第3話 消極的無神論

 九時からの補習が終わり、午後は特別補習を受ける連中だけの時間だ。今日のコーラは地上で飲もうと決めた。南中時刻を回ったばかりで見下ろしてくる太陽に挑んだイカロスの気分でコーラのキャップを開けた。噴き出しはしない。昨日は温くなり過ぎたのだ。


 ぐんと首を逸らせて、暑さと爽快さを一気に手にした。日陰は嫌いだ。ただそれだけで気分が鬱屈とする。肌を焼いて汗を流して、僕は表通りを行く。


「竜崎君――」


 微かな声が降ってくる。空から。


「ファンタ――」


 肌を焼いた後の冷たい階段の空気は好きだ――。





「百五十円だよ」


 僕は屋上まで上がったが、まだ田村敦子はフェンスの外にいる。


「今夜の麻婆豆腐と相殺して。食べたら二本あげたくなるから」


「置いとくよ。ぬるくなっても知らないから。それに来なくていい」


 今日こそ冷たいコーラを喉へ流す。体内まで熱くなった細胞が瞬時に冷やされてゆく。高校生に許され得るギリギリの快感だ。


 彼女は今日も短い紺色のスカートを舞わせている。突き出した赤みがかった白い二本の脚。黄色い上履き。緑のフェンス。青くなくもない空。


「――いしょっと」


 フェンスを揺らして彼女がよじ上ってくる。今日は水色。遠くの空と同じ。


「フェンスとファンタって似てなくもない」


 質問だろうか。


「そんな訳はないわね」


 質問ではなかった。


「補習終ったなら帰ればいいのに」


「竜崎君はどうしてここにいるの」


 言われると思った。


「暑いの、好きだから」


「変ってるのね」


「田村さんに言われたくない」


 二人で屋上に立って背中を向けている。僕はコーラを飲む。彼女はファンタを飲む。


「私は消極的無神論者――」


 分からないことを言い始めたので黙っておく。


「この世を造りし絶対的神の存在は信じられないけれども、そのことを公言は出来ない。それを信じる誰かに面と向かって否定もしない、出来ない。あるのは私の中で神のない世界が回っている真実だけ。そのことを話すのは竜崎君が初めて。例えば死のあとに待つ世界の存在も信じない。けれど私が生きた記憶の消滅も認めない。私の直接的、間接的な遺伝子は私の肉体の消滅後も全宇宙に影響を及ぼす。なのにそれを確認する術があるという世界を信用出来ない。例えば宗教」


「フラクタル――」


「なにそれ全然違う」


「僕の中の細胞の消滅の先にやがては肉体の消滅があり、地球規模の消滅があり、太陽系、銀河系、全宇宙、やがて次元系そのものの消滅がやって来る。その逆をミクロに辿ればそれはフラクタル。無駄死にはどこにもない。人間はいつか生まれた記憶に辿り着く……と思う」


「次元系が消滅するなら無駄死にじゃない。竜崎君の言うそれはフラクタルじゃない。フラクタルに絶望はない。あるのは失望。永遠に続く失望感。今夜の議題はそれにしましょう。私は麻婆豆腐の準備があるので先に帰るわ。鍵をちょうだい」


「無理だよ」


「言い方が悪かったわ。合鍵をちょうだい」


「あってもやだよ」


「そうなると麻婆豆腐の完成は午後十一時頃。パジャマの準備もいるわ。それじゃああとで。なるべく早く帰るのよ」


 お母さんのような言葉を残して彼女は去って行った。




 抜けるような青空が見たい。あの日、窓から見えた空はそんな色だった。彼女はそんな青を見上げながら意識を保ったまま落ちていったのだろうか。だとすれば、自由落下しながら見上げる空の色は加速度的に色を変えただろうか。ドップラー効果のように。いつもいつも空を描くのが苦手だと青の絵具を買い込んで、壁をアクリル絵の具で三分の二ほど埋め尽くした彼女。彼女がまだ恋しい。

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