第10話 キスよ


 彼女に無言で連れて行かれたのは、ありがちな老舗の焼鳥屋だった。学生の身分でカウンターへ並ぶと明らかに浮いた。


「ムネと軟骨と砂肝を二本ずつ。ウーロン茶とレモンハイを頼むわ」


 彼女は白い煙の舞う中、忙しそうな店員に平然とオーダーした。


「ちょっと田村さん。お酒は――」


 僕が戸惑っていると、


「私も二郷木さんと同じなの。高校受験で一浪して、誕生日は四月。もうお酒の飲める歳なのだわ。心配はご無用」


 そうだったのかという気持ちと、今まで知らなかったことへの淋しさが、ないまぜになった。



「それで、何か話があったの?」


 田村さんはレモンハイに口をつけ、


「ええ。話というか、焼き鳥が食べたくなったの。本場の味を知ればお店で生かせるから」


 その勉強熱心な姿勢に尊敬よりも躊躇した。店主も適当なあの居酒屋で、そこまでする必要があるのかと。


「来週はこの並びの居酒屋でまた勉強するわ。揚げ物の加減が難しいの。しばらくはそうやってバイト代をつぎ込んでは食べ歩きするからよろしく」


「僕もつき合うの?」


「嫌なのね。けれど私もうら若い女の身空。おひとり様でグルメ紀行をするのは抵抗が。それに『よう姉ちゃん、一人か』といった類の不逞の輩に絡まれるかも知れないわ」


 ないこともないだろう。


「でも――それじゃ、バイト代の意味がないよ」


「あるわ。スキルアップに意味のないはずがない。私は大学選びも適当な理由で、情報デザインコースというまったく興味のない分野に足を踏み入れたけれども、そこにすら意味はあると思うの。これまでの私は、溢れかえる情報に流される生活を繰り返していた。混乱していたのね。フェンスの向こうで何かを見つけようと必死だったわ。でも情報デザインはそれを分かりやすく整理してくれるというの。私の求めたものはそれだったのかも知れない。私には目標がなかった。けれど今は何かをつかめそうなの。だから、焼き鳥一本ムダにはしたくないのよ」


 彼女がそう言うと、焼き鳥がカウンターに出された。熱々の焼き立てだ。


「ほら。ウチのお店とまったく違うわ。パサパサしていなくて、けれど中までしっかりと焼けている。今から私はその謎を解いてみせる」


 言うと彼女はカウンターの中を真剣に眺め始めた。


「冷凍肉というのは必ずドリップというものが出るの。肉のうまみ成分が。ウチは業者が卸す串の刺さった冷凍肉。解凍すればスカスカ。太刀打ちできるはずはないのよ」


 彼女はレモンハイを減らす。減らしては、


「えーいオヤジ! ネギ間とつくねとレモンハイ!」


「田村さん。飲み過ぎじゃないの」


「いいのよ。二十歳は最強だわ。知ったこっちゃないのよ」


 おそらく酔っている。こちらはウーロン茶でつき合うだけだ――。


「はあ、美味しかったわ。ここは私が払いますです」


「いいよ、割り勘で」


「いいえ。私が誘ったのですもの」




 夜の街を歩く彼女は珍しくご機嫌で、それもまたお酒の酔いのせいなのだろう。


「竜崎君。私、明日には店長へ直談判するわ。焼き鳥だけでも生から串を打つと」


「けど、仕込みとか入ると授業の時間が――」


「大丈夫。上手く授業を組んで必須科目を押さえれば単位も十分に取れるわ」


 そこまでして、という気持ちはある。けれど、こういう時の田村さんは妥協しない。


「それはそうと、飲み過ぎて気分が悪いわ。カフェー竜崎でコロンビアを飲んで帰りたいのだけれど」


「いいけど、歩くよ」


「ええ。覚悟ずみ。ただ悪酔いだわ。やっぱり未成年がお酒なんて飲むものじゃないわね」


「え? だって二郷木さんと一緒だって――」


「ブッブー。それは誕生日の話だけ。まだまだティーンネイジャーよ。それにあんな高校、一浪なんてしないわ。したら笑うわ」


 僕には意外と精いっぱいだったけれど。


「それよりひどいよ。ウソまでついて」


「前に言わなかったかしら。私の話は半分がウソよ」



 言いながらもマンションの前へたどり着く。時刻はもう一時だ。


「コーヒー飲んだら帰るんでしょ」


「そうね。それがいいならそうするわ」


 ソファーへ並んでコーヒーを飲むと、彼女は言った。


「初子さんが今の私たちを見たらどう思うかしら」


 答えられなかった――。




 翌日の朝が来た。鏡の光がカーテンを照らす。電話をかける。


「もう、それいいって」


『知っているわ。けれどやらずにいられない。そんなことよりこちらのベランダを見て』


 気だるくベッドを抜けてベランダのカーテンを開けると、彼女が懸命に何かを振っている。ボードのようなものだ。文字が書いてある。『次は→……』。


(何も計算していなかったのか、先頭が大き過ぎて先が見えない)


「なに? 読めないんだけど」


『そうね。《よ》と《き》と《す》を合わせた三文字よ。じゃあ今日は急ぐからコーヒーはなしで。行ってくるわ』



 二限目の講義で相変わらず不機嫌な二郷木さんと隣り合い、学食へ向かう。朝の一件が気になって講義に集中できなかった。そこへ田村さんが渡君と一緒に現れた。


「やあ、真二君。今日もカレーですか」


 懐具合を考えると、そうなる。しかし渡君も変わらず、かけうどんだろう。何から何まで白が似合う。


「僕は明日香が来てから合流しますので、お先にどうぞ」


 田村さんと取り残された僕は非常に気まずかった。


「あの――あのさ、朝のことなんだけど」


「ええ」


「あれ、なんだったの?」


「ああ。あれね。『キスよ』って書いたの」


 平然と、田村敦子然とした見慣れた顔で答える。


「キス……?」


 動揺している僕へ、


「次はキスの天ぷらを極めたいの。またつき合ってほしいわ。それだけ」


 僕が思うことはひとつきりだった。紛らわしい――。

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