【ボーナス4】「新雪の上を歩く」

 新年二日に電車へ乗り、四十分かけて祖父母の家へ行った。この町には珍しく雪の降る正月で、十センチほど積もった雪を踏みしめて歩いた。


 遺影の母は僕の部屋にある写真よりも翳があり、なんだかよそよそしかった。僕はりんを鳴らして手を合わせ、年を取らないベレー帽の彼女におめでとうと呟いた。


 居間へ移ると賑やかに広げられた御節を前にして、学校のことや、それから相変わらずマンションのことを訊ねられた。出る気はないのかと。


 僕はここぞとばかりに父の名を持ち出して、そういう時だけ利用して、大学卒業までは居座ることにした。ローンは毎月、父の口座から引き落とされているようだった。そればかりか、父はこちらの方へは顔を出していたらしい。


 ――「真二、あんたが苦労することないんだから」


 祖母の言う苦労が何なのかは分からなかったけれど、僕は苦労をしているつもりはない。むしろ、楽な方を選んでいるだけだ。


 それきり進まない話の中でお茶を二杯飲み、立ち上がってコートを羽織ると玄関へ向かった。新年で物入りだろうともらったお年玉には三万円も入っていて少し驚いた。老人の金銭感覚はどこかおかしいのだろう。



 はらはらとやまない雪の中、ポケットへ手を入れて駅まで歩いていると電話が震えた。田村さんからだった。


「もしもし、おめでとう」


『ああそうね、おめでとう。お正月を忘れるくらいのビッグイベントに浸ってて忘れてたわ。実はね私、今、家出をしてるの』


 よく分からなかった。今年も軸がぶれていない。僕は歩みを止めない。


「外出の間違いじゃなくて?」


『ええ。家出よ。昨日から校舎に泊っているの、四階の美術室。窓から雪景色を見下ろしながら食べるカップラーメンはお雑煮以上の美味さだったわ。お雑煮といえば、お正月にゾウが二頭で食べるものは何でしょう?』


 いきなりなぞなぞになった。しかも答えが出ている。


『雑煮だと思ったでしょ。ブッブー。答えはエサよ。ゾウは雑煮なんて食べない。飼育係さんもやらないわ』


「どうでもいいよ。それより家出ってなに。ホントに学校にいるの」


『そうよ。昨日の夕方、竜崎君の家に泊りに行くと言って出たきりよ。出たきり雀』


 ウソのアリバイがおかしい。


「それで、要件は? 僕、志津浜駅から帰るとこなんだけど」


『外出中なのね。ちょうどいいわ、学校まで来て。きっと楽しいことがあるわ』


 きっと決定事項だ――。




 何が悲しくて新年の学校へ顔を出すのかと、それより何より制服じゃないことに気づいた。が、ウチは通信の生徒もいるので堂々としていれば大丈夫かも知れないと、すでに思考が田村さん寄りになっている自分を恨めしく思ったりもした。


 正月にも出勤している教師がいることに心を痛めたりしながら、そうなると敵も大人数ではないだろうと上履きに履き替えて校舎の四階を目指した。見つかったら、「テキストを机に忘れていた」というありきたりな言い訳も用意して。


 美術室の窓は薄く曇っていて中はよく見えない。僕は立て付けの悪いことで有名なそのドアを極力ゆっくりと開ける。


「誰もいないわよ」


 背後からの声に驚いて振り向くと、制服姿の田村さんが立っていた。


「脅かさないでよ」


「それより私服なんて。竜崎君、意外と心臓に毛が生えているのね」


「外出中だったんだって。どうでもいいから説明してよ」


「トイレに行っていただけよ」


「そういうことじゃなくて――」


「とにかく入りましょ。寒いわ」


 美術室は驚くことに程よく暖まっていた。


「電気ストーブがあるの。たったそれだけでも空気は暖まるわ。何より、設備の充実度は化学実験室と並ぶ美術室。ひと晩を越しても困ることはなかったの」


 彼女は平然と椅子に座る。


「泊ったって。なんでそんなことしたの。それに見つかったら停学ものだよ」


「そうね。でも停学でもいいの。私はこの校舎に記憶と記録を残したかっただけ」


 屋上のフェンスを越えて騒ぎになる以上に、記憶と記録が必要だろうか。


「そういうこともあると思うけど。わざわざお正月を選ばなくても」


「いいえ。お正月を選んだ訳じゃないわ。年末からの寒波と天気予報で選んだの。雪がね、見たかったのよ」


 一週間前に遭難した人間のセリフじゃない。


「言いたいことは分かるわ。あれはもうこりごり。ただ、学校でなくとも、温暖なこの町では雪が積もる光景なんてそう見られないんですもの。校舎から見下ろせば、きっとそれは素敵な記憶として心に焼きつくはずよ」


「ってことは、もう念願叶った訳でしょ。また雪が強くならないうちに――」


「屋上がまだよ」


「まだって。上がるつもりなの?」


「屋上マニアの私が断言するわ。そこには神秘の扉と、たぶん白銀の桃源郷が待ち構えているわ。行きましょう。私、そのために竜崎君を呼び出したんですもの」


 彼女は椅子から立ち上がると教室のドアへ向かった。




 いともたやすく開いた屋上へのドアは、冷たい風が吹き込む中、白の世界を見せてくれた。雪山とは違う、どこまでも真っすぐな、平らな雪の絨毯。


「思った通り。ここは屋上の処女地。未だかつてこの屋上で、新雪を踏んで歩いた人間が何人いたかしら。でもまだよ竜崎君。あなたは右に、私は左に。振り向いたら死ぬわよ。フェンスへ向かって直線で進むの。いい、直線よ。」


 遠足の引率をする小学校の担任の口調で、彼女は足を踏み出した。途端、滑って転んだ。


「やられたわ。上履きがこんなに滑りやすいとは。これは便所のサンダルと同じものとみなさなければならないようね。いいこと竜崎君。行進は細心の注意を払って行うものとするわ。では、レディゴー」


 何もなかった顔で立ち上がると、彼女は屋上に積もる新雪の上を歩き始めた。慎重に、小さな歩幅で。


「竜崎君。あなたもよ」


「はあ……」


 仕方なくの体でつき合い、向こうのフェンスを目指して歩き始めた。なるほど、気を抜くと滑ってしまう。


「竜崎君、知ってる。雪の結晶というのはフラクタルなの。長く伸びた結晶の横に枝が生えて、またその枝に新しい枝が伸びる。溶けることさえ、地上に舞い落ちることさえなければ、雪の結晶は限りなくフラクタルに枝を伸ばし続けるの。今の私たちは、この屋上に真っすぐな足跡を残している。やがて消えゆくキャンバスの上に、足跡を残してゆく」


 彼女は危ういバランスの中で両腕を水平に広げながら雪上を歩く。


「それは学校という閉ざされた空間の中で、静かに育まれてゆくフラクタルなの。巣立っていった先輩たちとはどこか違う道をたどり、さらにそこから枝分かれする私たちのフラクタル。今は新雪に足跡をつけるのが精いっぱい。けれど、道は無限に伸びてゆくわ。そのすべてを選び取ることはできなくとも、選び取った一本の道が、何かを作り上げるためのかけがえのない足跡になれば素敵だと思わない? 私はいつか、世界を作り上げる自己相似性の中に、自分だけの一部を持ちたいと思うわ」


 フェンスまでたどり着くと、彼女と僕は振り向いた。


「あら、ちっとも真っすぐじゃないわ。でも平気。今から私は、この足跡を亡き者にするまで蹂躙するのだから」


 言うと、でたらめに歩き始めた。十一回転んだ頃に飽きたのか、息を真っ白にして、ドアの前にいた僕のところへやって来た。


「戻りましょう。見せたいものがあるの」



 暖かな美術室に戻ってようやく、身体が冷えていたことに気づく。


 田村さんは電気ストーブの上で湯気を立てているヤカンを手に、


「カフェー竜崎のマスターには申し訳ないけれど、今はインスタントで我慢していただくわ」


 紙カップを二つ並べてお湯を注いだ。その一つを手渡してくれた。


「ありがとう」


 そして不意に、


「竜崎君は美術部に知り合いはいるの」


「いや、いないと思うけど」


「そう――。部長の佐伯瑠花さんて方が二組にいるわ。最近知ったんだけれど、その人は初子さんの絵が好きだったらしいわ。もちろん今も好きよ、きっと。その人の絵が裏にあるの。見てみる?」


 彼女は僕の返事を待たずに教室の棚の裏へ向かった。


「ちょっと待って。今、出すから。なかなか大きな作品よ」


 彼女は棚に何枚も収められたキャンバスの中から一枚を取り出して見せる。


「どうかしら。竜崎君はどう思う」


 彼女が見せてくれたのは、両腕を広げないと持てないくらいのキャンバスで、そこには海をゆく二隻のヨットがあった。色はほぼ青と白だけ。母がいつも悪戦苦闘していた空の青。それが油絵の荒いタッチではあるが、確かに彼女を思わせる色遣いで、大きく描かれていた。


「私は絵のことを似ている、いないで判別することは愚かだと思うけれど、この絵は初子さんとよく似た波長のようなものを感じるの」


「僕も……言われれば母さんの絵に近い気がする」


「そう。なら見せてよかったわ。きっとこれを描いた佐伯瑠花さんは初子さんのフラクタルなのよ。初子さんが大きく伸ばした枝に生まれた小さな枝。それがやがて大きくなれば、彼女にもまた枝が生える。そういうものだと思うの」


 僕は今一度、その絵を眺める。どこか温もりのある青は、いつも母さんが苦心していた青だ。彼女をそういうふうに理解してくれていた人がこの学校にいたという事実が嬉しかった。


「田村さん。まさか、これを見せてくれるために家出したの?」


「あるといえば、あるわ」


「ないといえば、ないの?」


「私、あれを作ってみたいの。豚ロース肉と白菜が花びらのように重ね敷き詰められて、土鍋で煮込まれるヤツ」


「まさか、家に来るの?」


「家出は二日の予定よ。準備は大丈夫。まずはスーパーに寄って、帰ったら本物のコーヒーを飲まなければいけないわ」


「急に来るのは困るよ」


「私、冬休みの課題は終わっているわよ。それで手を打ちましょう」



 今年初の田村さんの晩メシが決まったところで、僕はすでに土鍋を出す算段を立て始める。いい年になるようにと祈る前に、彼女はまた家へやって来る。

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