夜の店
空はまだ暗い。時間を確認するためスマホを取りだそうとしたが、持ってきていないことを思い出し、不安な気持ちになった。
しばらく歩くと、色黒のツーブロック男に話しかけられた。
「お兄さん何してるの? 飲み足りない感じ?」
「いや……まぁそんな感じです」
「ワンタイム三千円ぽっきりでどう?」
「まぁ……やっぱ大丈夫っす」
「んー、わかった二千五百円は?」
「え、あー……じゃあ、はい」
僕はその男に連れられ、地下にある騒がしい店に入っていった。濃い赤色のソファに座らされ、しばらくすると、黒いドレスを着た女性が隣に座った。年は少し上くらいに見える。肩くらいの長さの黒髪で、毛先は軽くウェーブしている。フルーツみたいな匂いが鼻腔をくすぐり、一瞬で頭がぼんやりした。
「はじめまして。何か飲みます?」そう言って彼女は笑顔で話しかけてきた。すでに結構酔っている感じだ。
「……じゃあウイスキーで」
「飲み方はどうします?」
「飲み方? いや、そのままで」
「ストレート?」
「え……あ、うん」
彼女は話すとき、笑顔のまま、口が動かないのが特徴的だった。なんだか腹話術をしてるみたいだと思った。
こういった店に入るは初めてだったので、緊張しているのがばれないよう、なるべく落ち着いた口調で話した。ウイスキーを一口飲んで、一瞬で顔が熱くなった。
「近くに住んでるんですか?」
「いや、ちがうよ。旅行中」
「一人で?」
「まぁ、うん」
「もしかして、緊張してます?」
「いや、緊張してないよ」
僕の顔を覗き込んできて一瞬目が合う。少し切れ長で三白眼ぎみの目。酔っているせいか目元が赤くなっていて、肌の色が白いので赤いのが目立っていた。
「何してる人ですか?」
「いやまぁ普通に、大学生かな」
「大学生かぁ、いいなぁ。お兄さんイケメンだから遊びまくりでしょ?」
「イケメンなんかじゃないよ。それに大学なんて全然よくないよ、楽しくないし。何となく通ってるだけ」
「えーもったいない。せっかくのキャンパスライフなのに」
「そっちは?」
「わたし? 何もしてないよ。誘われたからなんとなくここで働いてるって感じ」
「楽しい?」
「んー、普通かな」
「そっか」
「ねぇ、わたしも何か飲んでいい?」
「あ、うん」
視線がばれないよう気を付けながら彼女を見た。大人っぽい雰囲気の人だなと思った。僕は黒いドレスが似合う人をこれまで現実に見たことがなかった。
突然目の前にやってきた整髪料でテカテカのオールバック男から、愛想の良い笑顔で話しかけられた。
「お客さん、延長しますか?」
「……はい」
尿意を催し、トイレに行く。そこには、おにぎりもなければ、破裂音もなかった。鏡の前の僕は酔った目つきをしていた。そして少しだけいつもよりかっこよく見えた。試しに水で髪をオールバックにしてみたが、全然似合ってなかった。
トイレから出たところに、さっきまで隣にいた女の子がいて、温かいおしぼりを渡してきた。一瞬、僕に気があるのかもという思いが脳裏をよぎり、すぐにばかばかしくなった。ちらっと左腕の裏側が見えたとき、古傷の跡が何本かあったのが見えた。
「こういうところ初めてでしょ」と彼女は聞いてきた。
「いや、前に友達と来たことあるけど」僕は嘘をついた。
「そうなんだ。でも本当は初めてでしょ?」
「……なんでそう思ったの?」
「なんとなく」そう言って彼女は歯を見せて笑った。
会計は二万円弱だった。手持ちが足りず、近くのコンビニのATMにおろしに行くことに。何も言わず後ろをついてくるオールバック男は、もう愛想良く笑ってはいなかった。僕は何度か暗証番号を間違えながらも、なんとか金を下ろし、支払った。
胸が騒めいたまま、あてもなく街を歩いた。どれくらい時間がたったのか分からない。
繁華街を歩いていると、先程まで話していた女性を見かけた。ふらふらとした足取りで、スーツを着た中年男性の袖をつかみ、楽しそうに話をしている。とっさに僕は顔を伏せた。彼女は僕のことは気にも留めず、雑居ビルの中に消えていった。僕はそのまま暫く街を歩き続けた。胸の騒めきはずっと消えなかった。
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