第7話 私の代わりに――

「それで、本当にパジャマなんだけど。どうするの」


「まだ九時半。高校生の九時半は宵の口よ。私からは話すことが少し、見てみたいものが一つ」


「僕からは訊きたいことが一つだけ」


「じゃあどうぞ」



 母が淹れるのと同じコーヒーを――僕は母のカップで、田村さんには来客用で出した。あれ以来、僕は母のカップと彼女の箸と茶碗と、彼女の歯ブラシを使っている。


「どうして母さんから電話が――いや、どうして母さんは田村さんの番号を知ってたの」


「それは初子さんに私が教えてたからよ」


「それがどうしてかって――」


「ウチに来たの。初子さんが。謹慎中に。例の事件で『お話が聞きたい』って。ウチの母、意外とミーハーなので。絵本作家さんと聞いて嬉しそうに招き入れて。向こうはいろいろと盛り上がっていたわ。ちなみに今夜も『竜崎君の胃袋をつかんできます』と伝えたら『頑張るのよ』と送り出してくれましたとさ」


 子が子なら、か。


「母さんは――。母さんとは何を話したの」


「竜崎君のことばかりよ。食べ物は子供っぽいものが好きだと。夜更かしで寝起きは悪いと。マッサージが上手くなってきていることと、美味しいコーヒーを淹れてくれること。それと――」


 彼女はコーヒーをふた口飲み、


「美味しいわ。それと最後に、『真二をよろしく』と」


「母さんがそう言ったの? 田村さんは、それから母さんと何回会ったの? 電話したの?」


「会ったのはそれきりよ。ただ、亡くなった日の午後一時に電話が」


 直前の話だ。それをどうして彼女に。という疑問はどうでもよかった。彼女はそこで何を聞いたのか。


「フラクタル――。そう言って切れたわ。初めて聞く言葉でなぞなぞかしらと思って、ネットで検索したわ。フラフラとかクタクタとかフニャフニャルとか何度も間違えて『もしかしてフラクタル?』って出たからああそうだって。見たら小難しくて、きっと『私の一部が世界の全部ってことね』って理解したの。誤解したかも知れないけれど。『自己相似』って言われても、自分の身体の中に小さい私がウヨウヨいるみたいで想像したらしばらくゾワゾワして気持ち悪かったわ。赤血球が私の顔で二酸化炭素を運んでるのよ。卵細胞の一つ一つが私の顔になったところでもうやめたわ。男の子だったら大変よね。精子って億単位なんでしょ? それが全部自分の顔だとすれば」


 半分は聞いて損した。


「声の感じとか、そういうのはどうだったの? 暗かったとか重かったとか、思い詰めた感じだったとか」


「フラクタル、って言う単語だけでそこまで感情込められる人がいたらそっちの方がすごいわ。あえていうなら『どうだい上手くやってるかい』っていうのを知らない外国語で聞いた感じよ。だから少なくとも暗くはなかったわ。まさか、そのあとすぐ――」


 目を伏せた彼女に、もう質問は出来ない。代わりに彼女が、


「この間お線香を上げたのは仕事部屋だったんでしょ。寝室というのを見てみたいの」


「見て、どうするの」


「いえ、意味はないわ。強いて言えば、会えなくなって初めて初子さんのことを知りたくなっただけよ。嫌なら遠慮するわ」


「いいけど。ベッド以外何もない部屋だよ」


「いいわ」



 抵抗がないでもなかったが、寝室へ案内した。第一声、


「驚いたわ、黒い壁なんて。それで竜崎君、ここで寝ているのね」


「僕の寝床は自分の部屋だよ」


「たった今朝まで誰かが寝ていたことくらい分かるわ。それにおかしいことでもない。初子さんのこと、好きだったんでしょ」


 しかし彼女が言う「好き」は意味合いが違う。僕は彼女が大好きだった。女性として。


 黙っている僕へ、彼女は白いダブルベッドと黒い壁をじっくりと眺めて、軽く息を吸って告げた。


「謝ることがあるの。さっき言葉が足りなかったわ。私、初子さんに、『私の代わりに真二をよろしく』って、そう言われたの。代わりなの。どうしたらいいのかしら。それはきっと、竜崎君と一緒に寝なさいってことなんでしょう」

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