【ボーナス1】「冬山で遭難という様式美」
年末恒例のスキー合宿に来ていた。参加は自由だったが、クリスマス、年末年始と予定のない僕は参加することに決めていた。その話をすると田村さんも、
――「受けて立つわ」
とスノーボードで参加することになった。なったのだが――。
「田村さん! もうやばいって! すでにバックカントリー状態なんだから!」
「とはいえ私、真っすぐしか滑れないのよ」
「転んで! いいから転んで!」
僕は木の枝を避けながら、次第に強くなる雪の中で彼女を追っていた。
「竜崎君――」
「なに! 聞こえない!」
「もうすぐ転ぶわ。だって目の前に大木が――」
ズン、と鈍い音がして、彼女のウェアのピンク色がはじけ飛んだ。
「田村さーん!」
彼女はボードも足から外れて坂道を転げ落ちてゆく。
「田村さんってばあ!」
彼女はギリギリで目視できる範囲の距離にいるが動かない。
「まずいよ……救助を……」
が、ケータイが繋がらない。どれくらい滑降しただろう。ロッジまで四百メートルはあるのではないか。雪はすでに吹雪いている。日も暮れ始める時間だ。それより――。
「田村さん!」
僕はストックを刺しながら急な斜面を下りてゆく。けれど彼女は動かない。両足を投げ出してうつ伏せに倒れている。そこまでたどり着くのに五分かかった。気の遠くなる五分だった。
「田村さん! しっかりして!」
身体を揺するとうめき声が聞こえた。
「田村さん? 大丈夫?」
「ここは――」
起き上がった彼女は「ううっ」と声を上げ、右ひざを押さえた。
「ケガしてるの?」
「分からない」
「立てる?」
「分からない」
木にぶつかった衝撃か、頭がぼんやりしているようだ。
「とにかく戻らなきゃ――」
と言ってから気づいた。戻る道が分からなくなっていることに。見えるのは白の世界。
「やばいよ、電話も全然つながらない。田村さん、勝手に動かないで!」
言うと、彼女は立ち上がった姿勢で訊ねてきた。
「ところであなた、誰」
「誰って……僕だよ。竜崎――」
「なに竜崎?」
普通は逆だ。
「竜崎真二だって。クラスメイトの」
「ゴメンなさい。分からないの。私、なんでこんなところにいるのかしら」
「なんでって――スノボでコース外れて落ちてきたんだよ」
「スノボ。私、そんなものが出来るのね。もしかしてオリンピックに出たことあるかしら」
彼女の言動は以前からおかしいが、今回は何か違う。
「田村さん……自分が誰だか分かってる?」
「私は……誰でしょう。根幹的な問い。あなた哲学が好きなのね」
「ふざけてる場合じゃないんだって! このままじゃ――」
「ええ。それは分かる。このままじゃ私たち死ぬわ」
一メートル進むのに三秒かかる。五メートル進むと不安になる。これはどこへ向かっているのだろうかと。完璧に遭難したパターンだ。
「とにかく上に登らなきゃいけないんだよ。降りてきたんだから」
が、ウェアの袖を引くものがある。
「竜崎氏、いいかしら。どうやら私は上手く歩けませんでした」
「田村さん、やっぱりケガしてるの? ああ、どうしよう。周りも見えない電話も通じない。この寒さ、ウェアだけじゃ持たないよ」
すると彼女がまた袖を引く。
「そこに何かあるわ。きっと回復ポイントのようなものが」
言っている意味は分からないが、スマホのライトを向けると人工物が見えた。急いでそこへ向かう。
「これって――」
厚く雪を被ってはいるが、石造りの小屋だ、遅れてやってきた彼女がやや誇らしげに言ってみせる。
「ほらね」
「でも……ダメだ。ドアが開かない。すごい頑丈そうな鍵がかかってる」
凍える指でガチャガチャと引っ張ってみても、鍵もドアも開かなかった。
「見せてもらえるかしら――」
言うと田村さんは重い南京錠を手にした。瞬間、ガチャリと音がする。
「開いたわ。これ幸いと逃げ込みましょう」
屋上の鍵もこうやって開けていたのだろうか。
中に入るともちろん真っ暗で、スマホの灯りで周囲を照らした。壁に、何やら線のようなものが這っている。
「田村さん、何かある?」
「……」
「屋根が低くて頭が当たりそうだよ。田村さんは大丈夫?」
「……」
返事がないので心配してライトを向けると、ものすごく心細げな顔で立っていた。
「田村さん?」
また悲しそうだ。
「さっきから呼んでいるタムラサンというのはもしかしなくとも私の名前なの? 私、そんなダサい名前だったの? せっかくなら小鳥が遊んでタカナシとかコムラサキとか、そういうのがよかったわ」
「悪いけど、田村敦子だよ」
「やだ! 平凡!」
軽く重症だ。
一通り右側の壁を探ってゆくと、最後にドアの横へたどり着いた。
「あれ……これって」
生活の上でよく見かける壁の出っ張りを押すと、途端に明るくなった。天井の隅でランプが光っている。
「なんだよ、電気通ってるんじゃないか。とりあえずドア閉めてもいいよね」
「それにしても人間の順応ぶり。見知らぬ家に土足で上がりこめる神経」
「非常事態なんだよ。仕方ないだろ。それよりケガは大丈夫なの?」
言うと彼女は、
「ケガ……。ああ、してるようなしてないような。たぶん、血が出るようなケガではないわ。打撲か骨折ね」
さらりと言い切った。
「さすがに折れてたら歩けないよ。下、座ってたら。なんていうんだろこれ、むしろ?」
「ゴザね。子供の頃、その上でおままごとをしたものよ」
「子供の頃は覚えてるの?」
「……今思い出したわ。きっかけがあればきっと思い出せるのよ」
今はどうでもいい。あとは先生に連絡さえ、と思った時、ランプの下の小さな三段ボックスにどこかで見覚えのあるものを見つけた。丸く数字がプリントされた黒い物体。ソースはたぶん小学生の時に見た『むかしのくらし』という教材。
「田村さん、あれって電話じゃない?」
「そう……だったかしら。思い出せないわ」
「とにかくかけてみよう。まず先生の番号出して――」
0、8、0――指先大に穴の開いた数字を一つずつ押してゆく。しかし何も起きない。
「おかしいな。これが確か――あ、こうだ! こっちを耳に当てて押すんだよ。公衆電話と一緒だ」
「……」
が、電話は一向に繋がらない。
「ダメだ。電気が来てるから大丈夫だと思ったんだけど。やっぱり電波が届いてない」
「……」
「くそっ。どうしたらいいんだろ」
田村さんは座った姿勢で震えている。
「寒いよね。何か温まりそうなものがあればいいんだけど」
すると彼女が言う。
「あるわ」
指さす方向を見ると、コンクリートの床にもう一つゴザを敷いたような場所がある。よく見れば白い煙が出ている。
「何あれ――」
「竜崎氏の目は意外にふしあなさん。入ってきた時からやけに湿気を感じてたわ。この寒さの中で」
「湿気って?」
「温泉。たぶんね。温泉が湧いてるのよ」
慌てて駆け寄ってゴザをはがすと、温かい湯気が立ち上った。指先を浸けると熱いお湯だった。
「ホントだ! 温泉だよ!」
「けれど喜べない訳が」
「い……いや、見たりしないから」
「そうではなくて。そもそも温泉なんて着替えとタオルが必要なのよ。着替えはなく
ともタオルは必要。でなければせっかく温まって外へ出ても拭くものがなくて寒くなってまた入って、出ては入り、入りは出て、無限ループの罠。それでも喜んでいられる?」
それもそうだ。タオルがあったとして、こんな衝立もない場所でのんびりと温泉に浸かれるはずはない。
「とはいえ、温まる方法はあるわ」
「どんな?」
「足湯ね。お互いウェアはセパレート。それを脱いでインナーだけになれば足ぐらい浸かれるわ。頭寒足熱、足が温まれば身体も温まる。それが良策では」
という提案に乗り、足先を熱いお湯に浸けているのが今の僕と彼女だ。
「すっごく熱いんだけど」
「外気で冷えていたせいよ。実際は四十一度から二度。適温だわ。すぐに慣れる」
確かに言われると慣れてきて心地よい。しかしドアの外からは風の音が絶え間なく聞こえる。
「皆、心配してないかな。捜索とか出てたらどうしよう」
「あの吹雪でさすがに捜索は出ないわ」
「落ち着いてるんだね」
「こういう時は朝になると吹雪がやむと相場が決まっているの」
冗談でもなさそうに言った。続いて、
「それに、あなたといると心が落ち着くの。ふざけて二人でお風呂に入った時を思い出して。あっ」
…………。
長い沈黙があった。
「田村さん。最初から気づいてたよね」
「な、なんのことかしら」
「記憶がなくなったフリとか。こういう非常時にどうしてそういう悪ふざけするんだよ」
「……恥ずかしかったから」
彼女は斜め下を見つめて呟いた。
「恥ずかしいって、何が?」
「木に……思いきりぶつかってしまったんだもの。我ながらひどいざまだったわ」
僕らは夜通し話をした。学校のこと、進路のこと、そして亡くなった母さんのことを。
「初子さんは、スキー上手かったのかしら」
「運動は全然。ただ、歩くのだけはどこまでも歩いたよ。取材のせいだって」
「私も、今後は歩くだけにするわ。滑るのはバナナの皮だけで十分」
いい加減に足湯にも疲れてゴザの上へ転がった時、突然ドアが開いた。午前六時。僕も彼女も慌てて外を見る。
「アンタら! ここで勝手に何やってんだ!」
熊でも撃ちにきた格好のオジさんが怒っている。
「あの、僕らスキー場から離れて、遭難しかけて、電話も通じなくて。その――」
「電話が通じない?」
言うとオジさんは中へと進み出て、黒い電話を手にした。丸い穴に指を突っ込んでくるりと回す。回すのだ――。
「あー。石屋の堀口です。そちらのロッジのお客で学生さんが二人、行方不明になってないですか。ああ、はい。たぶん。石屋の方まで迎えをお願いします」
チン、と電話を置くと、
「通じるじゃないか。心配してたぞ」
田村さんが僕から目をそらした。
それから僕らは明るくなるのを待ち、迎えを待ってリフトへ向かった。田村さんはレスキュー隊員に背負われ、ロッジではこっぴどく叱られた。
帰りのバス――。
「田村さん。もしかしてあの電話のかけ方知ってたんじゃないの」
すると彼女は窓の方へ目をやりながら、
「恥ずかしいかと思って――」
「そういう事態じゃなかったろ」
「だって、助けはいつでも呼べたもの。なるだけ竜崎君とあそこにいたかったのよ」
今夜はゆっくりと風呂に浸かりたいと思った。
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