第26話 フラクタル


 朝になり、シーツに包まっていると感覚で分かった。彼女が裸でいることを。それはまるで――。


 僕は気づかぬふりでベッドを抜ける。彼女は気づかぬふりで眠り続けている。


 コーヒーを淹れた。一杯分だけ。カップを手に母の仕事机へ向かい、ゆっくりと飲む。すると気配がする。彼女の――。


「おはよう。今日は早いのね」


 起き出したのなら言いたいことがあった。


「僕も――男だから。そういうことはやめてほしいんだけど。僕にはその経験がある。それがどれほど心地よいか知っているんだ。だからそう言う真似をされると困るんだよ。田村さんだって女なんだから」


 まだ怖くて、後ろを向かずに言った。不意に首筋に触れられ、身体の一部が反応する。


「私のこと、慰みものでいいと言ったの、ウソだったことにして。今は違う。大事に、大事にしてくれるのなら好きにしてもいいわ」


 指先が肩へ下りる。両肩が抱かれる。それはまるで――。


「どこまで下りて探しても、その思いは同じ形をしているのよ。同じ心が永遠に続く、それはフラクタルだわ」


 彼女の香りが身体を包み込む。まるで母のように――。


「やめて! もうやめてよ! 僕はもう思い出さないんだ! それは見えない、触れられない、耳にも届かない、香りもない、味わえない、そんなものになってしまったんだから! 君のこと、信頼したのに……友達だって、思えたのに……」


 彼女は巻きつけた腕を離さない。吐息が熱く首筋に当たる。それだけでもう僕は思い出してしまう。その最中の彼女のすべてを。身体が溶けてなくなりそうな幸せを。


「それは、友達だといけないことなのね。じゃあ私、友達をやめるわ。そしたら竜崎君の何になろうかしら。それは自由だわ。姉、妹、従姉妹、叔母、他人、恋人――」


 思い切りその腕を振り払った。振り返ると彼女は服を着ている。青いワンピース。


「そういうことじゃないんだ……僕は……君が母さんに見えてくる前に、どうにかしてしまいたいんだ……お願いだからこれ以上かき混ぜないで、頭の中を……」


 田村敦子は振りほどかれた腕をもう一度しっかりと肩へ回し、


「(真二――)すべて受け止めるのよ。世界はもう一つじゃないの。それでもなお、ヒトの生の歴史の中で役割だけは一つきりなのよ。受け入れなければ」


 巻きついた腕にしがみつけば時は過去へと加速する。落下してゆくように、飲み込まれるように――。



 コーヒーを淹れたのは彼女だ。両脚の間から初血ういけつを流したあとに。


「いい感じに入ったと思うわ。今すごく香りに敏感になっているみたい。シーツを洗わなければならないわね。それは私がやるわ。今は一緒にコーヒーを飲ませて」


 午前の、雨をすり抜けて射してくる光に霞んだ部屋の中――その部屋が一つ色を変えた気がした。大切な記憶が一握り指の隙間を滑り落ちたのだと。新たな記憶の代わりに。


 彼女がシーツを剥がして洗濯機へ向かった。気まずさはなかった。元々、なんらかの距離があったのだから。


 ――「本当に血が流れるものなのね。私、シャワーを浴びて来るわ」


 服を脱ぎ捨て、裸のままで言った。それはまるで彼女のように。



「いろいろと言ってみたいことがあるわ。私はおかしいのかと思ったのよ。痛みというものがまるきりなかったから。それからあなたの汗が甘く感じた。普通、汗は塩からいものよ。どうしてだったのかしら」


 僕は冷めたコーヒーを持て余している。


「どうなったの……」


「なにが?」


「友達をやめた君は……」


「それはそう、愛玩動物のよう。新しい名前をつけてもいいわ。好きに呼んでちょうだい。そうね。いちばん好きな名前」


「初ちゃん……そう呼んでた……」


 彼女は押し黙るかと思わせておいて、振り絞る声でこう告げた。


「あなたがもしもこの世でいちばんに大切なものをそう呼んでいたのだとしたら、私は今から泣くわ――」


 そう言って、もう泣いていた。


 涙はどこまでもフラクタル。愛する時にも、愛せなくなった時にも。踏み出す先は何でもいい。新しくもなく、古くもなく、永遠もなく、瞬間もなく、闇もなく、ただ残した罪の重さだけ、残した者に降り積もる、形の残らぬ、自己相似の歴史のパズル。


「すべての死が慰めをよすがに消滅へ向かっているのなら私は生きたりしない。きっと初子さんは何らかの理由で死んだのではないわ。あるとすれば、この世でいちばん大切な者に、この世でいちばん変わらないものを伝えるため――」


 永久とこしえに続く螺旋階段を持て余して人は命を繋ぐ。それよりも今は、ただひたすらに今を繋ぎたい。その重さは、あの彼女と――この彼女が今も教えてくれる。小さくとも、大きくとも、同じ形の思いはあるのだと。誰かへと向かう心の爪痕は残るのだと――。



 夏休みが明けると、彼女は屋上へ上るのをやめた。その代わり週に一度、家へ晩メシを作りに来る。コーヒーを入れて飲む。その積み重ねは何を目指してゆくだろう。 

 希望を持つのは時に残酷なのかも知れない。だとして僕は、これからもそれなしでは生きてゆけない。いつかフェンスを越える瞬間が来るからこその日々を、僕はどう生きよう。しばらくは続くだろう、彼女との触れあいの中で。

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