ヤオヨロズの神々

山本楽志

ヤオヨロズの神々


 けたたましいベルの音であたしは目を覚ます。

 朝の七時六分前、寝起きの気分は相変わらず最悪。

 通算八百六十万飛んで三十六回目の四月二十八日水曜日。

 あたしは、今、現在絶賛進行中の日常ループものの主人公をやっている。

 なにを根拠に? どうして主人公だってわかるんだ? 図々しい?

 悪いけど、そういうニワカなつっこみはやめてもらえない?

 こちとら八百六十万飛んで三十六回四月二十八日をくり返してんだからね。

 せめて千回も同じ日をやってごらんよ。自分が主人公だって考えないとやってらんなくなるから。

 ちなみに、あたふたと過ごした最初の何百回だかと、カウント方法を思いつくまで無駄にした何十回かは数えそこなっているし、単純に寝て起きたときに回数を確認するだけの方法だから間違えは何万回とあるに決まってるから、この数は正確なものじゃありませんのであしからず。

 なんて考えているうちにも朝の準備は進む。

 胃が重い。

 前の日に、八百六十万飛んで三十五日目のことではなくて、八百六十万飛んで三十六回くり返している四月二十八日の前の日、つまり四月二十七日だ。仕事でむかつくことがあったから、やけ食いしちゃったんだよね。焼肉。

 タン豚バラハラミハラミカルビロースミノテッチャンロースロース玉子スープと、ご飯とか冷麺はなし。体のことも考えないとね。店を出て、まだ早かったしむかつきもおさまってなかったから、行きつけの居酒屋にはしごして、そこでは基本ビールとワインで、あっ、でもお好み焼きがおいしい店だから、入ったからには頼まなくちゃウソなんだ。ホッケは失敗だったなあ。そんでやっと気分も落ち着いてきたから、このままお開きって感じでラーメンでしめ。

 おかげでまだおなかはパンパン。目が覚めるたびに満腹。目覚めのよくない理由のひとつ。

 こんな感じだから、別に一日くらい断食したってなんてことない。なにしろ寝て起きたら、また四月二十八日、前の日に、八百六十万飛んで三十五回目の日じゃなくて、四月二十七日にどか喰いしているおかげで、満腹感はもどってくる。一日食べなくてなんてことないってことは、何日だって食べなくてもなんてことないってこと。それでいつくらいの頃だったかな、六百日くらいなにも食べないで過ごしたことがあったのよ。

 面倒だったし、それどころじゃなかったし。

 そしたら、食事するってこと自体を忘れかけちゃったのよ。

 それにふと気づいて、もしかしたら、これはいけないんじゃないかなと思って、久しぶりにご飯に行ったわけ。奮発してフランス料理。これが大失敗。普段食べ慣れてないっていうのもあったけど、頭が混乱してその場で動けなくなっちゃった。

 嘘だと思うなら、一度やってみたらいいよ。二年間絶食してからフランス料理。ソースに舌が触れただけで、頭の中で稲妻が落ちるんだから。

 とにかく、そうしたわけで、意味なくったって軽めの朝食でも無理に流し込むことにしてんの。

 八百六十万飛んで三十六日目を迎えた四月二十八日水曜日の、八百六十万飛んで三十六日前の仕事帰りに買っておいたフレッシュなパック牛乳をグラスに注いで、こちらは八百六十万飛んで三十六日前には賞味期限を二日ほど過ぎていた食パンをトーストにして、初夏に足を踏み入れかけた、嫌になるくらいの燦々とした日射しを受けつつ胃に流し込む。

 そんでから出勤。


 やっぱり変わることのない、すし詰めの通勤ラッシュの車両に身をすべり込ませる。

 座るために時間をずらしたり、違う車両にしてみたりも試したことがあるけど、乗換駅でもない私鉄の半端な最寄りだと、一時間は早く家を出なくちゃ意味がない。

 ただでさえ胸やけでむかむかしてるところで、そんな面倒はごめん。

 だから、今は痴漢の被害に遭うことのないスペースで静かにやり過ごすようにしている。

 この朝のラッシュは、あたしにとって最大の虚無の時間なんだよね。

 死ぬほど見飽きた中吊り広告に、隙間なく埋める同乗者の顔、頭、背中といった、代わり映えのしないするわけのない光景に囲まれて、身動きもとれず、ただ二十三分十七秒、目的駅に運ばれるまでを待ち受ける。

 隣で、この混雑の中でも、几帳面に折りたたんだ新聞を読んでいる、四十がらみのおっさんの、肩からのぞくその記事の内容はおろか、そのおっさんのもみあげに混ざっている白髪の数まで正確に覚えてしまっていることに気づいたときには、真剣に死にたくなった。

 あたしって、こうしておっさんの白髪の数だけを記憶に留めて一生を終えるのかなって。

 いや、死ねないんだけどさ。

 だから、通勤電車の中では、できるだけなにも見ない、なにも考えないようにしている。

 すると、かえって思い出しちゃうのは、こんなことになってしまった当日のこと。

 八百六十万飛んで三十六日前の朝、いや、その前の試行錯誤があったからさらに前……

 あーっ! もういいでしょ? 日本だとヤオヨロズでたくさんって意味なんでしょ? あたしは、今となったら、そのヤオヨロズよりもたくさん四月二十八日やりなおしてんだからさ。

 とにかくそのヤオヨロズ日前、あたしは目を覚ましたら、自分が前日と同じ四月二十八日にいることに気がついたんだ。

 どうやって? なんて聞かないでほしい。テレビだったかもしれないし、携帯だったかもしれないし、もしかしたら連休初日だと思っていたところで、会社から呼び出しを受けて気づいたのかもしれないし。

 とにかくずっと以前のことだから、記憶はあやふやどころか跡形もないくらいなの。時間にしたら、同じ今日の、ほんの一時間前のことなんだけど。

 四月二十七日のことは、つい昨日のことのように思い出せるのに、不公平な話だよね。

 例えば、朝起きてテレビをつけたら、ニュースをやっているわけ。

『中ロ国境に集結しつつある両国軍の対峙は、二十八日を迎えても双方ともに撤退の動きを見せず、むしろ時間の経つごとに緊張の度合いを高めております……』

 NHKから民放まで、全部のキャスターのセリフから口調まで覚えちゃったよ。そっくりなんだから、本当に。

 前に会社で、ものまねしたらみんなに感心されたけど、

「すごい! どうしてそんなにうまいの?」

 っていわれたから、それっきりやってない。

 世界は四月二十八日で止まっている。正確にいうなら、四月二十八日という一日二十四時間だけを延々くり返している。

 人も物も、二十九日に足をかけた瞬間にすべてがリセットされて、二十八日のはじめに引き戻される。

 位置、状態、そして記憶でさえ。

 ひびの入ったカップはくっついて、粉々に砕けた窓ガラスはひとかけの破片さえ残すことなく元の姿を取り戻す。雲でさえまったく同じ形で空に張りついている。生き物であっても、ケガは完治して、息も吹き返す。人間だって、そのあたりは変わらない。どうしてそんなこと知っているかは聞かないでほしい。

 あらゆるものは四月二十八日午前0時にあった位置にもどり、記憶の配列も四月二十八日以前の状態にもどる。

 圧縮された空気の抜ける音が響き、次々に乗客が吐き出される。いつもと同じ顔をした人々にならって、あたしも後に続く。JRとの連絡のある乗換駅、勤め先のある駅。ようやく虚無の終わり。

 といっても、電車を降りたからって、なにかが変わるわけでもない。通勤ラッシュにもまれ、追い越し追い越されしても、その時横目で見えるのは、いつかどこかで見た顔、見た反応ばかりだ。

 だれもが四月二十八日を知らぬ顔でくり返している。それはそうだ、実際に知らないのだから。

 まわりを囲むみんなにとっては、四月二十八日は新しい、まだ見ぬ一日なのだ。たとえ、それが数えきれないくらいにくり返された日だとしても。

 例外はあたしと、

「おはようございます、杵築きずきさん」

 この女だけだった。


 神宮かみやなぎはいけすかない女だ。

 話す声は快活で、言葉は明朗、しゃべる際は必ず相手の目に自分のダークブラウンの瞳をまっすぐ向けて、笑みは絶やさずそれがわざとらしくならない程度に節度も守っている。

 その笑顔は、普段はぱっちりと開く眼を細め、薄い唇をほころばせて、小鼻を軽く膨らませるところに愛嬌もある。

 男はもちろん、女子グループからも覚えは悪くない、まったく非の打ちどころもない女だ。

 唯一にして最大の欠点の、あたしがこいつを大嫌いだってことを除けば。

 肩まである長い髪が嫌い。

 それを仕事中はまとめているのが嫌い。

 二重まぶたの目が嫌い。

 すらりと長い鼻が嫌い。

 アルトの低い声が嫌い。

 あたしより頭ひとつ高い身長が嫌い。

 その癖、あたしと同じ体重が嫌い。

 ひとつひとつが嫌いなわけじゃない。それどころか、もし仮に、まったく同じ顔形で、背格好も同じ、声も、考え方だって同じだったとしたって、神宮和という名前がついていなければ、こんな嫌悪感を抱いていないかもしれない。

 逆もまたしかりで神宮という苗字にも、和という名前にも、悪い印象はひとつもない。なんだったら同姓同名の神宮和っていう人が別にいたら、結構仲良くなれるかもしれない。

 でもダメ、どういったところで、あたしの同い年の後輩にあたる、この神宮和が一切許容できないっていう事実に変わりはないんだから。

 どうして?

 そんなこと、あたしも知ったこっちゃない。

 そもそも人を嫌いになるのに理由なんて必要かな。

 生理的嫌悪なんだからしかたがない。

 無理。受けつけない。

「悪い子じゃないんだけど」

 なんて感想も出てこない。気持ち悪いやつ。

 よりによって、そんな女が、延々と続く果てしもしれずくり返している四月二十八日を、同じように認識している、この世にたったひとりの共有者だなんて、絶望しか覚えない。


「おはようございます、杵築さん。今日もいいお天気ですね」

 改札を出たところで待ち構えていた神宮は、あたしが完璧に無視したことを気にも留めず、挨拶をくり返すだけでは飽き足らないでそう付け足しまでしてきた。

 お天気なのは、おまえの頭だ。

 四月二十八日は快晴、そんなことはわかりきっているの。いったい何度くり返したと思っている。雨どころか、曇り空のひとつも、このヤオヨロズの間、ざっとでも二万年は見ていない。

「たまにはにわか雨でも降ってほしいけどね」

「あっ、そうですね!」

 口もとに手を当てて、いかにも驚いた顔をして見せる。

 わざとらしい!

 こういう女なのだ、神宮和は。

 初めて一般から社員募集をかけて入社してきたときから、神経を逆なでするようなことばかりしてくる。

 あたし? あたしは親戚のおじさん――祖父の妹の息子らしいけど、なんて続柄にあたるかは知らない。から、おじさんで通している――が会社を立ち上げるってときに、たまたま短大の卒業を控えて就職が決まってなくて、とっていた簿記の資格を見込まれて経理の仕事をまかされ、創立メンバーに入れてもらった。

 つまり縁故採用だけど、ただの縁故採用じゃない。

 そのあたしに、最初からなれなれしく話しかけてきては、あちこちついてまわってきた。

 神宮和は四年制の大学出ての入社だから、あたしの方が二年先輩にあたるけど、学年でいえば同級生で、おまけにあたしが四月一日なんていう冗談みたいな誕生日だから、ギリギリの早生まれで年齢はいっこ下みたいなもんだ。

 それを知ってるくせに、なにかっていうとあたしにつきまとってくる。

 ほんとにいやなやつ。


 駅から会社までは徒歩五分。

 立地条件だけが自慢の、くたびれた雑居ビルの三階と四階がわが社のオフィスとなっている。

 その間も神宮和はずっとしゃべり通しだ。でも、その内容ときたら、これまでさんざん聞かされてきたこと、こたえようのないこと、こたえたくないことばかり。だから、あたしはずっと黙っている。

 通勤ラッシュの虚無から、この神宮和と歩く間の短い虚無を経て、次の虚無へと、地続きでつながる空疎へと足を掛ける。

 仕事だ。

 経理事務として座り慣れた、といいたいところだが、このヤオヨロズ生活に入る直前の年度の変わり目に、おじさんがなにを思い立ってかオフィスの調度を一新したため、まだ到着して一月も経っていないデスクに向かい、椅子に腰かける。この二万年ほどの間。

 そこからは、自分の名前よりもよほど多く目にしてきた数字と向き合うことになる。本日の最終的な数値はもちろん、昨日までの歳入に支出、借入金からあがってきた領収書などなどといった、途中経過まで含めてすべての数字が頭の中に入っている。

 それを順番にパソコンに打ち込んでいく。答えを知っている数字を、ひとつひとつ、どうせ明日には、寝て起きてもう一度くり返す今日には、すべて消えてしまっているデータをこしらえていく。

 それでも数字を、コンピュータを相手にしている分にはまだ納得もいく。保存忘れの悲劇は、あたしだって覚えがある。

 でも、受け容れにくいのは人間だ。

 人間には感情がある分、数式とは異なって、インプットは同じでも、その情報の与え方でアウトプットは違ってくると期待してしまう。

那美ナミちゃん、これもお願い」

 総務の高科部長が十時八分に領収書を手にあたしのデスクを訪れる。

 超のつくほどの車好きで、なにかっていうと愛車自慢をはじめて、スマホで撮りまくっている代わり映えのしない写真を延々見せられる。

 あたしなんかはまだましな方で、営業の杉内君なんて学生時代に動画作成をしていたなんて面接でいっちゃったもんだから、ことあるごとに休日返上で呼び出されては、方々連れまわされて撮影・編集、そして鑑賞までさせられている。

 そんな部長だから、持ってきた領収書も最近つけかえたアシストグリップの代金。社用車ではもちろんないうえに、通勤車ですらない愛車用だ。今日にはじまったことでもないけど、多少は気にしてるのか、「ボクらはどこでも仕事できるようにしておかないといけないだろ」を口癖にして、なにかっていうと予防線にもならない予防線を張っている。

 公私混同の極みだけれども、例えばここでどんな断り方をしてみても、食い下がり方が多少変わってくるくらいで、反応の根本が変化するわけじゃない。

 人間っていうのは、よっぽど突拍子もない事態に出くわさない限りは、その場でできる反応の数は喜怒哀楽で、せいぜいのところそれぞれ四、五種類、多くても十を越えることは、まあないらしい。

 そして、そのよっぽどな状況を前にして、出てくる反応の種類はさらに少ない。おまけに、自分の手に負えないとなれば、放棄にかかってくる。

 例えば、あたしがここで机に置いている一輪挿しやペン立てをウィケットに見立てて、もらいものの高崎のマスコットたか丸くんぬいぐるみをボール代わりに投げたって、「俺だってこれでも昔は東伊豆のブラッドマンと呼ばれた男だ」なんていいながら鞄から折り畳み傘を取り出してバットに見立てて臨時の社内クリケット大会決勝戦が開始されるわけもなく、あっけにとられた部長が、言葉もなく経理課を後にするだけだ。

 クリケットでなくたって、ラクロスでもセパタクローでもシュラークバルでも、それがソサイチだってセスタ・プンタだってペサパッロだってタンブレリだってブズカシだって、反応は変わりはしない。

 折角、こっちが、これはこうしたらどうだろう、ああいってみたらどうだろうと、なにかの変化、大きく状況が動きだすような変化がないかと、さんざん頭をひねって探ってみたって、返ってくるパターンが決まり切っていたら労力払って考えることがばかばかしくなってくる。

 仮になにか、まったく思いもしなかった反応を引き出せたとしても、それは結局それだけの話だ。

 クリケットの選手がひとり増えたとしても、チーム結成なんて夢のまた夢、そしてそれがきっかけで、このいまいましい同じ日のくり返しから解き放たれるなんて、まったく妄想にも足の掛からないはかない話だった。

 時間さえあればまた別だろうが、一ベンチャー企業の縁故入社員ひとりがなにを騒ぎたてたところで、四月二十八日の一日だけでは、同じ雑居ビルの別のフロアのオフィスにさえ届かない。

 二十四時間じゃ蝶のはばたきが竜巻になったりはしないのだ。

 だから、ここ何千年かは、気持ちの平穏のためにも、ルーティン作業をできるだけ効率よく進めることだけを心掛けて、高科部長のお願いもかかってくる種々の電話も、最も波風を立てない対応を行うようにしていた。

 ゴールデンウイークの直前ということもあって、たいしたトラブルもなく、午前中の仕事は正午の少し前に区切りがつく。

「杵築さん、お昼ごいっしょしてもよろしいですか?」

 すると、見計らったように、神宮和が声をかけてくる。

 あたしが黙って席を立つと、神宮和も黙ったままあとに従う、これ見よがしに二人分のランチボックスの入った包みを提げながら。


 このくり返しがはじまって、どれくらい経った頃だったかな、ラーメン屋の玄関で神宮かみやなぎとばったり出くわしたんだ。

杵築きずきさん、今日はお昼こちらですか?」

 神宮和のセリフのステレオタイプ。これが入店前だったら、まだみかじめ料の集金だとか解答に選択肢もあるが、しっかり食べ終わった後では、

「そうだけど」

 としかいいようもない。

「前から思ってたんですけど、杵築さんてお弁当は作らないんです?」

「作るわけないじゃない」

 もともと外食派で自室にはろくに食材の備蓄のないところに、ゴールデンウイークには高校からの腐れ縁の友人と旅行にいく計画を立てていたから、冷蔵庫はほとんどからっぽで、仮に作りたくたって作れないというのが実状だった。

「ということはもしかしてお昼は」

「もちろん、ずっと外よ」

 決まりきった話を、わざわざ持ちだしてくるデリカシーのなさ。

「そんな、体を壊しちゃいますよ」

 壊れるわけないでしょ。

 同じ四月二十八日のくり返しで、なにを食べようと、食べないでさえいても日をまたげば四月二十七日の二十三時五十九分五十九秒の状態にもどるのに。

 食べたという事実がなくなるんだから、どんなにまずいものを食べようが、劇物、毒物を飲み込もうが、仮にそれで命を落としたって、意識が消えた次の瞬間には四月二十八日の朝七時六分前の自室のふとんの中で目を覚まして、コンディションだって元通りだ。

 つくづくどんな体をしているんだろうね。

 でも、その体を調べてもらおうたって、実はあたしは二万年ほど同じ一日をくり返してましてと打ち明ければ、案内されるのは心療内科で、それだって初回のカウンセリングが関の山。脳波測定なんかの計測はまた後日となるに決まってる。それじゃあ間に合わないんだと大暴れしてみても、おとなしくするようにと個室に入れられて、処方されたお薬を飲めば、また自分の部屋で目覚ましのベルに起こされて新しい四月二十八日を迎えたことを知るって結果になるに決まってる。

 数えきれないくらい体験しているんだからまちがいない。

 それを同じ境遇の神宮和が知らないわけがない。

 なのに、いかにも気づいていないという顔でいるのだから、あたしもどう返答してやろうかと言葉を探しあぐねていたところで、

「あの、よかったら、明日から杵築さんの分もいっしょに作ってきたら、迷惑ですか?」

 そんな追い討ちをしかけてきたのだった。

 あぜんとした。

 あらためて、この神宮和がなにを考えているのかわからなくなった。

 たったふたりで取り残されているこの四月二十八日のなかで、嫌われているってわかってる相手に、よりにもよって弁当を作ってくるなんて提案する? 気持ち悪すぎるだろう。

 今思い出したって吐きそうだ。

『ふざけないで!』

 けれども、喉もとまで出かかった言葉を、あたしは咄嗟に飲み込んでいた。

「そう? じゃあ、悪いけど、お願いするわ」

 そしてかわりに口をついたのは、頭の中を渦巻いている感情とは似ても似つかない返事だった。

 その次の日も、延々とそれまでもくり返されてきた同じ四月二十八日には違いなかったが、たったひとつ、神宮和があたしの分まで含めて弁当を作ってきていたことだけが異なっていた。


 唐突になにか悪い霊に取り憑かれたとか、春の陽気と狂気に誘われたというわけじゃないからね。

 もしかしたら、この無限に続く四月二十八日を乗り越えるきっかけになるんじゃないかと思っただけ。

「わかってるでしょうけど、あたしが頼んだんじゃないんだからね」

「はい、私が杵築さんにお願いしているんです」

 会社が入っているビルの裏手の公園で、アカシアの木の下に設えられたベンチに腰を下ろすなりあたしは念押しをしておくが、神宮和はにこにこと相好を崩しながら、カバンに入っていたランチボックスのうちのひとつをあたしに手渡してくる。

 まったくわかった気配がない。

 いまさら神宮和の無頓着をとがめたところではじまらない。

 黙って受け取り、さっさと蓋を開ける。

 この時間、この公園には、うちの社の面々が絶対に来ないとはわかってはいるが、だからといって神宮和といっしょにいたいわけでは断固としてない。

 両手で包めるサイズのランチボックスには、半分にふりかけをまぶしたご飯を詰め、もう半分にきんぴら、たまご焼き、焼き魚、それにプチトマトとブロッコリーが彩りを添えていた。

 きんぴらを口にふくむと、甘辛く煮込まれた味の奥から、具材が香ってくる。

 なにもあたしはにんじんやごぼうが、今の極限的な状況から解放してくれると思っているわけじゃない。それだったら、本当にキまっちゃってる。

 そうではなく、神宮和の作ってきた弁当を食べること自体がなにかのきっかけにならないかと思ったのだ。

 同じ一日に延々閉ざされている状況はもちろん異常だが、四月二十八日という時間の流れという視点からすれば、それに乗り損ねているあたしや神宮和が異常ともとれる。

 そして、あたしと神宮和もまた、完ぺきに別個の人間なのだから、この異常な空間では、さらに異なるベクトルの個体が得手勝手に行動していることになる。これは正常な、少なくとも落ち着いた状態ではないだろう。

 だとしたら、その異常に異常を重ねてみたらどうなるだろうか。現状にほころびを起こすきっかけくらいになってくれるんじゃないだろうか。

 そう思って神宮和の申し出を受け入れたのだが、自分を取り巻くこの世界より先に、あたし自身がまいってしまいそうだった。

 想像した以上に、気に沿わない相手の料理を詰め込むというのは大変だ。

 いくら噛み砕いても、口のなかのものが喉にまでいかない。そもそも噛むのですら大変な苦労がある。

 神宮和の弁当を食べていると、土を頬張って、砂を噛んでいるような感じしか覚えない。自販機で買ったペットボトルのお茶でさえ泥水をすすっている気になってくる。

 まったく涙ぐましい努力だと思う。

 おまけに神宮和は、毎日献立を変えてきた。少なくとも、思い返してみてもすぐに記憶の底からサルベージできないくらいのスパンでしか、同じおかずを入れなかった。

「近くに、提携の農家さんのお野菜を仕入れているコンビニエンスストアがありまして、毎朝、そちらで買わせていただいているんです」

 なにが嬉しいのか、顔をほころばせながらそんなことを得意げにいってくる。おかげで、あたしは慣れることすらできない。

 そして、悪いことには、こうした懸命な、尊い労力を払って、神宮和の作ってきたものを喉の奥に詰め込む作業をはじめてかなりな日数が経過しているというのに、肝心の成果がまるでともなっていなかった。


 午後からは胃の中に落ち込んだ神宮和の弁当の消化に全精力が払われることになる。

 なにしろ昨晩の胸やけがやっと少し落ち着きだしたところに、異物が転がり込んでくるのだ。

 あたしはこみ上げてきそうになる吐き気と懸命に戦いながら、ディスプレイに向かいキーボードを打ちつける。午前の、徹底した合理主義はかなぐり捨てて、とにかく正気を保つのが精いっぱいだ。

「だ、大丈夫かい、那美ちゃん……」

 ようやく、おずおずと経理課のボス巽小路課長が口を開く。

「大丈夫ってなにがですか?」

 なにしろ、わが社でも指折りの気の弱い人だから、あたしのいら立ち半分、八つ当たり半分の返答で、すっかり怖気づいてしまう。

「い、いや、具合が、さ、その……、良くなさそう、そう、だから……」

「大丈夫です! 全然悪くありませんから」

「そ、そうかな……」

「大丈夫です!」

 去年四十を越えた恐妻家の課長が振り絞って発した勇気は、あたしの大丈夫の活用で粉々に打ち砕かれて、もうそれ以上は仕事の指示でさえ口を開くのを憚るようになってしまう。

 それからは、とにかく胃の中との格闘を行ううちに、飛び込みの追加も、アクシデントもなく定時をややまわっての午後五時三十七分、席を外していた課長が待ち構えているあたしたちのもとに、ほとんど体を半分に折り曲げるほどに身を小さくして帰ってきて、ゴールデンウイーク前の業務は終了となる。

 あたしには関係ないけど。


 会社を後にすると、初夏を間近に控えた空は、日が長くなっているとはいえ、さすがに暮れつつあり、西を中心として茜が差している。

 うんざりするほどに見慣れた空だ。

 この代わり映えしない空に嫌気がさして、逃げ出したことも数えきれない。

 東西南北、行けるところにはみな行った。有名無名の観光地はもちろん、各種テーマパークや、劇場、漁港に山村、廃寺、社址、採石場、発電所、コンビナート……思いつく限りの場所に、鉄道を乗り継ぎ、バスを使って、タクシーに拒否されても、トラックをヒッチハイクさえして向かった。

 もちろん日本国内だけじゃない。パスポートが切れていなかったのを幸いに、飛行機を飛べるところまで飛ばした。

 そうして観光客はおろか、地元住人でさえ立ち入らないような場所にだってもぐり込んだ。

 なんとかして手の届かないところに行きたかった。

 何の手かって?

 もちろん時間の束縛の手だ。

 あたしは通算八百六十万飛んで三十六回、四月二十八日をくり返している。この日に関しては、あたしの行動は自由だ。どんなことをしようと、それが公序良俗に反することだろうと、良心の咎めがあろうとも、行うことに対してはなんの抑止力も働かない。

 ところが、過去、四月二十七日以前との矛盾は許されない。

 例えば、四月二十八日にホテルの予約をとって旅行に出かけたとする。観光地をめぐって、おみやげものを物色し、温泉に入り、料理に舌鼓を打って、整えてもらったふとんで大きく手足を伸ばしてくつろぐ。

 これが四月二十八日である内は、なんの支障もない。

 ところが、四月二十八日から二十九日にいたる、日付けをまたごうとした瞬間、あたしは再び四月二十八日の人間となり、そして体は事実である四月二十七日との矛盾を起こさないように、その時点での地点、つまりマンションのあたしの寝室のふとんの中へと引き戻される。

 場所も距離も関係ない。四方を壁に囲まれて、外から施錠された密閉空間であったとしても、なんの障害にもならず、あたしの体はケガひとつなく、御親切にも部屋着にしているトレーナー姿に着替えさせられて自室のふとんに横たえられている。

 飛行機でも、十一時発のニューヨーク行きに駆け込んで、エコノミーのせまい座席で我慢して、太平洋と北米大陸を横断、間もなく着陸というギリギリのところで日本にUターン。行きは半日以上かかっているのに、帰りは瞬く間もないなんてアンバランスもいいところだろう。

 アンバランス。

 あたしは、この奇妙な感覚に、しばらく気づかなかった。

 同じ日を延々くり返す不条理に腹を立てていて、初めて飛行機のなかから自室にもどされた時には、ふとんから跳ね起きつつ、

「やっぱりか!」

 と叫んじゃってた。

 でも、考えてみたら、ちっともやっぱりじゃない。

 四月二十八日は必ずしも二十四時間じゃない。

 例えば東京を午前十一時に発ったとして、ニューヨークに到着するのは午後二時頃になる。四月二十九日じゃなくて、二十八日の。

 時差のせいだ。

 そんなの当たり前だって? しょうがないじゃない、わかんなかったのは。海外なんて行き慣れてないんだから。

 とにかく、日本とニューヨークだと、だいたい十三時間の時差があって、日本の方が進んでいるから、十四時間飛行機に乗って到着しても、現地だとまだ四月二十八日は半分近く残っていることになる。

 ところが、その最中に、あたしは自宅に引き戻された。

 つまり、世界は四月二十八日をくり返しているわけじゃない。

 日本の標準時間帯における四月二十八日の〇時〇〇分〇〇秒から二十三時五十九分五十九秒までを、それを認識する個体の体感によってくり返されている。

 これはいかにも不自然だ。もちろん、今の状況は不自然の極みだけど、時間なんて概念は地球の自転周期を二十四等分した便宜的なものに過ぎない。

 なんらかの物理的な現象に巻き込まれて同じ一日を延々くり返しているにしたって、なにも日本の標準時に合わさる必然性はどこにもない。

 むしろ偶然そんなことが起こる可能性の方が極限までゼロに近い。

 なのにそれが起こっているとするならば、なんらかの意図を持った操作が行われていると考える方が自然だ。

 そして、このくり返しは、認識と体感という極めて個人的な観測によって成立している。

 言い換えれば、あたし達の主観によって、このくり返しは作りだされている。

 達。

 そう、あたしと、こいつだ。

「今日のお仕事も大変でしたね」

 神宮和は、いかにも初めて四月二十八日の終業を迎えたような顔つきと口調でそういってきた。


 昨日と同じ四月二十八日をくり返していると気づくと、あたしは社の連中の誰彼なく起こっている不可解な事態を相談した。だれもがまともに取り合ってもくれないなかで、唯一話を聞いてくれて、それどころか同じくり返しを認識しているとわかったのが神宮かみやなぎだった。

 ただ、それが二日たち、三日たち、一週間、一ヶ月、一年を同じ四月二十八日のうちで経過していくなかで、その唯一というのが、社内から町内、県内、日本国内、そして全世界を見渡しても適用されるだろうと目星がつきはじめた。

 その時の絶望をわかってもらえるだろうか。

 もしあたし一人だけだとしたら、頭がおかしくなって、意識が四月二十八日のくり返しを再現しているとも考えられた。

 なのに、あたし以外にも住人がいると知れたからには、この世界を現実として認めないわけにはいかない。

 どうしようもない孤独と閉塞感に襲われたのはこの時だった。

「だ、大丈夫ですか、杵築きずきさん!」

 あたしの顔色が変わったのを目にして、神宮和も神宮和なりに、その絶望を感じ取ったらしかった。

「この状況を抜け出す方法を考えましょう! ふたりで!」

 ところが、その決断が、さらに深い絶望をあたしにもたらした。

 神宮和はあたしの両手をぎゅっと握りしめすらしてきた。

 冗談じゃなかった。

 三人寄れば文殊の知恵じゃなくたって、一人よりは二人の方がずっと効率的で、行動の選択肢も飛躍的に増えることはわかっている。けど、それは一般論だ。

 手を組むことでマイナスしか生み出さないコンビというのも確実に存在する。

 あたしと神宮和がそれだ。

「わ、悪いけど、あたしには、あたしのやり方があるから……」

 生暖かい手をそっと抜き取る。

 たちまち、神宮和は露骨にしゅんとした顔をする。それも、周りに人がいるところでだ。

「ほら、まだ、なにがどうなっているのかわからないところで、ふたりで決め打ちにしても、見当違いに突っ走っちゃう可能性もあるでしょ。だから、しばらくは、お互いに自分の思うやり方をためしてみた方がいいと思うのよ。しばらくは」

 頭の中では忌々しさが渦を巻いていたが、人の目のある以上、できるだけ当たりのやわらかな口調でそうなだめていた。

 いまから考えると不思議だ。どうせ次の日になれば、あたしたちふたりのやりとりなんてだれも覚えてやしないのだ。次の新しい四月二十八日になれば。

 それだけ、まだあたしもこのヤオヨロズ生活を、しっかりと把握しきれていなかったってことなんだろう。

 それはともかくとして、あたしのこの説得は功を奏して、神宮和はすぐに表情をもどして、

「わかりました。じゃあ、私の力が必要になったら、いつでもいってくださいね」

 と、再度あたしの手をとって、力強くそういってきたのだった。

 あたしは神宮和の体温が染み入ってくる感触を懸命にこらえながら、とにかくなんとか厄介払いができたと胸を撫で下ろしていた。

 だから、まさかその時は、次の日から神宮和が会社の最寄り駅で、あたしを出迎えるようになるだなんて思いもしなかった。


 思い違いはほかにもあった。

 あたしのもくろみとしては、この機会に自分ひとりだけで、このループからさっさと抜け出してしまうつもりだった。

 めでたく四月二十九日を迎えられて神宮和を置き去りにできれば万々歳。そうでなくとも、永遠に一人で四月二十八日に閉じ込められている神宮和の意識があると想像できるだけでもかなり愉快だ。

 自分の主観がこの四月二十八日をくり返させているという点に思い至ってからは、その主観に変化が起これば自然にループもおさまるのではないかと考えて、とにかく視点を変える努力に励んだ。

 旅行については言ったとおりだけど、そこでナンパされればついてもいったし、なんだったらこっちから声をかけたことだって数えきれない。勧められるままにお酒もクスリも宗教の勧誘も、なんでも乗っていった。

 犯罪まがいのこと、犯罪すれすれ、犯罪、なんでもやった。

 それから勉強もした。短大高校中学とさかのぼって、自分が理解しきれていないところ埋めるということで、小学校の学習ドリルからやりなおした。

 つらいのは勉強よりも、毎日それ用の参考書や問題集を買ってこないといけないことで、なんたってあたしの部屋にはそんなものあるわけがないから、日付けを越えた瞬間に、本屋のもとの棚に戻っていて、それを毎度買い直しにいかないといけない。

 てき面だったのが語学で、駅前の体験入学が売りの英会話スクールにいけば、長々と説明を受けた後、書類に必要事項を記入して、クラスの振り分け用のかんたんなテストを受けてようやくレッスンに入る、ここまでどこも省略がきかず、下手に口をはさめばその分どころかそれ以上に長引くっていうトラップまで仕込まれている。そうしてはじまるレッスンも、最初の自己紹介は共通しているから、「駅前留学の無料お試し体験レッスン」での貴重な時間がさらに削られてしまう。

 本当に、学生時代、きちんと勉強しておけばよかったと、この無意味なくり返しのなかでほど後悔したことはなかった。

 そうして、時間だけはいやってくらいあるのだから、毎朝目が覚めれば電子書籍でまかなえるものはダウンロードをして、間に合わないものは本屋に買いにいって、その足で語学スクールの体験入学に申し込むという、二十四時間のうちで使える時間をできるだけ無理なく配分させて、無駄をかけつつも学習の効果は出てきた。

 なにしろノートに書き写したって、ラインを引いたって、次の日になれば全部消え去っているのだから、記憶力だけが頼りだ。

 次の日に持ち込めるのは自分の記憶だけなのだから、どこまでやったかを覚えておかないといけない。だが、そうはいっても、なんの手掛かりもなければ、特に文系の学習では何度となく行ったり来たりをくり返した。

 それでも少しずつわかることが増えていくなかで、ひとつ現状に矛盾を覚えた。

 あたしの体は、四月二十八日から一歩でも出ようとすれば、強制的に引き戻されて、四月二十七日終了の時点と同じ状態になる。満腹状態に戻っているというのもそのひとつで、例えば腕を切断したり、もっとひどいケガを負ったとしても、あたしの生死にすらかかわらず回復して、自室のふとんの中で目を覚ますことになっている。

 なにものも引き継げないはずのループの内で、あたしは記憶だけは持ち越している。

 それがおかしいのだ。記憶はなにも宙に浮いているわけじゃない。脳内で起こるれっきとした肉体活動のひとつで、記憶が積み重ねられている以上は、脳には変化がもたらされているのだから、日付けをまたいだ際に、リセットされなければ話が合わないはずだ。ところが現実は、あたし一人は時間に取り残されたことを認識しつつ、記憶を蓄積させている。

 それに気づいた時には、このループから抜け出すためのほころびに手がかかったと思って、ますます勉強にかける情熱も高まっていった。

 しかし、そうやってどれほどの時間を費やしたものだろうか。ある時から、どうにも手ごたえがすり抜けてゆくような、つかんだ端から空まわりしていくような感覚に捉われるようになっていった。

 それは知識をつければつけるほどに強まっていった。

 頭がいいという言い回しがある。日常生活でもよく使われるものだが、その基準に一定の尺度はなくて、使用者の生活環境や考えに大いに左右される、主観的な価値判断でのみ成り立っているような言葉だ。

 あたしにとっての四月二十七日までに抱いていた頭のいいという人物のイメージからは、現在のあたしは大きく逸脱している。

 例えば、他国語にしても、読み書きできるという発想では、英語とフランス語がせいぜいで、かろうじてドイツ語は想像できたかもしれないが、スペイン語はまったく念頭にさえなかったはずだった。

 いわゆる学校の勉強だって、中学校を最後に手も触れてこなかった昨日までのあたしでは、線形代数学という言葉すら理解の外だろう。

 要は、このループを起こした原因かもしれないあたしの主観からすれば、現在のあたしはもうとっくの昔に理解を逸脱した存在となっているはずなのだ。そりゃあそうだ、なにせ四月二十七日のあたしは実時間だと昨日のあたしだけど、主観では二万年前のあたしなんだから。

 なのに、この循環は、まったくやむ気配も見せない。

「杵築さん、おはようございます!」

 いったいどれくらいぶりだったろうか。勉強を続けることの限界を覚え、ひとつの覚悟をもって出勤したあたしを、いかにも当たり前のような顔をして神宮和は会社の最寄り駅で出迎えたのだった。


「もしかして、待ってたの?」

「やだなあ、いったじゃないですか、いつでも声をかけてくださいって。もし、その時に私がいなかったら大変ですから」

 いかにもこのくり返しのひとつに組み込まれたような、あたかも当然といった口振りでそう返答をしてくる。

 あたしでさえ錯覚を起こして釣り込まれてしまいそうになったが、危ういところで現実に引き戻される。最初の四月二十八日に、神宮和は駅で待ってなどいなかった。それを思い出してことなきをえた。

 現実。四月二十八日を延々とくり返す日常が、はたして現実の名に値するものかはさておいて、それを解消したいと思っている。

 だからこそ、それまでできるだけ気づかないようにと努めてきた、もうひとつの現実に無理矢理目を向けて、勉強をきりやめてこうして出勤する気になったのだった。

 このループが、あたしと神宮和のふたりによって成立しているという現実であり、それは同時に、あたしだけではなく、神宮和の主観に決定的な変化の起こる必要があるかもしれないという推測が導き出される現実だ。

 かなりの覚悟を決めてそれに向き合うつもりになったはずだったのだが、あたしを待ち構えていた神宮和の姿を、顔を目にして、完全に出鼻をくじかれた。

 あたしが出勤しなくなってからも、神宮和は毎日待っていたのだろうか。いったい何時から何時まで。何を思って。何をして。そして、この何百年だか、何千年だか、あたしにもわからない、想像したくもない時間を待ちぼうけたというのに、どうしてあたしの顔を前にして、いかにも昨晩の退勤で別れた翌朝というような顔で接していられるんだろう。

 無理。

 頭のなかで大きく点灯したのはその二文字で、まったく消え失せる気配もなかった。

 すると、そこからは、いやどうしてなんでそんなことができんのわかんないほんとだめかんべんしてくださいかんがえてみてよあたしがまいにちこんなことしてたらおかしいでしょぜったいやらないけどねぜったいやらないことやってるわけよなにわらってんのよいっとくけどおかしいのはあたしじゃないからほらわらってないでしょだからにやけんのやめろってふつうだまってまってるかなこうどうするもんでしょしらべものをしているあいだぜったいはいってこないでねっていわれたっていちじかんもにじかんもまたされたらまずはうたがうのはとらぶるでこえでもかけてみてそれでもはんのうがなければことわってからおじゃましてみるもんじゃないあたえられるだけをきたいしてこうどうしないやつあたしだめもちろんかってにはいってきたらいっしょうゆるさないけどねちのはてまであとずさったってまだたりないから、などとその顔を合わさなかった期間、いわずにすんでいた分も含めて、四月二十七日にもどったかのような言葉が渦を巻いて、頭のなかを満たしてしまった。

 反動で、神宮和にぶつけようと思っていた言葉まで飲み込んでしまい、そのまま前を行き過ぎるしかなくなってしまった。

 すると、さも当然なように、神宮和はあたしの後ろをついてきたのだった。

 まだ先ほどの言葉の奔流が口をつきそうでもあり、迂闊にしゃべりかけることもできず、おかげで、それが常習化してしまい、ふたり並んで出勤とあいなってしまった。

 逆にいえば、あたしとしたって、ふたりの主観の変化を試みたかったのだから、あえてこちらから話しかけずに済んだ分だけラッキーだったのかもしれない。

 けれども、それが拡大されて、今では昼には弁当を持ってきて、ふたりで食べて、そのうえさらに帰宅まで並んでというのはやり過ぎだろう。

「聞きました? 高科部長、また新しい車買ったらしいですよ」

 おまけにおしゃべりの内容は、既に固定されてしまった日常話ときている。

 聞いた。もうなんびゃっぺん、なんぜんべんと聞いたし、今となっては先週買った高科部長の新しい外車は、二万年プラス一週間で、中古車やクラシックカーを通り越して、骨董品ですらなく、考古学者の扱うレベルだ。

 神宮和が同じような話しかしないのは、たぶん、まえにいった、

『じゃあ、私の力が必要になったら、いつでもいってくださいね』

 を律義に守っているからだ。

 でも、だとしたら、なおのことあたしから頼むわけにはいかない。

 神宮和の方から折れさせることで、はじめて変化が訪れる可能性が増す……

 いや、やめよう、ごまかすのは。

 逆なんだ。

 朝の出勤から、昼の弁当、そして夕方の退勤があるんじゃない。

 この退勤がそもそものきっかけで、ひどく大回りをして、あたしたちはもう一度同じ地点にもどってきている。

 直感と、それと経験で、あたしはそれを知っている。

 この退勤途中でのある出来事が起点で、四月二十八日の午前〇時からくり返されているのは、単にわかりやすかったからに過ぎない。だれにとって。それはもちろん、あたしと神宮和にとって。

 そもそもあたしと神宮和の主観が交錯した経験は、四月二十八日のこの退勤の場以外にはなかったのだ。


 春の日にしては不釣り合いな、大きく伸びた影法師を連れて、神宮和が大股で歩を進めてゆく。

 あたしは一歩ごとに引き離されつつ、その暗く影を負った背中を見つめている。

 このくり返しの生活の発端となったあの日に初めて見た背中、そして以来何度となく見返すこととなった背中。

 神宮和はその都度まったく同じ後ろ姿をあたしに見せつける。

 若干左に下がる肩、その分逆に右に傾げられている頭、わきを締めているためあまり振られない腕、ビルの向こうに沈もうとしている毎日同じ夕陽を逆光で受け、まったく同じ様子で歩いていく。

 そういう気がするという話じゃない。

 神宮和は正確に同じ仕種、同じ歩幅で進んでゆく。

 毎日見せつけられる姿なのだ。見誤りようがなくなっている。

 弁当を作って持ってくるようになってから、あたしたちは退勤後に必ずこの動作を繰り返した。

 それは、まだループの発生する前の、一日が一日として積み重ねられていた四月二十八日の再現だった。

 神宮和は先を行き、七歩を進むと、おもむろにきびすを返して、あたしに向き直ると、大きな声で、

「杵築那美さん、私はあなたが好きです。つきあってください」

 なんのひねりもない告白の言葉をぶつけてくる。


 初めてそれを聞かされた時は、まったくあきれてしまった。

 神宮和はいったいあたしの何を見てきたのだろう。

 同学年で年下の先輩で、なにより同性の女子のあたしの言動のどこに好意を受け取ったというのか。

 驚きあきれて、それからどういう思いが自分にきざしたのか、もう記憶にない。それはそうでしょ、昨日のことならともかく、今日のはじめなんてもう二万年も前の話なんだから。どうでもいいことから忘れていくわよ。

 腹が立ったかもしれないし、気持ち悪くなったなんてのもありそうだ、おかしくなっちゃった可能性だって割と高い。

 きれいにすっぱりとそこからの記憶は飛んでしまっている。

 もっとも、おかげで、二度目も初体験と同様の気持ちで向かうことができた。

 それが歓迎すべきものかは別として。

 神宮和がおせっかいに弁当を持ってきた最初の日、ふたりビルの谷間の公園でそれを食べた日、その夕方にさも当然な顔をして退勤までついてきて、そしてこの場でまったく同じ口調、まったく同じ声量で、そう告白された時、あたしはようやく思い至った。

『これか』

 八百六十万飛んで三十五日前、あたしと神宮和の主観が初めて交錯した瞬間だった。

 剥き出しの好意がぶつけられ、あたしもまたそれに応えることを余儀なくされたこの時、あたしたちは、四月二十八日という二十四時間の圏内で囲われた箱のなかに閉じ込められ、生かされ続けることになった。

 どうして?

 目的は、おそらくは、二十四時間という壁を乗り越えるために。

 どうして?

 理由は、おそらくは、目的と重なり合っている。

 ほぼ無限といって過言でない空間の広がりのなかで、ふたつの主観という極恣意的な起点によって摘出された二十四時間の果てなきくり返しである以上は、この成立を否定するためには、そのふたつの主観が決定的な変化を起こすことが求められる。

 例えば、その主観がふたつからひとつになるような。

 ただし、それは例えば、片方の主観が排除されるというやり方では達成されない。何故なら、残された主観にはなんの変化も与えられていないからだ。

 ふたつの主観に決定的な変化が刻まれることで、この閉ざされた時間の円環は開き、もとの流れを取り戻すのだろう。

 これは予感ではなくて、確信を抱いている。

 そして、この八百六十万飛んで三十六回のループのなかで、あたしがたったひとつだけ試していないことがあった。

 二十四時間という範囲内で足を運べるところは全ておもむき、実際のつい昨日四月二十七日のあたしからは想像もつかないほどの学問を重ね、この手を血や汚穢にまみれさせてきてすら、たったひとつ試みていない返答だった。


 逆光に隔てられて、影のなかに沈み込んだ神宮和の表情はなにひとつうかがえないが、それでも固唾を飲んでこちらの返答を待ち構えているのはわかる。

 あたしにとって神宮和は相容れない存在だ。

 水と油。どちらが重くてどちらが軽いのかは、それはまったくわかりゃしないけど、混ざり合うことはない。

 でも、その混ざり合うはずのないものが混ざり合えば、少なくとも水と油の関係は崩壊する。そして、今現在のこのループ世界を作り上げているのは、そういう二者の関係性なのだ。

 あたしは唾を飲み込み、ひとつ大きく喉を鳴らした。

 口惜しいけれど、あたしだって緊張している。

 心臓はバクンバクンと弾んで、こめかみのあたりの血管はドキドキと太く速く脈打っている。耳の奥ではゴーッと突風か洪水にでも巻き込まれたみたいで、自分の体のたてる音以外のすべてを退けてしまっている。そのバクンドキゴーッの音の向こうからいやにギラギラと輝く夕陽が網膜を紅に焼きつけてくる。


 いくら目を凝らしてみても、うかがうことのできない影の先の表情を思うと、胸が締めつけられて口から熱くて重い吐息が洩れ出てくる。そのまま屈み込みたくなる衝動に駆られるが懸命に堪える。

 身の内から起こる喧騒と胸苦しさに、帰宅ラッシュの時間帯の騒々しさは完全に遮断されてしまっていた。

 外部から完全に隔絶されてみれば、あたしの感覚は研ぎ澄まされて、普段知覚されることのないものまでが、認識の網に引っ掛かってくる。

 あたしは笑っていた。

 声もたてず、目を細めて唇をほころばせ、笑みを浮かべていた。

 それは夕陽を背にした和からなら、はっきりと目に映るはずだった。

 影の内から息を飲む声が聞こえてきたように思えた。同時に、緊張と当惑と、そしてわずかな喜びが伝わってくる。

 黄昏の内からにじみ出してくる輝きだしかねない期待にあてられて、あたしも俄然照れくささがこみあげてきていた。

 せわしない帰宅時にふたりの間を思いもよらぬ穏やかな雰囲気が覆い、どのようなことも受け容れられ、どのようなことも口にできるような空気が漂いだした。あたしもそれにあてられて、ずっと胸の内にしまってきたことを素直に吐露したくてたまらなくなってくる。

 だから……

「あんたなんて、だいっきらい」

 だから、あたしは今日もその拒絶の言葉を、神宮和に投げつけた。


 聞こえなかったはずのない、その返答を受け取っても神宮和は、しばらくの間微動だにしなかった。

 けれども、やがてそのシルエットの境界が曖昧になったかと思うと、たちまち両手が顔を覆い、その場に膝をついて崩れ落ちたのだった。

 指の間からは溢れるようにして、嗚咽が洩れ出てくる。

 蚊の鳴くような小さなものだったのも束の間、しゃくり上げる声はすぐに大きくなってあたしの耳にまで届き、震わせる肩に合わせるように大きな咆哮とさえなってあたりにこだましはじめた。

 身も世もなく取り乱し、あたりかまわず大きな声で泣きたてる。普段のお淑やかな物腰はどこにもない。

 声ばかりでない。指を抜け、手のひらをこぼれ、大粒の涙が次から次へとアスファルトの街路にしみをつけていく。

 その神宮和の姿を目の当たりにして、外部との遮断が解けた。

 周囲の道行く人々の奇異に満ちた眼差しが、あたし達を露骨になぞっていく。

 一時の激情が行き過ぎてしまえば、感覚は反転し、加速度を帯びて現実を取り戻してきて、つい先ほどまでの静寂は瞬く間に消え失せてしまう。代わりに上書きしてくるのは、せわしなく往来する車の走行音にクラクション、カーステレオ、あたしたちを見てなにごとかを囁き合う観衆の声に、それ以上にあたし達にはまったく関心を寄せようともしない雑踏のたてる音、そして神宮和の身を振り絞る慟哭。

 あたしはさっさと背を向けて、その場を後にする。

 大いなる虚無感がため息となって口をつく。

 昨日も一昨日も、そして発端となった最初の四月二十八日に耳にしたものとなんら変わるところがなかった。

『これでまた明日も、か……』

 鼓膜を響かせる音の調子から、八百六十万飛んで三十七回目の四月二十八日を迎えることがほぼ確定したことが導き出される。

 あたしはふり返ることもせずその場を後にする。

 終わらぬ同じ日のくり返しの気ぶっせいを、背後から追いすがる神宮和の泣き声でさらに負いかぶせられる感覚を受けつつ。

 一歩ごとにあたしの歩みは足早になり、先回りをしようとしてくる慟哭を振り払おうと努める。

 これ以上は我慢ならなかった、なんだってこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。

 今日昨日一昨日、はるかその以前のヤオヨロズを数える四月二十八日の記憶として、まったく変わらない拒絶を新たに刻むことになった神宮和が、身を削るような嗚咽を絞り上げて、周囲を震撼させている。

 それがあたしの鼓膜どころか、内心をまでえぐり動揺させるのだった。

 あまりの悲痛さに、ではなく、その涙にむせぶ叫びと悲鳴の奥底に、陶然と揺れる甘美な響きが含まれているからだ。

 無限の牢獄に囚われる絶望と苦痛に苛まれつつ、そこに悦びが溶け込んでいるのだ。

 とても聞いてはいられない。

 さもないと、あたしもわき上がってくるほくそ笑みを我慢できなくなりそうだから。


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ヤオヨロズの神々 山本楽志 @ga1k0t2

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