ。それは竜崎君、あなたにもあるのよ」


「僕に?」


 訊ねたが、彼女は答えずコーヒーを口に運んだ――。





「次、加持先生の授業かあ。シンジ、取ってるでしょ。行くわよ」


「うん――」


 二郷木さんに背中を叩かれて教室移動をしていると、廊下で限りなく薄い影とすれ違った。東横さんだ。周囲に紛れ込むでもなく浮かび上がるでもなく、ただぽっかりとそこに空間ができているような。


「なに見てんの。教室向こうよ」


 東横さんは何か言いたげにこちらを見たが、二郷木さんに腕を引かれて僕はその場を立ち去る。



 人気講義は前列から席は埋まる。僕と二郷木さんは空いた後ろの席に並ぶ。講義内容は『映像制作演習Ⅰ』。先日の映像課題を、実際に生徒の作品を例題に講義は進む。


 ――「で、ちょっと楽しい作品があった。これは、アニメーションコースの生徒の作品なんだけど」


 スクリーンに、いきなり僕の作ったフィルムが大写しになる。隣で二郷木さんの舌打ちが聞こえた。


 ――「作りとしては、そう奇をてらったものではない。ただ、この作品が優れている点は、女子高生という今どき贅沢な被写体を取り上げながら、ただのポートレートになっていない点だ。様々に変わりゆくシーンの中で、常にその背景に街の風景が映し出されてゆく。一人きりの少女にはその小さな存在を守るのが精いっぱいの街中。それを真摯な視点で優しく切り取り、エンディングの夕焼けのシーンへつないでゆく。街中と雑踏の中では背景に紛れてしまいそうだった被写体が、大きなビルの屋上で最後にその存在を大きく見せつけてくれる。地面一杯に伸びる影が、一人の少女の大きな生命力を感じさせるという、佳作だ。最後に見せる少女の笑顔も、撮影者との信頼関係がよく見て取れる。人物を撮る場合、撮る側と撮られる側の信頼関係というのはとても重要だと覚えていてほしい」


 自分の作品を人前で評価されるというのは緊張より気恥ずかしさの方が先に立ち、自然と背中が曲がってしまった。


 講義が終わると次の授業はシナリオ制作のための『物語序論』。思っていることを言語化するという作業が苦手な僕には天敵の授業で、こういうのは田村さんなんかが向いているのだろうとペンを動かしていた。


 一度、教室に戻ってテキストをバッグへ収めていると、声がする。


「竜崎さん、すごかったですね」


 振り返れば東横さん。今日はちゃんと見える。


「えっと、なんだっけ」


「制作演習です。あの加持先生があんなに褒めるの、珍しいんですって」


 彼女は横分けにした髪を揺らし、両手を胸の前で握る。


「いたんだ――」


「はい。最前列に」


 やっぱり気づかなかった。


「今度よかったら、映像制作の話、聞かせてください」


「話っていっても――」


 いつ、どこで、という言葉が頭を駆け巡る。そこへ、


「ウチを使えばいいじゃない。マリィもきっと喜ぶわ」


 ドアの外に田村さんが立っていた。

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