第2話 ギニャー!


「ギニャー!!」


 断末魔の叫び声を上げた無様な犬天は、次元の狭間から放り出されるなり、激しく地面を転がった。


 土埃にまみれて八回転半。

 見るも無惨な茶色モップのようになったポム山は、ベタで空虚な森の真ん中に投げ捨てられた。


 天界オフィスとは様子がまるで異なる生暖かい風そよぐ木々の隙間からは、魑魅魍魎を想像させる鳴き声が響いていた。土に汚れた顔をむくりと持ち上げ、鼻水と涙に濡れる顔面を腕毛で拭いた。


「なんでや、なんでワシがこないなとこにこなあかんねん。ワシが何したっちゅうねん!」


 森の奥底を睨みつける薄汚れた顔は、よれた雑巾のようだった。毛羽だった全身は、薄汚れた毛布のようにも見えた。

 しかし放つ匂いは俗に言う丸々太った動物のそれだった。

 となれば、そんなものを野に放たれた猛獣たちが放っておくはずもない。


 グキャアという叫び声が森に轟き、ポム山は思わず耳を塞いだ。小腸にテニスボールが詰まったような無様な表情で身を潜め、大木のふもとにしがみついた。


「イヤヤー、こんなとこで喰われんのは絶対にイヤヤー! せやけどアカン、こんなことしてて巻き込まれることっていえば……」


 そっと顔を上げ、しがみついていた大木の枝上を見つめた。するとそこにはダラダラとよだれを垂らし、餌を見下ろす大型のフロストジャガーが、手頃な獲物として見定めた珍獣の姿を中央に捉えていた。


「ヒェッ、出たぁぁ!」


 まんまる尻尾を振り乱して逃亡を図るが、俊敏さでジャガーに叶うはずもなく、簡単に回り込まれてしまった。グギュグギュと喉を鳴らした身の丈八倍はある白銀の猛獣は、小動物を心の底から震え上がらせるほどの声量で大袈裟に威嚇いかくした。


「ヒャア、巨ネコの、ちゅ、ちゅ、ちゅばが顔にぃぃァー!」


 顔面に大量の唾液がかかり、脳髄のうずいに揚げ餅が

引っかかったような断末魔の悲鳴を上げたポム山は、「堪忍してー!」と両手を振り乱した。すると指先から、ポポポポポーンとひよこ豆が飛び出した。


 ジャガーの顔に、お豆がピョコンと跳ねた。

 ジャガーは苛立ちから、充血した目をひん剥き、ポム山の目の前で大口を開けた。すると今度は防御反応からか、指先からひよこ豆がポピピピピーンと飛び出した。



 ジャガーの舌の上を豆が転がり、ゴクリと飲み込まれた。同時にフンッと鼻息が漏れ、ポム山の全身の毛がフワァッッサーとなびいた。


 それはまさに、芝生の表面を走る一陣の風のようだった――



 と、

 お決まりの展開であれば、お豆の隠された力が発動し、「モンスター使役!」などとお手軽チート能力が飛び出すところである。

 しかしジャガーはむしろ怒りを三倍増しにして唸っていた。もう許さんとばかりに……


「嗚呼、これもうあかんわ。ホンマ散々な天生やった。生まれ変わったら、今度こそボンキュッボボボンの天才大天使に生まれ変わって、あ~んなことや、こ~んなことして、キャッキャウフフポヨンポヨンポピピンピンした~い!」


 生臭い獣の息で目が霞み、オウェッと咽せたポム山は、今世の後悔を思い浮かべながら、ピュロッと飛び出たひよこ豆をポリッとかじった。ビターなバターの香りで風味付けされたような、ちょっとだけ大人な味だった。


 でも、それだけだった――



 ならばもう諦めてしまおう。

 自分へ向けてポンポンポンとヤケクソに豆を連射して全てを頬張ったポム山は、口いっぱいに頬を膨らませた。唾液を全部もっていかれ、カッスカスのカッラカラになった口内をこれでもかとみせつけてから、半分冗談のように言った。


「お豆さん、超おいし~い」と……



 ジャガーの振るった右前脚の爪が頬をかすめ、皮一枚が破れてうっすら血が滲んだ。赤ん坊のように怯えて後退った珍獣は、「堪忍して」と泣きじゃくった。



 脳裏に浮かぶ走馬灯。



 大好きだったあの子に告白したけれど、


  『うるせぇ、コダヌキ!』


 と罵倒された、ある日の午後。




 近所に住んでいた大天使んちのクソガキに、

 ちびるほどノラ犬のモノマネをさせられた屈辱の朝六時。




 拾い食いをして、

 捨て猫みたいにカッソカソのゾンビ状態になった深夜二時。




――どれもがまるで昨日のように、

  儚く、そして虚しくフラッシュバックした。



「イヤや、なんで出るもん出るもん、こんなちゅらい思い出ばっかやねん。ワシかて少しはええ目に会うてもええやんか!」


 悔しさと怒りがふつふつと湧き上がってくる。泣いてから豹変して喧嘩が強くなるタイプの子供みたいに手足を踏ん張ったポム山は、半べそをかきながら、目の前にあった野獣の顔面を睨みつけた。


「もー怒ったで。なんでワシばっか、こんな恐い目にあわなあかんねん。なーにが異世界デバッガーや、体のいい”追い出し”やないか。……ならもうええ。彼奴らに、彼奴らに、お豆さんを舐め腐ったこと、絶対後悔させたる!」


 珍獣を舐めに舐めている様子のジャガーは、こんな奴いつでも食えるとばかりに油断していた。ポム山は短い手足で歌舞伎役者のように大見得をきってから、わざわざ半身に傾け、右の手を思い切り開いてジャガーへと差し向けた。


「ワシかてな、冒険者の皆さんに、どうにか不自由のない旅をおくってもらお思て、渡すスキルとか、付与する条件とか、必死に考えてるんや。……なによりひよこ豆、メッチャ美味いやろがい!」


 カミナリが落ちたような大宣言を鼻息一つで吹き飛ばし、ジャガーはもう沢山だと身構えた。しかし反対にポム山も、肩で息を切らしながら不敵に笑うのだった。


「どーせみんな、ワシがぜーんぶ簡単に諦めて無様に逃げ帰ると思ってんねやろ。きさんらぁの期待にだけは、応えてたまるかボケナスァッ!」


 鼻息を短足のステップでかわしてから、短腕でシュッシュとシャドーボクシングをして気合を入れ直す。そして妖しい仙人のように構えたかと思えば、ユラユラと指先をかざした。


 いい加減にしろ。

 激しく地面を踏み込みジャガーが飛びかかった。ピンと立てた五本爪にぐぐぐっと力を入れたポム山は、セイヤと掛け声を上げた。


 速射砲のように、豆鉄砲が放たれた。

 ほんの1センチに満たないお豆が、迫りくる獣の顔面にぶち当たった。


 スポポと眼球に当たり、豆が跳ねた。

 思わず目を閉じたジャガーは、妙な物を当てられた怒りから巨大な右腕を振るったが、ドリフトしながら下半身をパタパタ振って距離を取る珍獣に、攻撃は当たらなかった。


「お豆さんはな、ホンマに強いんやで。なにせタダ同然の大安売りやったからな、無尽蔵に使い放題やもんね!」


 水平に掲げた指先から、ニョキニョキと豆の木が生えていく。豆の木はみるみる間に成長し、巨木となって周囲を埋め尽くしていった。


「指からお豆さんが出るだけや思ったら大間違いや。他にも色々用意してるんやさかい、とくとみさらさんかいボケタコ!」


 隠れ蓑にしていた木の幹の影から狙いを定めたポム山は、わざとらしく数粒の豆を発射し当てた。勘づいて襲いかかったジャガーは、立ちはだかる巨木に突進し、続いて豆の木を引きちぎった。しかしーー


「お豆さんと巨木はフェイクや。ワシがそのへんにいる"キャンペーン中の女神さん"や思ってたら怪我すんでホンマに!」


 木のふもとから飛び出して上空へ両手を掲げたポム山は、世界中から元気を集めるアレの形になってバンザイした。そしてゴニョゴニョ何かを呟いてから、尿道にゴルフボールが詰まったような顔で言った。



「やっちゃえ、おむぅわ~めさ~ん!」



 直後、空を覆うほどの何かが上空を埋め尽くし、陽の光を阻んだ。何かは一定期間上空を旋回した後、中央に集まったかと思えば、さらには超高密度に凝縮されて固まった。

 そしてその異様な光景を見つめていたジャガーへと、一直線に落下していった。


 逃げる間もなく凝縮豆の下敷きになったジャガーは、押し潰され、途方もなくリアルな血を噴き出し、グロテスクに飛び散った。


 気持ち悪さからオゥェッとリアルに嘔吐いたポム山は、飲みすぎた酔っ払いのように木に手を置き、反省する猿のように項垂れて「オゥェッ」と繰り返した。


「あかん、リアルすぎるやん。やっぱ空の上から見てんのと目の前で見んのとは大違いやん。……血みどろやん、ドロドロの血ぃドギャシャンシャンやーん!」


 血と豆汁に塗れたポム山の身体はドブ緑と赤に染まり、ひとりガチャムク状態だった。

 モサモサの毛も、濡れて重油に沈む可哀想な鳥のようで、それはそれは見るも無惨なものだった。


「もうイヤや。さっさとやることやって、アッチの世界帰るもん。彼奴らに豆力見せつけて、こんなとこさっさとおさらばや」


 不気味な色の足跡を残し、ポム山はひとり森の外の世界を目指し歩き始めるのだった――

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