第5話 恋人

 母は僕の恋人だった。例え話ではなく。父がこのマンションを出て行ったのもきっとそのせいだ。


 夜は一緒にベッドで眠ったし、お風呂も入った。キスもしたし抱き合ったりもした。僕が中学三年生の時からだ。僕は彼女の仕事の合間にコーヒーを淹れることとソファーの上でマッサージをすることが至上の悦びだった。彼女のために尽くすのが何より好きだった。


「真二。私たちがやがてこの世から消えて世界だけが残ってゆくことをどう思う。あなたの残したポテトサラダへの不満や、目に見えて残ってゆく影響力。誰かの心の思い出。確かめたくてももう、確かめたいという心さえ存在しない、世界にあなたはまだ消え残っているのにあなただけがそれを感じない、感じるという概念さえない、概念におけるなら数学的に座標はあっても存在することのない小さな点、無という存在になることを、今しか想像出来ない死後のあなたのことを、あなたは今しか慰められないの。そういう意味であなたには生きていてほしい。私からの心からの願いよ。希望よ」


 彼女の不思議な寝物語は、いつも柔らかに緩やかに僕を眠りに誘った。話の中身はどうでもよかった。深く重い水底で聞こえるような、その声の温もりだけに安心して、僕は眠りについていた。





 月曜日――。今日も補習が終わる。そして屋上は暑い。延々とあと十日は続く前期補習。



 雲も雨も忘れた空がこの町だけを局地的に照らしている。山の向こうには発達した積乱雲。けれどこの町へは届かない雨雲。僕はコーラを飲みながら土砂降りのスコールを待つ。フェンス越しの彼女は今日はいない。


「コーラを買ってきたわ」


 田村敦子が来た――。今日は階段から。


「もう飲んでるよ」


「じゃあ、それと取り替えなさい。私が竜崎君の飲んでいるのをもらうわ。私は男子が飲んだコーラに間接キスをしても気にはならない体質だから。こっちが冷えているし」


「いいよ。別に冷えてなくて」


「そう」


 言うと彼女は突然踊り始めた。腰を落として激しく腕を上下している。


「開けるわよ。覚悟しなさい」


 言うと彼女はキャップを捻った。心なしか僕の方へ向けて。


 途端、コーラの水柱が吹き上がる。


「何してくれてんだよ」


 頭にもシャツにもかぶった。


「私、今日も竜崎君のマンションへ行くわ」


「もう来ないでって言ったろ」


「フライパンを忘れているの。お気に入りの」


「明日、学校に持って来るよ」


「恥ずかしいわよ。調理部でもない男子生徒がフライパンを抱えて学校へ登校するなんて。私が警察なら職務質問するわ。誰を殴るつもりだね、って。だから私が取りに行くわ。ついでに生姜焼きの材料も持って」


 田村敦子が面倒くさいのは知っていたけれど、ここまでとは思っていなかった。


「だからさ。そういうのをやめてほしいって言ってるんだよ。僕は親を亡くしてまだ十日、気持ちが落ち着かないんだ。そっとしておいてほしいんだ。頼むよ」


 田村敦子は困り顔という珍しい表情を見せ、フェンスへ走り、よじ登った。薄いピンクだった。


「だって、お母さんに頼まれたわ。竜崎君のことを頼むって」


「誰のお母さんだよ」


 彼女は振り向けない首を無理にひねって、


「竜崎君のお母さんよ。他にいないでしょ」


「そういう冗談、二度と言わないで」


「冗談じゃないわ。電話があったんですもの。初子さんから」


 彼女は片手でフェンスにしがみついたままスマホを取り出す。金網の隙間から後ろ手にそれを見せた。


「私、冗談ばかりで生きてるけれど、悪い冗談は好きじゃないの。わきまえているつもりよ」


 僕は上履きを滑らせ、ザリザリと音を立ててフェンスに向かう。場合によっては彼女の身体を突き落とすつもりで。


「初子さんの着信履歴。それくらい、アドレス見なくても分かるでしょう。生姜焼きを食べたらお話をしましょう。今夜こそパジャマが必要になるわ。バスタオルは貸してね」



 憂うつの始まりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る