気付いた時にはもう、手遅れだったんだ。

冬気

気付いた時にはもう、手遅れだったんだ。

 ある所に一人の青年がいた。特に目立つような性格や容姿ではなく、道ですれ違っても、すれ違ったこと自体を覚えていないような、そんな雰囲気の青年だった。

 彼には趣味と言うものが一切なかった。そんなことありえない、と言う人がいるかもしれない。しかし、本当になかった。その代わり、彼は空いた時間を勉強につぎ込んだ。周りからは「勉強が趣味」と言われたが、彼にはそんなつもりは一切なかった。彼にとって、勉強は楽しいものではなく、かといって、苦痛に感じることも無かった。他にやることがないから、ただ勉強をしているだけだった。例えるなら、暇な時にペンを無意識に回したり、手に持っているものをいじったりするような感覚だ。要するに、一種の暇つぶしだった。もっとも、そのおかげで彼は小学校のテストからずっと良い成績を残し続けられた。周りからは「すごい」という称賛の声や「羨ましい」などの羨望の声もあった。もちろん、妬みなどもあったが。しかしそのような言葉を言われても、彼の心は劣等感が少なからずあった。彼にとって、勉強が人よりできることはプラスにはならなかった。むしろ『自分は勉強しかできない』と思うほどだった。彼は、周りの人間はそれぞれの趣味を持っていて笑顔でそれを楽しんでいることの方が、ずっと羨ましく見えた。

 時は進み彼は高校生になった。そして高校生になった彼は、今までと違い、あの劣等感を感じることが少なくなった。

 彼は今まで多くの大人たちに

 「あなたの趣味はなんですか?」

 「あなたの好きなことはなんですか?」

 と訊かれ続けた。最初は正直に「ありません」と答えていたが、その度に「じゃあ、何か趣味を見つけてみましょうね」と困ったような顔で言われた。それにうんざりして次第に適当な趣味を言ってごまかすようになってしまった。

 しかし、ついに彼は自身の趣味を見つけた。人に訊かれたとき、その場しのぎで答えていたまがいものの趣味なんかじゃない。こういうのもおかしな話だが、心の底から胸を張って自分の趣味だ、と言えるものを高校生になって、やっと見つけた。

 彼は今までしてこなかった分を埋めるように趣味に打ち込んだ。もちろん、勉強に手を抜くこともしなかったが。彼にとって、自身が生み出したものの出来が周りからどう思われているかなんてどうだって良かった。彼は十六年間生きて、この時初めて心が満たされたのだから。

 しかし、同時に幸せな日々が長くは続かないことを彼はひどく思い知った。今からやるにはあまりにも遅すぎた。

 高校生になって趣味に打ち込む彼を、彼の両親はあまり良く思わなかった。彼の両親は、幼い頃からの彼の優秀さを見て、この子は、ちゃんと育てれば一流大学に入学し、そして一流企業に就職できると考えた。そして、それが我が子の最大の『幸せ』だと勘違いをしてしまった。その『幸せ』を決めるのに、彼自身の意思は存在しなかった。いや、意思を持つこと自体が許されなかった。趣味に打ち込む彼を、彼の両親は徹底的にけなした。彼をまた、勉強のみをする人間に戻そうとしたかったのだろう。次第に彼は一度得た自信を喪失し、満たされていた心に穴が開き、精神的にも環境的にも自身の趣味を続けることが出来なくなってしまった。この時彼は、楽しそうな同級生を、両親を、自身を、全てを呪った。もっと早くに趣味を見つけられていれば。そしたら、両親が勘違いすることもなかったかもしれない。もっと早くに趣味を見つけられていれば。あんな劣等感を抱えずにいれたかもしれない。もっと早くに趣味を見つけられていれば。表面だけの能力で幸せを決め付けられなかったかもしれない。もっと早くに。もっと早くに。もっと……。

 その後、彼は皮肉なことに小学校、中学校、高校のどの同級生よりも『もっと早く』に死んでしまった。学校の階段で足を滑らせ、頭を打ったのだ。彼の悩みの深さに対し、実にあっさりとその命を終わらせてしまった。

 彼が死んだ三日後、遺品整理中に出てきた、彼が趣味で書いていた手書きの小説数作は、彼の心の内など何も知らない人たちによって、可燃ごみとなり、そして煙とともに空に消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

気付いた時にはもう、手遅れだったんだ。 冬気 @yukimahumizura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ