第6話 蹴られた背中
女性特有のうわずった呟きが聞こえ、ポム山の耳がピクリと反応した。その声はどこかで聞き覚えがあり、もともと卑屈だった珍獣の目は、さらに二回り嫌らしく光を放った。
初撃を躱された怒りからか、倍の力で振るわれた第二撃をどうにか躱し、マントの女は少女を抱えたまま壁を蹴り、俊敏に逃亡を計る。しかし隙をついたとはいえ王都の英雄を手にかけた化け物のポテンシャルは凄まじく、巨体に似つかわしくない恐ろしい速さで回り込まれ、逃げ道を塞がれてしまった。
「な、なんてスピード……。これが六堕魔王直属の配下様の力ってわけ?」
続け様に振るわれる剣先が擦り、傍らの建物が真横に千切れて吹き飛んだ。
あまりの威力に悲鳴をあげたポム山は、自分一人だけさっさと安全地帯へと逃げ込み、小刻みに肩で息をした。
「なんて威力!? 直撃したら、この子も私も一貫の終わり。だけど……」
次々に振るわれる攻撃からは化け物の意思が感じられ、わざと逃げる方向を限定させ、女の逃げ道を誘導しているようだった。
助けもなく細い一本道へと追い込まれていった二人は、なす術もなく袋小路の薄暗い一角へと誘い込まれていく。
「フギュウ、フギュウ」
化け物の荒い呼吸だけが壁に反響し、もはや逃げ場もない二人の呼吸も自然と荒くなる。
自分だけ屋根上の安全地帯から顔を出し覗き込むポム山は、二人の行く末を按じて、そっと手を合わせてから「チーン」とお辞儀をした。
「どうしよう、もう逃げ場がない」
紫色に妖しく瞬く化け物の眼は、既に結末を予見しているようだった。
一歩一歩、躊躇なく踏み込む足取りはすがるく、小さな二つの影など、今にもすり潰されてしまうほど脆弱なものだった。
「大丈夫だよ、キミだけは絶対に逃がしてあげるから。私が合図をしたら、振り返らず真っ直ぐ走るの。いいね?」
胸元に抱えた少女の耳元で囁いた女は、頭上で剣を振りかざす巨影を見上げた。
隙を見て何か呟いた女は、自分の足元に魔法陣を作り出し、にわかに輝きを放った。
「ッ?!」
一瞬の隙を縫い、女は地面から水柱を発射させ、化け物の顔面にヒットさせた。
そして立ち塞がる化け物の足の間狙って、少女の背中をポンと押し、「走るの!」と叫んだ。
追い打ちをかけるように視覚を奪うため次々と水柱を上げた女は、少女を逃すため必死に魔法を唱え続けた。しかしその行為は、彼女自らを死地へ追い込むことにほかならなかった。
目眩しの水を払い除けた化け物は、いよいよ敵を小癪な一人に絞ったようだった。
追い込まれた脆弱な獲物は、蛇に睨まれた蛙のように、ただジリジリ後退りするだけで精一杯だった。
「あーあ、やっぱりガラにもなく人助けなんてするもんじゃないね」
もはや時間の問題となった女の命運を頬杖ついて眺めていたポム山は、無関係の第三者を見るように、瞬きもせず欠伸をした。
「弱いくせにカッコつけてオッ◯イも出てへん女児なんぞ助けるからや。そんな越権行為は、強者がこれみよがしにするもんやで。アホくさー!」
鼻の奥から採れたでっかい鼻くそをピンと飛ばしキャキャキャと笑っていると、不意に背後から何者かの気配を感じた。
振り返る間もなく背中をドンと蹴られたポム山は、悲壮感に塗れた表情のまま、屋根から転げ落ち、壁を跳ね、地面を跳ね、見事化け物の目の前に落下した。
衝撃で透明化の魔法が解けてしまったポム山は、強打した頭をガシガシさすりながら、「誰や押したんわー?!」と叫んだ。しかしその言葉を最も近くで聞いていたのは、他ならぬ化け物と相対する女だった。
「な……、急に何か降ってきた!?」
「はへ?」と不思議そうに女を見るも時既に遅し。
一瞬にして双方からターゲットとされてしまったポム山は、片や脱出の足がかりとして、片や横槍を入れた邪魔者として、格好の獲物となってしまった。
「チャンス。誰か知らないけど、恨まないでよ、っね!」
珍獣の襟首を掴んだ女は、そのまま振りかぶって化け物へと投げつけた。
悲鳴とヨダレ、そして溢れんばかりの涙を流しながら化け物に突進する形になったポム山は、敵の分厚い胸板にムギュッと追突し、衝撃に苦悶の表情を浮かべた。怒りを露わにした化け物は、矛先を突然現れた外敵へと切り替え、振り翳していた剣を勢いよく振り下ろした。
「ヒギィィッ、死ぬ、死ぬるぅぅッ!」
ギリギリのところで身体を伸縮させて躱したポム山は、薄汚れた茶色の肉体をこれでもかと丸めながら転がった。そして自分を身代わりに投げつけた女へ、今度は伸縮自在の伸び切った腕をグニョングニョンと投げ放ちながら、化け物よりも化け物のように叫んだ。
「クォらぁボケカス、何度ワシを囮に使ってケツカンネンゴラァ、舐めとったらイテまうどワリャー!」
血の涙を流す不気味なぬいぐるみに道を塞がれ、女が急ブレーキをかけた。
しかしその間にも、今度は化け物が二人へ向けて巨大な剣を振り下ろすのだった。
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