第8話 境界線

 二人で黙り込んでいた。もちろん、ベッドではない。リビングだ。


「竜崎君、引っ越したりはしないの」


「したくない――」


「ローンとか、大変じゃないの」


「そういうのは母さんのお爺ちゃんがやってくれてるから。って、もう帰ってくれていいんだけど」


 彼女は勝手にテレビをつける。能天気にバラエティへチャンネルを変えた。


「午後十時半の闇夜に高三女子を放り出すつもりなの。それにまだまだ話は続くわ。なぜ私が五月のあの日に屋上のフェンスを越えたかという話や」


 それは確かに聞いていない。誰も知らない。聞いていいものか分からなかった。訊ねて欲しいのだろうか。


「どうしてなの――」


「それは言えないわ」


 言えないのか。


「でも、今から気持ちの整理をして、五分ないし十分の間に話しましょう」


 それから彼女はテレビバラエティを見て大笑いしていた。


「ああ、おかしかった。オチャノコの斉藤のボケは一級品ね」


「それで、話の方は」


「ん、なんのこと?」


「……もういい。帰って」


「ウソよ。話の半分ウソだから。あれはそう、命の境界線というものを確かめたかったの。あれを踏み出せばほぼ確実に死ぬ。けれど躊躇っている間は生きている。それは踏み出した瞬間に決まるのか、それとも落下中か、頭が地面に触れた瞬間か、脳みそがグチャグチャに――ゴメンなさい、そういう表現は控えるわ。身体がダメージを受けて脳波が止まった時なのか。よく脳死の人間を人格と見なすかという論争があるけれど、あれはどうなのかしら。脳が停止している本人からしてみれば余計なお世話なのかしら。それすら考えることができないとしても。ドナーカードのように脳死になった瞬間に生命維持装置を外してくださいカードってあるのかしらね。どう思う、竜崎君」


 どうにもこうにもだ。


「後半は置いておいて――」


「おいでおいで?」


「いや、おいといて――」


「ふっ、ウソよ。分かってる」


「……だから、そういうことを試したくなった動機だよ。そいう意味での『どうして』ってこと」


 彼女はコーヒーを欲しがった。流れで淹れざるを得ない。そうしないと答えてくれそうにないからだ。



「はい。それで」


「ありがと。コーヒーを飲むと眠くなるわ」


 ならどうして。


「私も親戚のオバさんがなくなったばかりだったの。子供の頃から優しくしてもらったわ。一年前から胃がんで入院しててあちこち転移してたのね。最後にお見舞いに行って三週間後に亡くなったわ。悲しくてね。どうにかオバさんが本当は今もどこかで元気にしている可能性はないか、いろんな怪しいサイトや宗教のことを調べたわ。けれど知っている以上のことは何も見つからなかった。だから私は死に直面してみることにしたの。もしかしたらその瞬間、魂というものがあるならば別の器に入れ替えられるんじゃないかって。だからこだわったの。死は意思決定をした瞬間に決まるのか、首つりならロープが首をしめて誰一人気づかないというシチュエーションで決まるのか、身体のダメージなのか。どこでこの世からいなくなってしまうのか。誰かに聞いたわ。脳は微弱な電気信号のパルスで働いているって、だからいずれコンピュータがその役目を果たせるようになるって。でもそれは逆に普通の人の意識が、消えたら元に戻らないことを意味しているのよ。悲しいかな現代において、私たちにはバックアップメモリはないのよ。無に還るという言い方があるけれど、そもそも私たちは無だったのかさえ怪しいわ」


 彼女は深刻な顔つきでその先を続ける。


「私、寝てないのよ――」


 寝ればいいのに。帰って。


「言いたいことは分かるわ。でも初子さんがなくなった日から私、一睡もしていないの。そう思い込んでいるだけで本当は寝ているとかじゃなく、まったく眠っていないの。十日間。人の脳はそういうことに耐え得るのかしら。私は――激昂されるのを覚悟で言うのだけれど、彼女の魂がここに宿った気がしてならないの。『私の代わりに真二を』って託されたことの意味がそこにあると思ったの」


 信用するだの怒るだのという話ではなかった。ただ悲しかった。この部屋にいることの悲しさを紛らわしてくれる相手ならと思っていたけれど、またあの苛立ちだけが僕を支配し始める。


「親御さんに来てもらって。そして帰って。明日からは僕に話しかけないで。もう屋上には行かないから」


「待って! 私の言葉は昔から他人を絶妙に苛立たせてしまうの。友達もいないの。電子レンジで無意味に――ムダに温められてしまうポテトサラダみたいに。でも私はいつかポテトサラダだけは温めない電子レンジを開発するから。なぜなら人の歴史は反省と克服の歴史だから」

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